フリーターが語る渡り奉公人事情

ターミネイターにならないために--フリーターの本当の姿を知ってください!

フリーター≒おじろく・おばさ?

2007-03-12 07:57:56 | Weblog
まず、「おじろく、おばさ」のリンクを。
http://psychodoc.eek.jp/abare/ojiroku.html

このおじろく、おばさというのは、日雇い派遣ワーカーや、同世代の失業者たちといかに似ているか。

こういう立場・役割につくと、人は「自然」にコミュニケーション能力が低くなったり、希望や欲望を抱かなくなったりすることが分かる。

もちろん時代も地域も違うので、すべて同じというわけではない。
それでも、自分も日雇い派遣ワーカーとして働いているときには、これに近い状態にあった。
仕事場では人との話はほとんどない。以前使っていた言葉を忘却する日々がただすぎてゆく。
当然、正社員の人たちにまくし立てられると、とても言い返せない。以前よりも頭の回転が鈍くなる。自分が乱雑にしか動けないロボットになったような感触がある。いわゆる「不自然」として中産階級や学校の文化では忌み嫌われる存在となる。

本田由紀は研究会職場の人権の定例会にやってきたときに、「高学歴者のほうが自然なコミュニケーションができる」と報告している。
これは、現在日本の低学歴者が、おじろく・おばさとまではいかない。だけれども、半分くらいはそれと似た生い立ちをしていたり、社会的立場をもたされているという示唆ではないかとわたしは思うのだが、読者は?

(この記事はこのあと補修工事を行います)





最新の画像もっと見る

11 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
高学歴者 (banana)
2007-03-14 20:13:26
のほうが、自然な・・・ってできるでしょう。

リンクをのぞく気力もないですが、3k職場では、希望や欲望(はある。チャリのお姉ちゃんのパンツがみえたぞ!みたいな)、そしてスキルアップ・オン・ズテージみたいなチャンスはないです。私も、新聞をとるのを辞めました。PCでも、ブログも自分のと、もう一人のだけを開けるようになって行きました。後は調べものだけです。

そうした作業員の中でも、仕事を職人並みにきっちりやるという人々、彼らは強固なチームワークを造っている。一方、どうせ・・・といって自堕落にすごす作業員がいます。共通しているのは、彼らは、そして現場では自分も、能弁ではなくなります。そう、4ヶ月はかかるでしょう。

僕は、チームワークの彼らに熱いものを感じたのです。かっこいいです。

一方、インテリは、共通の言葉をもっているのです。つまり安心感を持っているのです。

ちなみに、作業員の若い人は、あまりのきつさに、ほぼ1日で辞めたといいます。彼らはどこへいくのだろうか。

一読者の狭い経験からの一言です。
返信する
学歴(アウスビルデュング)とは無関係 (pfaelzerwein)
2007-03-14 23:00:40
ご無沙汰しています。「自然なコミュニケーション」とは厳格に何を指すのか解らないのですが、就学年数の相違は、発言力・表現力の相違となるとするならば理解出来ます。しかし、これはご存知のように日本の受動的教育には当たらないですね。論文か何かのプレゼンテーションになって、歴然と無力感に浸る者が多いようです。

初等教育からして一方方向で、これを重視していないのに、どうして急に「コミュニケーション」能力が備わるのでしょう。それが備わっておれば一方的な「虐め」や「敗北」は存在しないでしょう。

「自然な」は、「理に奔らず、情に流されず」を指すと想像するのですが、これはどちらかと言えば教育の薄い実際家の得意とするもので、中途半端に学(半教養)のある理論信仰家や実感信仰家が最も不得手とするものですね。

これらより、「自然なコミュニケーション」能力は、学歴(アウスビルデュング)とは無関係で、むしろ教養(ビルデュング)と呼ばれるものと考えます。

教養が存在しないのと同義でもある封建制度における下層階級の例は、現代においては義務教育制度によってその存在を否定されている訳です。つまり、如何なる出所や生い立ちに係わらずに、それを身に付ける権利を有していますが、制度は絶えず鍛えていかないと張りぼてのように空洞化してしまいます。もし、初等教育において、アドルノの指す上のような半教養(ハルブビルデゥング)を身に付けられないとすれば、教育を受ける権利を充足させていないことになるでしょう。しかし義務教育や学校教育がそもそも教養を目標としていないとすれば、「自然なコミュニケーション」能力が学歴によらないのは当然の結論ですね。
返信する
コミュニケーション能力は環境の差では? (きょろ)
2007-03-16 20:29:50
 おひさしぶりです。きょろです。
 いつも覗かせていただいておりました。
 私はあんまり学歴ないです。今は1年契約の嘱託で事務をしています。他に教育関係の研究会、市の審議会の委員とかにも所属しています。
「自然なコミュニケーション」は取れているんじゃないかと思います。
 大卒でもコミュニケーション能力ない人もいます。
 商店会の会長でもまともに意見言えない人もいるし。
 
 個人的にはお弁当屋さんに勤めているときが辛かった。ワタリさんのおっしゃるとおり、自分が愚鈍なロボットのように思えてくる。自分で自分の評価が下がって人と「自然な」(ってどういうことだろう?)コミュニケーションができにくくなる。なんというか卑屈になっていきますよね。
 今の仕事に変わってから、序々にかいふくしましたが。

 仕事って継続していくと何らかの発見があると思います。bananaさんのように。
 日雇いで毎日違う職場に行かなければならないとなるとその積み重ねたことによる発見ができないと思います。そこから自分に対する評価が下がって「こんなこと言うと笑われるかも」と考え、結果として「不自然」なふるまいがおきるんでは?(私がかつてそうでした)

 ホームレスの人と話したとき、日常的な質問でも返答に3時間位かかることがあって、苦労しました。
 一方で小学校で不登校、学歴は中卒ですが、ものすごくコミュニケーション能力の高い友人もいます。要は学歴に関係なくその人を取り巻く環境だとおもいます。
 ただ学歴の低い人ほどそのような環境に陥りやすいという傾向の日本社会がヘンだと思うけど。
返信する
不自然? (KKK)
2007-03-23 01:27:13
うす。
居酒屋で低賃金で働いてる低学歴者すけど、自然なコミュニケーションには困りませんよ。何が自然なのかわかんないすけど(笑)。発展途上国とか学校行ってなくてもコミュニケーションは立派に取れると思います。上の方も言ってますが、環境ですよね。
返信する
Unknown (武州無宿・健次郎)
2007-04-09 02:45:58
はじめまして。むかし「オルタナティブ大学」とはトラックバックの交流があったのですが、こちらとはご縁がなかったようですけれども、ときおり読んでいます。

ことばによる左脳的なコミュニケーションなら、左脳重視の高等教育を受けた者が、より高度なコミュニケーションを取れる可能性はあるかも知れません。しかし、右脳的な非言語的(ノンバーバル)コミュニケーションについては、むしろ減退することも否定できません。こういうの、ぼくは「左脳でっかち」と呼ぶんですが(笑)。

個人的な印象ではブルーカラーと呼ばれる層は、ふだんから身体を動かしているせいでしょう、身体の使い方がうまく、しぐさや態度や行動といった身体を使ったコミュニケーションが上手です。これはまた知性・理屈(=左脳)よりも感情・情緒(=右脳)を優先したコミュニケーションができることでもあり、人間は感情の動物であることから考えても、むしろコミュニケーション能力は優れているとも思えます。

学歴か環境か、というのなら、ぼくは「性格」だと思いますね。ことばのコミュニケーションが得意な人もいれば、身体のそれが得意な人もいる。ぼくも現実の世界では会話が苦手でしばし黙りこくってしまうことも多いのですが、相手が右脳型でうまくすると、いわゆる「ツーカー」のコミュニケーションができるようになります。まぁ左脳型、右脳型、それぞれにコミュニケーションの方法がちがうということではないでしょうか。
返信する
コメントへの違和感 (元倉庫労働者)
2007-04-10 13:13:10
本エントリーで提起されている下層ワーカーのコミュニケーション不全の問題は、
雇用・労働市場における上位層から下位層への刷り込みとそれに対する適応の結果生ずるもので、
学歴との相関性は雇用・労働市場を介した間接的なものに止まるのではないでしょうか。
しかし、学歴が雇用・労働市場の入口で決定的な役割を果たしているのは事実です。

個人の生来的資質でなく、社会的・力学的関係がコミュニケーションのあり方を規定する。
一方的な強制力が働く関係下に長期間置かれた場合、
下位に属する者のコミュニケーション能力は反発から
諦め、合理化、正当化というプロセスを辿って、最終的に言葉を失っていくことがしばしば見られます。
恐怖による萎縮から廃用性萎縮への過程と見ることもできます。

上のbananaさん以外のコメントはコミュニケーション能力を個人の責任に委ねている点で、
「自己責任論」に通じる違和感を覚えます。
それは問題の本質を外しているように思うのですが、いかがでしょうか。
返信する
過去と他人は変えられない (武州無宿・健次郎)
2007-04-13 21:14:53
性格というなら資質半分、環境半分が心理学的な通説と記憶しています。学歴による社会的・力学的関係ということであれば、それもまた環境のひとつで、それによってコミュニケーションを規定されるのはおっしゃるとおりだと思いますし、その環境(=学歴による社会的・力学的関係)に問題はありましょう。

しかしながら、すべてを環境の責任にしてしまった場合、自己改善あるいは自己受容のきっかけを失います。新自由主義者のいう「自己責任」なんざクソ食らえ(失礼ッ!)ですが、「自由意思による自己決定」によって自らに働きかけるチャンス、環境を別の視線で見るチャンス、今の自分を受け容れてゆくチャンス、そういった機会がすべて失われてゆく。それはもったいないと思うのです。

西洋のことわざに「過去と他人は変えられない」というのがある。単に他人を変えようとするのは非常に難しい。まず自分の中から変化を起こして接し方を変えたほうが、はるかに他人を変化させやすい。すべからく人間関係は、そういう力学の上に成り立っているのではないでしょうか。
返信する
はじめまして (アクセル)
2007-04-20 22:00:55
健次郎さんのブログのファンで、健さんがコメントされていたので思わずレスさせていただきます。

おじろく、おばろくの背景、原因は9割がた「経済」です。社会というのは、経済規模にみあった人口を維持しようと規範を働かせます。
明治くらいまであった乳児の間引き、高齢者のうば棄てに準ずる村社会が生産規模に合わせて人口を調整しようとする働きが、村の生産力をオーバーする次男以下の存在に生涯独身で家督をついだ長男の生産を補助し最低限のコミュニケーションしかとらないおじろく、おばろくを強いたのです。
鉄道開通による移動の活性化(他地域で成長する産業への出稼ぎが可能にになったこと)というイノベーションが、おじろく、おばろくを消滅させたということがコミュニティ・人口・生産力の関係を表していると思います。
返信する
おじろく、おばさでしたね。 (アクセル)
2007-04-20 22:19:38
失礼しました。

あまりひとりひとりの生活には縁がないように見えますが、産業革命(鉄道、工業の勃興)クラスの社会変化があると、今まで食べられなかった人が食べられるようになったり、その逆が起こったりしてコミュニティやコミュニケーションのあり方が根本的に変化します。

おじろく、おばさという存在は、何百年も続いたのではないかと思いますが、遠い街に産業があり、鉄道による移動が可能になってはじめて、自らの「この村を出ていく」という意志と行動が、村を出ても食べていけるという現実とコミュニケーション能力の獲得を可能にしたのだと思います。
返信する
遅れまして… (ワタリ)
2007-06-12 21:42:06
bananaさん、pfaelzerweinさん、きょろさん、kkkさん、 武州無宿・健次郎さん、アクセルさん、いらっしゃいませ。

レスが大変遅れましたが、お返事させてください。

bananaさん
>高学歴者のほうが自然なって……できるでしょう

どうも、本田さんのおっしゃる「自然なコミュニケーション」というのは、二つの意味があると思うんですね。
察するに一つ目には、日本人らしい、中産階級っぽいということ。ホワイトカラーらしいと言ってもいいでしょう。つまり、日本社会の主流の文化になじんでいることを言葉の面から示せることではないでしょうか。
二つ目には、高学歴者らしいというニュアンスでしょう。いかにも余裕があって、先生の前で極端に緊張したり気を使いすぎて二重敬語を使ってしまったりしないということでしょう。低学歴者が本田由紀さんのような東大で博士をとった人の前に出ると、ふだん出会わないグループの身分の高いかただけに、失礼にならないかと異様に気をくばったり、何を話したら相手に通じるだろうかと躊躇してしまうのは、無理のないことだと思います。
そういった観察者によるバイアスも彼女の発言の背景にはあるのではないだろうかと私は見ています。

>pfaelzerweinさん
お久しぶりです。またこうしてお話できることをうれしく思います。

>教養が存在しないのと同義でもある封建制度における>下層階級の例は、現代においては義務教育制度によっ>てその存在を否定されている訳です。つまり、如何な>る出所や生い立ちに係わらずに、それを身に付ける権>利を有していますが、制度は絶えず鍛えていかないと>張りぼてのように空洞化してしまいます。

このことは、義務教育制度の空洞化によるものではないと思います。たとえ教育があったとしても、その後の職場の環境、そしてその職につくことによる社会的な排除状態が存在しなければ、主流社会とさほど違わないコミュニケーション・パターンが検出されるはずです。
わたくしども日本における日雇い派遣労働も、長らくその存在を社会的に認知されませんでした。フリーターは遊び人、仕事も人づきあいも大切にしない・サボりたいだけの反倫理的な連中だと、主流社会は長らくフリーターのむなしさ・くやしさ・人としての誇りを切り刻んできたのです。
精神科医の香山リカ、評論家の内田樹などが典型ですが、若者が等身大の自分像を描けないからとか、幼児的万能感が強いので正規雇用されないで社会不安となる、といった説明をしてきたわけです。
そして、自分で調査もせず、そのバカバカしい情報をうのみにしている情報消費社会の適応者らは、豊かな消費生活など送れないフリーターに自らの姿を投射し、非難・侮蔑してきたのです。
これでは「社会には何を言っても仕方がない」「言うだけムダ」といった意識になってもムリもないのではないでしょうか?
もちろん、学校・大学(それに塾・家庭)という子ども・若者専用の「寄せ場」に、人を長らく(半)閉じこめ状態にして、社会との絆を奪ってきた義務教育と高学歴化も批判されてしかるべきです。そのあいだ、ヒマならば刑務所類似環境でお勉強を、といっても、大方の子どもたちにとっては、耐え忍ぶだけの時間になっているのではないでしょうか?
(高学歴化の伸張した高度成長期に、同時に山谷・釜ヶ崎といった日雇い労働者のすみわけ地帯が膨張したことは忘れてはならない歴史の教訓といっていいでしょう。)

>きょろさん
そうですね。実際、本田さんの発言は、高学歴者がペーパーテストのみならず他のすべての点で優れているという錯覚・偏見だとわたしは思っています。
こうした低学歴者・労働者階級・下層階級への偏見は、文化社会学・教育社会学といったジャンルの“お家芸”のようです。
ウィリスの「ハマータウンの野郎ども」という本があります・教育社会学の名著として、そのジャンルでは現代の古典のように評価が高い本です。
それを見て、労働者階級への中産階級の激しい見下し意識におどろき、あきれた記憶があります。
どこまでも観察対象を同じ人間だとみなさないのです。
そして、労働者の子どもは、若いころはともあれ、やがて労働者の世界に嫌気がさしてくると報告します。しかし、職場の衛星・安全環境の改善とか、賃金・保証などの問題には触れないのです。そして、ホワイトカラーの職に学校を通じて進出できればいいとか、失業者がいるのは宿命的なことだからあまり大騒ぎしないほうがいいんじゃないかといった「提案」がついているわけです。
アホか、と思いますが、ガクシャには労働者の体の安全・健康よりも、適切な給与や保障よりも、学校で優等生になって出世することしか頭にないことは、うかがえます。
彼ら・彼女らは、決して学校とは別のルートで職につき、生活できる教育や訓練や賃金や保障や職場環境を作らせようとしないのです。

こうした批判をできるのは、わたしが大学・院を出ていないからです。連中と馴れ合っていない。そして、失業中、親福祉を受けられる立場をよいことに、専門書も読み、実際の体験から別の角度の意見を言うわけです。
専門家はこういう中卒のたわごとなど信じないでしょう。それでもいいのです。
こういう在野の位置からの情報も、世の中全体にとっては必要ですから。

長くなるのでいったん切ります。







返信する