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2007年を振り返る(アメフト編)

2007年12月31日 | アメフト
「何かの真似になっちゃったんですが・・・」
そういって今年の3年生が持ってきたチームのスローガンは「NEXTAGE」だった。チームを次のステージへ、という思いが込められたこのスローガンを私は了承した。
アメリカンフットボールは決められた時間内により多く点を取ったチームが勝利するゲームである。チームの人数やプレーの習熟度を競う競技ではない。
だから今年のチームの結果(春2回戦、秋1回戦、新人戦1回戦)を見れば決して誇れるものではないし、単に「無名の弱小チーム」として見られたとしても全くその通りといわざるをえない。

ではチームは成長してないのか、というとそれは違う。

チームは間違いなく成長しており「NEXTAGE」に入った。そして2007年はそれを良くも悪くも実感した年であった。

それを実証したのが春季大会の慶応戦であったと思う。
私も含め選手も本気で慶応に勝とうと思っていた。
これまで遥か遠くにいた相手を自らの手で捕らえてやろうと思って臨んだ試合だった。
しかし結果は14-20だった。
負けは負け。何かが足りないから負けたのだ。そしてどれだけいい試合であろうと結果は2回戦負けである。相手が慶応であろうとどこであろうとその結果に変わりはない。
しかし一方で私は「やっとここまで戻ってきた」と感じていた。
慶応高校に1本差。
実は私自身が高校の時も慶応高校に1本差で敗れている。
8-14だった。慶応高校はその後関東大会を制した。
一方、チームは89年の関東優勝、95年の関東4位という輝かしい時代を経て辛い時代に入っていく。2000年からの5年間はチームの『存続』そのものがかかっていたと今振り返って思う。
何の余裕もなかった時代だった。

そういう時代を乗り越えて「戻ってきた」と感じていた。

もちろん負けてしまったのだから結果は満足いくものではない。
しかしやっと闘える舞台に戻ってきたという事実を私は感動を持って迎えていた。

そしてもうひとつ「NEXTAGE」の証左となったのは選手の人数増である。
現在二年生が18人、一年生が19人で計37名である。一学年の定員が240名で男子生徒が半分の120人と考えると実に男子生徒の一割以上がアメリカンフットボールを選んでくれたことになる。数年前までは三学年足しても18名しかいなかったのだから本当に喜ばしい状況だ。

「アイシールド」の影響という部分も否めないが、チームに魅力がなければ選手だって入部しようとは思うまい。誘う上級生の目がいかに輝いたものになるか、そのためには選手たちにフットボールの楽しさを伝えるかが勝負だということを心がけてきた結果だと思うと本当にうれしい。

しかし秋、新人戦と苦闘している。

チームの人数と結果が繋がっていない。
急激にチームが大きくなって血が通っていない部分というのが生まれていると考えている。
しかし、それも少しずつではあるが血が通いつつある。

チームの層の「厚み」を作っていくという新たな段階に入ったと感じている。

私たちのチームは確実にステージを年々上げてきている。
「出来ない理由」というのを一つ一つつぶしてきている。

ただ、結果は出ていない。

そろそろ結果を出す必要があると思う。
そんなことを考えながらヘッドコーチ5年目、2007年は終わろうとしている。

追記:2007年はXリーグ、大学を含めて1試合も会場で観なかった。観たのはワールドカップのみである。こんなことは大学卒業以来初めてだ。理由は単に行こうと思ったらスケジュールが合わなかったとかそんな程度だがこうなったらライスもテレビで観てみようかな、と思っている。案外、いいかもね。

2007年を振り返る<家族編>

2007年12月31日 | 生活
忘年会で卒業生のマネージャーに「最近つまらない」と毒づかれたこのブログ。本当に気分が悪かったのだが、ま、いいや。それより今年を振り返りましょう。

<家族編>
なんといっても家族の中での最大の出来事は父の他界であろう。肉親との死別は遅かれ早かれ誰もが経験することだし、もう2年くらいは入退院を繰り返していたので覚悟は出来ていた。だから死そのものよりもそのの前後の出来事の方が思い出される。う~ん、どこまで書いていいものか・・・。前にも書いたが父はもう私が物心ついたときにはここ鎌倉では生活をしていなかった。正月や家族の誕生日などには「来る」ことはあっても必ずその日のうちにどこかに「帰って」いった。一体どこでどんな生活をしているかは不明だったし、家族の誰も詮索しようとはしなかった。とりあえず生活はさせてもらえていたし、私だって人より長い浪人もさせてもらったし大学の授業料どころか体育会でアメフトまでさせてもらったので、そういった意味では全く文句のつけようがなかった。しかし何せ一緒に生活していないものだから他界してその後の片付けが・・・どこから手をつけていいか分からない。手繰り寄せるように、また偶然も重なって、出てくる出てくる。あらゆることが氷解していき、父の本当の姿というのが少しずつ見えてきて・・・それを片付けて・・・するとまた別のところから出てきて・・・片付けて・・・の繰り返し。まるでパンドラの箱が次から次へと出てくるかのようだった。
「あのときのあれはこういう理由だったのか~っ!」ということの連続だったし「生前お父様には大変お世話になりました」という人が出てくる・・・だけならまだしも「生前お父様に大きな貸しがあります」という人からの「呼び出し」も幾度かあった。父がいた業界が業界だけに身の危険を感じながらもその呼び出しに応じてきた。フットボールのサイドラインで身につけた「緊急時の冷静さ」がこんな時に役立つとは思わなかった。
生活拠点は数箇所におよび、それぞれから懐かしい遺品も全く知らない遺品も出てきた。一緒に生活していた方々は一様に父の生活ぶりを口にし、私たち家族が知らない父の「生活の癖」を教えくれた。その話を聞くたびに私は彼女たちになぜかお礼を述べていた。

父は何でも取っておく男だった(もちろん鎌倉の我が家には何もないが)。靴の箱、家族の写真、中学生の時に集めていた切符、領収証、会社の資料・・・ともかく何でも几帳面に取っておく。散らかしっ放しの私とは正反対だ。やめときゃいいのに女性からの書簡も丁寧に束ねてあった。中を開けばリアル「失楽園」であったりした。息子としてはあきれるばかりである。しかし、最後の最後に救いがあった。山積みになった段ボール箱の残る一箱から出てきたものは・・・父と母の中学時代の交換日記だった。

父との最後の思い出は6月の箱根旅行だ。
父から言い出したこの企画、最初はGWにということだったが私はチームが春季大会の最中である可能性がある(勝つつもりだった)ので延期してもらっていた。
実際には父がそれほど早く他界するとは思っていなかった部分もあるのだが、今思えば6月に行っておいてよかった。
そこで私は生まれて初めて(いや幼少にころにはあったかも知れないが)父の背中を流した。
「小さくなったな」
「そうだな。すっかり痩せちまった」
そんなことを言って病身の父の背中をさすったのを覚えている。

父は死んだ。
でも、そもそも父と生活していなかった私たちの生活のペースは全く変わらない。
いつもと変わらない年末。
ただひとつ違うのは、今日大晦日に墓参りに行くというだ。
父の眠る大庭霊園へ「片付け」の報告をしに。

スティック

2007年12月27日 | 生活
スティックボウルの神奈川選抜の練習を見学させてもらった

…て、もう休みに入っちゃいましたから。

で、感想。

まず頭が下がるのは各スタッフ。自分のチーム、他のチーム関係なしに熱く指導なさっている。毎年のことながら改めて感謝。

そして、やっぱり強豪と呼ばれるチームの基礎力の高さが目立つ。

さすがに違うな、というプレーが多かった。

とはいえ、チームとしては試合まで時間があることもあってか、ちぐはぐなところも目立つ。

これからどんなチームになるか楽しみ。

…て、傍観者だから言えるのだな。きっと。

ぼくたちの失敗

2007年12月25日 | 生活
結局サンタは娘に『こなぷん』を持って来て…

何故か家にはバランスボードが増え…

早速こなぷんをやってみた娘は片付けが面倒らしく

案の定。

キレてたとさ。

そして夕飯どき上の娘のどっきり発言。

「サンタさんてホントにいるのかなあ?」

だって。


溜飲メリークリスマス

2007年12月24日 | 生活
今年最後の練習試合。

まだまだ…とはいえ、最近負けが続いたので多少溜飲が下がる試合。

つーか、すげえ驚いたのは某大学のスタッフが観戦に来たこと。先週の木曜日にやっと相手が決まった試合だっつーのに一体どこで知ったの…?

ま、いっか。

今年最後の鎌高で見た風景は見事な富士山。

素晴らしい。

写真にするとちっちゃくなっちゃうんだよね~

喪中

2007年12月21日 | 生活
そういえば我が家は喪中。

喪中ハガキを出したが、結構戻ってきた。

明らかに古い住所で出したのは自分のミスだが。

全然引っ越したことも知らない人のが戻ってくると心配になったりする。

例えば高校時代のチームメイトR。

一軒家を買って・・・その住所で登録したのに・・・?

転勤もないはずだし・・・あっても引っ越すことはないし??

おーい!どこ行った~?りゅーじぃ!

あ、言っちゃった。

無性に

2007年12月19日 | 生活
食いたくなるんだよね~

『五行』の味噌ラーメン。

黒いのは「焦げ」です。

うまかった…