オルタナテイブ大学on blog より転載。
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貧しさは道徳的な悪か?
開発・貧困 / 2004年10月27日 01時58分50秒
貧しいから悪いのか? 難しい問題だ。
一口に貧しさといってもいろいろある。
自分の意思によって選んだ貧しであれば、あまり苦痛ではないし、周りの軽蔑も少ない。そうでなければ耐えがたい。
また、時代や地域によって、貧しさへの見方は星の数ほどある。
それが罪悪視されるようになったのは、勤勉道徳が一般的になる近代以降だろう。
貧しさが一律に罪悪視され、断罪され、侮辱される文化環境はマトモなのか?
インドの行者への尊敬、四国88箇所のお遍路さんへの地元の歓待を見るに、それはたいへん精神的に貧困な、物質崇拝の激しい世界ではないだろうか?
もちろん、餓死すれすれとか、水もなくて「干からびる(神保)」状態では、こんなことは言えない。それでも、節度のある生活を送り、カネやモノ中心ではない心や関係というものを愛する世界は、貧しさを忌み嫌い、遠ざけ、隔離さえする世界に比べて豊かではないだろうか? 中産階級中心の文化と距離をとれるかどうか。それが、たとえばホームレス排除やアメリカの要塞都市といった殺伐とした行為に賛成するかどうかのメルクマールである。
Shiro さんは信仰により「貧しきものは幸い」と主張している。
それが悲惨さの隠蔽に当たらないかぎりは、わたしはこの主張に賛成する。
人類は、これまで貧しい中を生きてきた。時に食料に欠きながら、歌い・踊り・家を作り、暮らしてきた。それを、現在の大量消費・大量生産文明の先進国の中産階級の基準を持って侮辱してはならないと思う。河原乞食の伝えた歌舞伎を、その他の文化をあなどってはならない。
岡倉天心が「東洋の理想」で紹介しているのだが、唐の太宗皇帝は、民が餓えているのを知って食を断った。高倉天皇(一説には安徳天皇)は、民が寒さに餓えているのを知って着物をお脱ぎになられた。昔ヴィデオで見たのだが、アフリカの採集狩猟民ピグミー(ムブティ)は、食料が手に入らないときに、みなで平等に餓えに対峙する。それゆえのストレスで暴れる人がいても、大目に見ていた。
こうした弱者へのいたわり、餓えるときにはともに餓えようという強い絆、それらを失って世界の富を独り占めするのが果たして道徳的に正しいと言えるのか? 貧しい他者をあわれんだり見下したりする資格があるのか? 答えはNOだ。
フリーターや引きこもりやNEETを罪悪視し、清潔な社会のなかの「ケガレ」扱いする憎しみに満ちた論説は、まともではない。労働者階級や中世以前や第三世界や各先住民の文化に学びながら、もう一度、貧しさは絶対にいけないのかどうかを、検討することは重要な論点である。
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貧しさは道徳的な悪か?
開発・貧困 / 2004年10月27日 01時58分50秒
貧しいから悪いのか? 難しい問題だ。
一口に貧しさといってもいろいろある。
自分の意思によって選んだ貧しであれば、あまり苦痛ではないし、周りの軽蔑も少ない。そうでなければ耐えがたい。
また、時代や地域によって、貧しさへの見方は星の数ほどある。
それが罪悪視されるようになったのは、勤勉道徳が一般的になる近代以降だろう。
貧しさが一律に罪悪視され、断罪され、侮辱される文化環境はマトモなのか?
インドの行者への尊敬、四国88箇所のお遍路さんへの地元の歓待を見るに、それはたいへん精神的に貧困な、物質崇拝の激しい世界ではないだろうか?
もちろん、餓死すれすれとか、水もなくて「干からびる(神保)」状態では、こんなことは言えない。それでも、節度のある生活を送り、カネやモノ中心ではない心や関係というものを愛する世界は、貧しさを忌み嫌い、遠ざけ、隔離さえする世界に比べて豊かではないだろうか? 中産階級中心の文化と距離をとれるかどうか。それが、たとえばホームレス排除やアメリカの要塞都市といった殺伐とした行為に賛成するかどうかのメルクマールである。
Shiro さんは信仰により「貧しきものは幸い」と主張している。
それが悲惨さの隠蔽に当たらないかぎりは、わたしはこの主張に賛成する。
人類は、これまで貧しい中を生きてきた。時に食料に欠きながら、歌い・踊り・家を作り、暮らしてきた。それを、現在の大量消費・大量生産文明の先進国の中産階級の基準を持って侮辱してはならないと思う。河原乞食の伝えた歌舞伎を、その他の文化をあなどってはならない。
岡倉天心が「東洋の理想」で紹介しているのだが、唐の太宗皇帝は、民が餓えているのを知って食を断った。高倉天皇(一説には安徳天皇)は、民が寒さに餓えているのを知って着物をお脱ぎになられた。昔ヴィデオで見たのだが、アフリカの採集狩猟民ピグミー(ムブティ)は、食料が手に入らないときに、みなで平等に餓えに対峙する。それゆえのストレスで暴れる人がいても、大目に見ていた。
こうした弱者へのいたわり、餓えるときにはともに餓えようという強い絆、それらを失って世界の富を独り占めするのが果たして道徳的に正しいと言えるのか? 貧しい他者をあわれんだり見下したりする資格があるのか? 答えはNOだ。
フリーターや引きこもりやNEETを罪悪視し、清潔な社会のなかの「ケガレ」扱いする憎しみに満ちた論説は、まともではない。労働者階級や中世以前や第三世界や各先住民の文化に学びながら、もう一度、貧しさは絶対にいけないのかどうかを、検討することは重要な論点である。