フリーターが語る渡り奉公人事情

ターミネイターにならないために--フリーターの本当の姿を知ってください!

河原乞食にお恵みを

2005-10-30 18:39:12 | Weblog
この記事はもじれの日々へのトラックバックです。

♪右や左の旦那さま~、河原乞食にお恵みを~♪(鴨川の河原で琴の生演奏をやるときには、この口上を唱えて小銭を集めております。なお芸は売っても身は売っていません、あしからず。)

本田さん、お久しぶりです、ワタリです。
ところで、わたしのブログにて、次の質問が寄せられました。

>地方では (G)

>2005-10-29 00:44:42

>例えば1~2年前、鹿児島県川辺町では町教育委が国語の副教材に教育勅語を採>用しました。

>南日本新聞(鹿児島の地方紙)ではここ数日、「○○町(市)で治安パレード」
>というような記事が地方欄に載ります。こういったイベントは普通、国民精神総
>動員的なムーブメントと解されますが、私の住む鹿児島では、イベントによる共
>同性確認的な意味あいが強い気がします。(逆に言うと、地方でも地域共同性は
>崩壊しかけていることを改めて示している)

>ま、出てないから何とも言えないんですが、大家のじっちゃんの話から想像する
>に。

>それにしても、戦時下では、こーやってのほほんとしている間に、東京から軍人
>が派遣されて組織ごと乗っ取られたんですかね。それとも、教育勅語の教育効果
>+在郷軍人の動員が効いたんでしょうか。戦前との類似性が指摘されるなら、戦
>前どのように国民が動員されていったかをミニマムなレベルで明らかにする必要
>があると思われます。そのうち、親戚のオバサンに聞き取り調査をしたいな…

>ワタリ@管理人さんは、そんな本ご存じないですか?

いろいろ本も読みたいのですが、先立つものが不足していたり(遠くの図書館に行くための交通費も出ないこともある)、 情報消費のやる気もうせたりしています。最近では面接の緊張による肩こりがひどいところにぜんそくの発作も重なり、とても本を読める状況ではありません。
どなたかGさんの質問に答えられる方、コメント欄に何か書いてくれませんか。文化資本の高いかた、資本低きものにお恵みを。
お願いしますm(_ _)m。





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4 コメント

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戦前の日本 (名前はまだ無い。)
2005-11-01 21:42:16
今晩は♪



 私は、本を読む習慣もないし、文化資本も皆無に等しいです。ですから、既に、ご存じのこと思いますし、あまり役立たないかも知れませんが、思考の際の予備知識的なことを記載させて頂きます。的はずれになっていなければよいのですけど・・・





 戦前という言葉は非常に曖昧ですね。終戦(第二次世界大戦)以前を指すことは確かですが、どこまでさかのぼるべきかはっきりしません。人によっては、明治維新後から終戦までの世情をほぼ同じであるかのように考えている方もいるようですし、戦前イコール悪という考え方も根強いです。ここでいう、「戦前と似ている」というのは、おおざっぱでが、柳条湖事件(1931(昭和6)年)の始まる少し前の時代と考えるのが適当と思います。1932(昭和7)年には5・15事件が起きています。この辺から、日本が目に見えておかしな方向に向かったというのが歴史の通説といったところでしょうか。



 大正デモクラシーという言葉が生まれたように、日本は比較的言論や思想信条の自由が認められていた国です。それが、徹底的に弾圧されるようになったのは、1925(大正14)年の治安維持法の公布以降です。この法律は、その都度、強化されています。



 教育勅語についてですが、現在の教育に持ち込むことは、適当とは思えませんが、勅語の内容自体は、素直に読み解けば、特に大きな問題のある内容ではありません。これを悪用したり乱用するとにより、悲劇を生む可能性のあることは容易に想像ができます。しかし、これは、改革が悲劇をもたらすのと似たようなもので、理念が正しくても、具現化の過程を誤ると悲劇が起きるのと同様です。



>それにしても、戦時下では、こーやってのほほんとしている間に、東京から軍人が派遣されて組織ごと乗っ取られたんですかね。それとも、教育勅語の教育効果+在郷軍人の動員が効いたんでしょうか。戦前との類似性が指摘されるなら、戦前どのように国民が動員されていったかをミニマムなレベルで明らかにする必要があると思われます。 



 すべては知りませんが、軍人によって組織が乗っ取られるようなことはなかったと思います。 解体された政治結社やそのたぐいは沢山あったと思いますが、それは、主に特攻(特別高等警察)や軍人といっても憲兵の仕事です。教育勅語の効果についてですが、国民が団結し、事に当たるという意味において、効果があったと考えることができます。しかし、思想的には、挙国一致、八紘一宇、大東亜共栄圏といった標語のもたらした効果の方が大きかったと思われます。これらの言葉が盛んに叫ばれたのは、1940年に入ってからなので、国民が動員されていた期間はとても短い期間です。精神面の動員ということでは、大正デモクラシーが終焉を迎えたころから、思想的な多様性が失われていったことが原因と思います。当然、治安維持法の効果も大きかったと思いますし、報道のもたらした影響も大きかったはずです。



 一方的に国民が動員されることは、日中戦争の雲行きが怪しくなり、1938(昭和13)年に国家総動員法が公布されるまではなかったはずです。精神的な面における動員は、政府がしたと考えるよりも、そういう政府を選んでしまったという方が正しいのかも知れません。そして、その時は既に後戻りできない状態です。知らず知らずのうちに、あるいは、うすうす気がついてはいても、黙認してしまったために危険な状態に陥ってしまうことが、多々あるように私には思えてなりません。



 制限選挙制であったとはいえ、当時の先進国並みの選挙制度のもとで、結果的に国民が戦争に駆り立てられ、異を唱えることのできない世の中にしてしまった事実があります。この点については、常に心にとめておく必要があると思います。





>そのうち、親戚のオバサンに聞き取り調査をしたいな…



 これはよいことだと思います。70歳を過ぎている方なら、今でも教育勅語をそらんじることができる方がかなりいると思います。





戦前と現在の似ている点を列記しておきます



・与党勢力の肥大化(与党と野党の違いが分かりづらい、分かるところはあまりにも少数)

・財界が政治にくちばしを挟む

・貧富の差が拡大している

・地方の疲弊(戦前は昭和恐慌後、都市部で景気回復に向かうが農村は疲弊し続け、クーデターの一因にもなった)

・報道に客観性が乏しい

・戦争を体験していない国民が多い



以下は少しこじつけがましいかも知れませんが

・言論の自由が制約されつつある

・近隣アジア諸国との摩擦

・軍事国家との親密な関係

・多くの国民が強権的な指導者を求めている

・安易に交戦できる国家を求める国民が多くなった





 最後に!

 本を読んで知識を身につけるのは大切なことかも知れません。ですが、本に答えを求めるのことは危険もつきまといます。ともすれば自分の気に入る答えのみを拾い集めてしまう危険もありますし、いくら高名な学者が記載していても、それが正しいのかは分かりません。自身で、思考し答えを導き出す方がよいと思います。お金もかかりませんしネ・・・汗

 本を読むのであれば、答え合わせのつもりで読むといいと思います。 本が間違っている場合も多いと思いますよ!



 以前、文系と理系に関する記述がありましたが、文系でも、こういう勉強の仕方なら詰め込み型にならないと思います。研究段階になれば、文系も理系もそれほど違いがないということです!



ワタリさん、お大事に!
返信する
Unknown (ワタリ)
2005-11-04 08:17:40
>名前はまだないさん



文化資本がまったくないわけじゃないでしょう。ちょっと謙遜しすぎ?



コメントをありがとう。



返信する
戦前の日本-2 (名前はまだ無い。)
2005-11-14 00:31:06
 みなさん今晩は♪

 ワタリさんは、体の調子が悪い上に、PCが壊れるなんて、泣きっ面に蜂になってしまわれたようですね。どちらも早く回復することを心よりお祈り申し上げます!



 前回のコメントは、戦前の動員について、あまりにも突飛な仮説(教育勅語、軍隊の介入)が併記された質問であったことことに加え、ワタリさんもその質問にエントリーを儲けてまで気遣いなされていたので、僭越ながら、国民が戦争へと総動員されたのは、必ずしも教育勅語や兵隊の介入によるところが大きかったのではない、ということを中心に、動員されていた時期や期間も、極めて短い期間であったことを記載するに止めました。それ以上記載すると、私の知るところは極めておおざっぱなので、無知を誇示するだけの恥ずかしい結果になってしまいますので・・・汗



 しかし、それでは説明不足なので、恥は書き捨て! ということで、背伸びしてもう少し詳しく記載してみます。以下に記載することは、私の拙い知識と浅慮な考察でなので、極めておおざっぱです。なので真に受けすぎないで下さい。歴史認識はいろんな考え方がありますし。それから、詳しい方がおられましたら、補足して頂けると嬉しいです。よろしくお願いいたします♪





 戦前、国民を動員しやすくする過程は大まかに三段階(思想善導・精神作興・国体明徴)に別けられると思われます。そして、戦争貫徹のために挙国一致体制を作り上げるために、国策が関わったことは間違いのない事実でしょう。しかし、いつからそのような意図が存在したのか、明確に解明することは容易ではありません。



 いずれにしても、最初の段階は、教育における善導教育だった思われます。その一環として教育勅語もありますが、むしろ、乃木希典、二宮金次郎(二宮尊徳)などが教育の現場で持て囃されたような、模範的な人間のお手本を取り上げ、よいことは率先して行う、「模範となる立派な大人になりましょう」という教育効果の方が大きかったようです。当時の感覚なら、乃木大将も、二宮尊徳も立派な人間と考える人が多かったと思いますが、偶像化し持ち上げすぎるのは危険です。これでは、画一的な人格形成になりかねません。しかし、この程度の思想統制では、戦争貫徹のための挙国一致体制にはなりません。また、そもそも、それを目指しての教育ではなかったと思われます。



 二つ目の段階は、国民精神という言葉に代表されるような精神作興です。1932(昭和七)年には、文部省に国民精神文化研究所ができ、学生課が思想局になったことで、国がいかに精神作興に力を注いでいたかうかがえます。これは、端的にいうと日本人はより日本人らしくという思想なのですが、あまりにもも曖昧です。しかし、思想を統制する上で、「国民精神に反する」という言葉で、言論を封殺できるという点で思想統制をする側には都合のよいものでした。そして、より右傾化した言論が支配的になり、やがて言論界から思想的な多様性を奪う結果になりました。時期的に、これに関わった中には、将来国民を総動員することを考えていた者もいたと思われます。



 第二段階の集大成として、国体明徴運動が起こり第三段階へ入ります。この時期、天皇機関説も広く支持されていましたが、最終的には1935(昭一〇)年の国会決議により、天皇機関説は唱えることができなくなりました。ここで、注目したいのは、右傾化していく日本の中でも、国体に対する様々な考え方が存在し、天皇機関説を唱えることも可能だったということです。とはいえ、弾圧されたという事実をみれば、天皇機関説は、国民を動員したいと考えていた者にとって目の上のたんこぶだったのでしょう。



 国体明徴運動が一定の成果を上げることで、国民が動員される体制が整ったと解釈することもできます。しかし、まだまだ、知識層、思想家、政治家の間で、思想的な統制がとれただけであり、一国民を国家権力で容易に動員できるような気運には達していないと考えた方がよさそうです。



 では、具体的にどのような方法で、個々の国民が動員されたのでしょうか。



 この先は、折りを見つつ、気が向いたら記載することにします。少し、調べ物をしないとうまく?書けそうにないともいうかも・・・滝汗





 前回、戦前と現在の似ている点を列記しましたが、重要な物を忘れてしまいました。それを付け加えておきます。



・社会の形骸化が進んでいる





 今宵は以上です♪
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なるほど (ワタリ@管理人)
2005-11-17 22:02:02
名前はまだないさん、いろいろと情報提供をありがとう。わたしもよく分かっていないこともあったので、いい学習になります。
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