intoxicated life

『戦うやだもん』がお送りする、画日記とエッセイの広場。最近はライブレビュー中心です。

アンチ・テキスト論

2008-12-05 | ライフサイクル
所用があって東京モドリ。品川の京品ホテルには全国ユニオンからの応援メッセージが並んでいた。ただ、今日の段階で営業(自主営業)していたのは「いの字」のみ。そのいの字も、クレジットカードが利用できないなどの不便があるようだ。また京王では、国領が島式ホームになっていたのに驚いた。調布も駅高架化が完了。「あの建物は前なんだったっけな」現象である。


機内でずっと考えていたことがひとつ。いわゆるテキスト論についてだ。たとえば、未婚・子なしで30を迎えた女の心境を諧謔的に綴ったのは酒井順子だが、それを恋愛至上主義からの刺客かのようにあえて誤読したのは本田透である。次元は異なるが、ナチ時代に映画という芸術作品の美を追求したのはレーニ・リーフェンシュタール『オリンピア』だが、その美意識をナチズムの美(特にアスリートの健康美)と関連づけたのはゲッベルスであり、映画の観衆である。


どうしても解せないのは、ある作品が作者の意志と無関係に扱われることが本当にアリなのか、ということだ。勝手にいじくんなよ!と。リーフェンシュタール自身は「ナチスの思想には共鳴していなかったと生涯主張していた」(飯田道子『ナチスと映画』)にもかかわらず、戦後はある種戦犯のように扱われた。酒井順子も、オタクから見ればいわば「政敵」だろう。しかし、彼女自身は必ずしもオタク男性を貶めるような意図はなかったと『性愛格差論』で明言している。にもかかわらず、彼女たちはそれぞれの「罪」を背負い込まなければならないとすれば、どうにも納得できない部分が残る。


テキスト論に対して僕が抱えるこの違和感は、自己責任ということばに置き換えればある程度説明できる。つまり、Aさん宅にドロボーが入った。悪いのは明らかにドロボーなのだが、世間は「用心していなかったAさんが/も悪い」とのたまう。この<が/も>のニュアンスは大切で、酒井さんやリーフェンシュタールを罪人扱いする人間ほど、「が」を使いたがるように思われる。しかし、それって本末転倒じゃあるまいか?


性善説に過ぎることは自覚しているつもりだが、それでもやはり僕には彼女たちの「罪」を責めることができない。少なくとも、同情心を抱いてしまう。せめて存命であるうちぐらいは、作者の言っていることとテキストを切り離して考えるのはやめにしてあげられないものか。もっともこれは、創作活動によって収入を得ている人間の定めなのかもしれないが…。



MUSIC:Brainwascht/Ben Folds

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2 コメント

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Unknown (Tommy Heiss)
2008-12-05 08:07:50
えーと、東浩紀の誤配に関するテクストが参考になるでしょうか、なりませんか?
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トミー様 (おがつ)
2008-12-31 11:12:22
はい、誤配論にもかなり通じます。
『リアルのゆくえ』なんかを読んでも、
大塚英志にばかりシンパシーを感じてしまう、
自分のモダニストぶりにややうろたえています。
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