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西洋美術関連ブログ 思索の断片
―Thoughts, Chiefly Vague

「舟を編む」 (2013)

2014-03-14 20:08:01 | 映画

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舟を編む
[英題:The Great Passage
監督 石井裕也
出演 松田龍平宮崎あおいオダギリジョー
2013
(IMDb)

"On the contrary, Aunt Augusta, I've now realised for the first time in my life the vital Importance of Being Earnest"
                 (Oscar Wilde, The Importance of Being Earnest)
「とんでもない、オーガスタ伯母さん、いまこそ生れてはじめて、はっきりわかったんですよ、なによりも『まじめが肝心』だってことが」
                 (『まじめが肝心』 [新潮文庫に収録、西村孝次訳])

去る3月7日、日本アカデミー賞(第37回)の授賞式が行われた。
選考の対象となるのは主に2013年に公開された映画(厳密には2012年末に公開された作品も含む)。

今回最優秀作品賞の栄誉に輝いたのは、三浦しをん氏の同名小説を原作とした「舟を編む」。
優秀作品賞には他に五作品が選ばれた(「凶悪」、「少年H」、「そして父になる」、「東京家族」、「利休にたずねよ」)。

日本アカデミー賞は、国内の映画賞として非常に大きな影響力をもつ一方で、いくつかの〈限界〉があることも確かだ。
Wikipediaページにも書かれているように、その〈限界〉のひとつは、受賞作品のほとんどが、「認知度の高い」作品に限られてしまうことである。

ともかくも、同賞の結果を受けて、「舟を編む」を観てみた。
私自身、邦画はあまり観ない(上に挙げた六作品のなかで観たことのある映画は「そして父になる」だけである)のだが、この作品にはどこか惹かれるものがあったのだ。

感想―
ひとことで言うならば、私が近年観た邦画のなかでは、間違いなくナンバーワンの作品である。

日本アカデミー賞にせよ、本家であるアメリカのアカデミー賞にせよ、こうした大規模な映画賞というものは、えてしてどこか〈権威的〉で、〈商業主義的〉で、やや〈反発〉したくなる気持ちも多少うまれるものだ。

しかしそれを差し引いても、「舟を編む」は、まさに「最優秀作品賞」にふさわしい、文句なしの良作である。
主演の松田龍平の演技も見事である。

物語の主人公は、馬締(まじめ)という名字の青年。
出版社の営業部で働く彼が異動を言い渡されたことから、ドラマが始まる。

馬締に課せられた新たな仕事は、辞書作り。
気の遠くなるような作業だ。

営業の仕事では〈クビ〉同然の仕事ぶりだった馬締。
しかし辞書作りに取り掛かった彼は、水を得た魚の如く(エサを与えられた馬の如く?)、どんどん仕事にのめりこんでゆく。

これから先はネタバレになるので深入りしないでおこう。

「舟を編む」。
徹底的な〈マジメさ〉ゆえに生じる滑稽さ(⇒喜劇的要素)と、その一方で漂うペーソス(⇒悲劇的要素)との色調の混ざり具合が絶妙である。

さて、美術の話をしよう。
今回は映画「舟を編む」にちなんで、絵画における〈船〉について。

18世紀イギリスを代表する文学者サミュエル・ジョンソンは、1755年に『英語辞典』(A Dictionary of the English Language)を独力で完成させた。
「舟を編む」の主人公・馬締が、多くの人々と協力しながら辞書を作り上げていくのとは対照的だ。

英語史上のみならず、英文学史上の意義も大きいジョンソン博士の『英語辞典』。
これはなにも英国史上初の辞書という訳ではない。
詳しくは上に貼り付けたWikipediaページにも書いてあるが、それ以前にも「英語辞書」なるものは英国に存在した。

しかしそれらの辞書は、(少なくとも現代の辞書と比べると)概して粗雑で、決して完成度の高いものとは言えなかった。
それに比べ、ジョンソン博士の『英語辞典』は、きわめて包括的で、内容的に充実している。

加えて彼の『英語辞典』には英国的なユーモアに富んだ項目も多く、そうした意味で、辞書として〈ユニーク〉である。
そしてこうした〈ユニークさ〉もまた、この『英語辞典』を英語史的・英文学史的に価値あるものにしているのである。

ジョンソン博士の『英語辞典』刊行から20年後の1775年。
この年に生まれたのが、英国ロマン主義を代表する画家ターナーである。

「英国絵画の父」ホガース以来といってよい英国の国民画家であるターナー。
彼の絵画でしばしば取り上げられる主題が、畏敬の念をも覚えさせるほどに〈崇高(サブライム)〉な自然の有り様である。
こうした自然の力を前にすると禁じ得ない、人間存在そのものの卑小さについての思いもまた、彼の絵画を特徴づける一要素だ。

こうしたターナーの自然観が凝縮された彼の代表作が、《戦艦テメレール》ではないだろうか。[下図参照]


いま貼り付けたWikipediaページにもあるが、2005年に英国で行われた投票によると、ナショナルギャラリー(ロンドン)に所蔵されている本作が、イギリス国民が最も愛する絵画ということになるらしい。

ターナー自身は他にも〈船〉を主題とした作品を多く遺しており、またフランスにおけるロマン主義絵画の先駆者ジェリコーや、彼に影響を受けたドラクロワも〈船〉を扱った印象深い絵画を描き上げている。[下図参照]


[左:ジェリコー《メデューズ号の筏》 / 右:ドラクロワ《ダンテの小舟》]

こうしたターナー、ジェリコー、ドラクロワの作品をみるにつけ、(海上の)〈船〉というものが、きわめてロマン派的なテーマなのだろうなということをつくづく思う。

〈船〉ということでさらに言えば、ヒエロニムス・ボスの《愚者の船》も思い起される。[下図参照]


絵画における〈船〉については、また時間のあるときに調べてみたい。

最後に―――

このページのトップにも引用を載せたが、オスカー・ワイルドは『まじめが肝心』(The Importance of Being Earnest)という喜劇を書いている。
邦訳は新潮文庫の『サロメ・ウィンダミア卿夫人の扇』(西村孝次訳)にも収録されている。
またコリン・ファースの主演で映画にもなり、こちらの邦題は「アーネスト式プロポーズ」となっている。

映画の邦題の苦心ぶりにも窺われるように、原題にある"Earnest"という言葉はひとつの〈掛け言葉〉となっており、直訳では原題のニュアンスを汲みきれない。
ワイルド独特のユーモアの効いたこの喜劇と同様に、今回の映画「舟を編む」のエッセンスもまた〈マジメが肝心〉なのである。

最後にひとこと言うならば、The Importance of "Watching" Earnest といったところだろうか。

〈マジメって、面白い〉。


「アルバート氏の人生」 (2011)

2014-03-11 17:01:44 | 映画

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アルバート氏の人生
(原題:Albert Nobbs)
監督 ロドリゴ・ガルシア
出演 グレン・クローズミア・ワシコウスカアーロン・ジョンソン
2011
(IMDb)

ジェイン・エア』、『嵐が丘』、『アグネス・グレイ』・・・。
数々の傑作で19世紀の英文学史にその名を刻んだブロンテ三姉妹シャーロットエミリーアン)は、作品を上梓するにあたり、それぞれ男性の筆名を用いた。

シャーロットは「カラー・ベル」、エミリーは「エリス・ベル」、アンは「アクトン・ベル」。
上に挙げた有名な作品はもちろん、それらに先がけて彼女らが1846年に上梓した詩集のタイトル(Poems by Currer, Ellis, and Acton Bell)にも同筆名が用いられている。

このように女性作家が男性の筆名を用いるという行為は、かつて文壇における女性の地位が現代ほど高くなかったころには、比較的よくみられるものであった。(参考
19世紀でいえば、ジョージ・エリオット(本名:メアリー・アン・エヴァンズ)しかり、ジョルジュ・サンド(本名:アマンディーヌ=オーロール=リュシール・デュパン)しかり。

また絵画の世界においても、画壇の多勢は長らく男性が占め、女性の画家が日の目を見ることは決して多くなかった。
19世紀以前の時代に限れば、ぱっと思いつく女流画家は、マリー・アントワネットの肖像画を手掛けたヴィジェ=ルブランや印象派のベルト・モリゾメアリー・カサットくらいである。


[左:ルブラン(自画像)、中央:モリゾ(マネによる肖像画)、右:カサット(自画像)]

西洋の女流画家については、こちらのWikipediaページでも解説されているので、興味のある方は参照されたい。

さて、今回取り上げるのは2011年のアイルランド映画「アルバート氏の人生」である。
本作の監督を務めたのは、『百年の孤独』で知られる作家ガルシア=マルケスの息子であるロドリゴ・ガルシア

アイルランドの作家ジョージ・ムーアの小説を原作としたこの映画では、ブロンテ三姉妹と同様に、〈男〉として社会的にふるまわないことには働き口が見当たらず、生きてゆけない、ひとりの〈女性〉に焦点があてられる。

〈性〉の秘密を隠しつつも、ホテルのウェイターとして、日々仕事をこなす主人公アルバート・ノッブス。
生きるために必死で働く彼女の〈強さ〉の裏には、孤独のなかで心のよりどころを求めようとする〈繊細さ〉も同時に存在する。

映画の前半に、ホテル内での〈仮面舞踏会〉のシーンがある。
ジェンダー的視点から言って、映画の主題を象徴する場面である。

それと同時に、以前に「レンブラントの夜警」のレヴューを書いたときにも触れたが、やはり「アルバート氏の人生」における本シーンでもシェイクスピアの有名な一節を思い起こさせる。
もう一度引用しよう。

All the world's a stage,
And all the men and women merely players:
They have their exits and their entrances;
And one man in his time plays many parts
            (As You Like It, Act II Scene VII)

この世界はすべてこれ一つの舞台、
人間は男女を問わずすべてこれ役者にすぎぬ、
それぞれ舞台に登場してはまた退場していく、
そしてそのあいだに一人一人がさまざまな役を演じる
            (小田島雄志訳 『お気に召すまま』)

〈男女を問わず〉という箇所は、とりわけこの映画の内容に照らし合わせて考えると、より重みを増して迫ってくるのではないだろうか。

本映画全体を通して―――

主人公の生き様が〈美化〉されているわけでもなければ、物語になにかしらの〈救い〉があるわけでもない。
しかしながら、それでいて、観終わったあとの胸のうちには、深く、そして澄んだ〈美しさ〉が広がる。

この感動を言語化できるだけの人生経験は、私にはまだない。


芸術新潮 2014年2月号

2014-03-09 16:12:05 | 雑誌

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芸術新潮 2014年2月号
(特集:「英国ヴィクトリア朝美術の陶酔(エクスタシー)―ラファエル前派から唯美主義まで
[英題:From the Pre-Rahaelites to the Aesthetic Movement]
新潮社
2014

更新が遅くなった。
今年の1月下旬に発売された芸術新潮の「ラファエル前派展」と「唯美主義(ザ・ビューティフル)展」の特集号。

西洋美術関連の記事としては、いま挙げた両展覧会のものに加え、「シャヴァンヌ展」に関するもの、そして高階秀爾氏と原田マハ氏の対談(於:大原美術館[岡山])をまとめたものなどがある。

上で言及した三つの展覧会については、以前に訪れた所感をこのブログに綴った。
(→「ラファエル前派展」「唯美主義展」「シャヴァンヌ展」)

以下では、芸術新潮の今回の特集号における主な記事ごとに、雑感を述べてみたい。

ヴィクトリア朝美術、反撃の50年! [Part1-3, 26-60頁]

「ラファエル前派展」の図版の監修者・荒川裕子氏が解説を担当された箇所。
さながら舞台の前口上のごとき、26頁右下の導入部分をまず引用しておこう。

フランスやイタリアに比べ、およそ百年は立ち遅れていた英国美術。
18世紀半ば過ぎ、ようやくロイヤル・アカデミーが設立されるもパッとせず、
世間でもてはやされるのは、おセンチな大衆絵画ばかり。

ついに業を煮やして立ち上がったのが、若きラファエル前派兄弟団。
彼らの挑戦は、やがて唯美主義という新しいうねりと一体化してゆく。
いよいよ、英国美術の巻き返しが始まった!

印象派に先がけること20年強、西洋絵画史上初めてのアヴァンギャルド運動ともいわれるラファエル前派。
そのロックンロールな精神がうまく表現されているように思う。

Part 1 われらラファエル前派兄弟団! (28-35頁)]

ここで解説されているのは、いわゆるラファエル前派〈前史〉から、兄弟団設立、解散、そして後世における受容までを視野に入れた内容である。
英国における「ナラティヴ・ペインティング」[参考]の伝統(28頁)や、英仏のアカデミーの比較(29頁)など、興味深い内容が語られていた。

気になったのは、30頁下から32頁上にかけて解説されている「予型論(タイポロジー)」の話。
荒川氏の言う「予型論」の定義とは、

あるものが別のものの前兆を表しているということで、たとえば、幼いキリストの拳の傷は後の磔刑を、右端[注:ミレイの《両親の家のキリスト》(下図)を参照]の水桶を持った少年は後の洗礼者ヨハネを暗示する、といった具合 (30頁)

である。


「予型論」なるものは、Wikipediaの解説にもあるように、旧約の内容が新約で成就されるという、一種の聖書解釈のあり方を指すものとばかり思っていた。
しかし、絵画の世界においても使われることがあるというのは初めて知った。

個人的に、絵画の解説において「予型論」という言葉を使うのはあまりなじみがなかったため、まだ若干違和感がある。
実際、上に貼り付けたミレイの絵画のWikipediaページにおける解説でも、"typology"という言葉は使われず、それに相当する語(句)として、例えば"prefigure (prefiguring)"や"representing potential future ..."といった表現が用いられている。

絵画における「予型論」については、これからまた勉強していきたい。

Part 2 P.R.B.セカンド・ジェネレーション、結集す (38-43頁)]

この箇所で主に解説されているのは、ラファエル前派第二世代にあたるモリスやバーン=ジョーンズらについて。

39頁下では「ハイ・アート(高尚な純粋美術)」と「アプライド・アート(応用美術すなわち装飾デザインや工芸など実用性を兼ね備えた芸術)」とが二項対立の形で比較されている。

おそらくモリスの場合だと、「ファイン・アート」に対する「レッサー・アート」ということになろうかと思われる。
この二語に関しては、以前にもこのブログで触れた。

どの用語を用いるかという問題はともかくとして、前者の「ハイ/アプライド・アート」の方が一般的な言い方であることは確かだろう。

Part 3 ただ美しいって罪なこと? (48-60頁)]

48-49頁に、レイトンの《浜辺で小石を拾うギリシアの娘たち》[下図参照]が見開きで載っている。
本作は「ラファエル前派展」と「唯美主義展」のいずれにも出展されていないが、みる限りでは明らかに《エルギン・マーブル》の影響を受けている。


もっとも、加藤明子氏がムーアについて述べているように、レイトンの場合も単なる「古代ギリシアの情景の再現ではな」いだろう(64頁)。

ラファエル前派の画家にしてもそうだが、19世紀後半に勢いを増した英国画家は、古代や中世(ないしは遠く離れた日本)に霊感源を求めた。
しかし彼らが成し遂げようとしたのはあくまで〈新たな美〉を生み出すことであって、単なる〈懐古〉や〈追憶〉ではない。

また本セクションでは、唯美主義絵画における〈眠る女性たち〉についての分析(53頁)や古代趣味の広まりに関する解説(同)などが興味深かった。

生活のなかの唯美主義―「ハウス・ビューティフル」 (62-68頁)

先ほども少し触れた加藤明子氏による解説パート。

64頁でも言及されているように、唯美主義者たちが純粋に〈美〉を追求していった結果、それが室内装飾をはじめとする〈実用〉に結びつくという過程は興味深い。

先日の数学の話ではないが、〈実利〉を最初から意図した〈有益さ〉というものは、ときに〈浅い〉ものだったりする。
真に〈有益〉なものを生むのは、実際には〈無益〉な(れど〈美〉な)るものの追及にあるのではないだろうか。

英国カルチャーシーンの19世紀リヴァイヴァル (69-71頁)

ここではラファエル前派をはじめとする19世紀ヴィクトリア朝の嗜好性が、21世紀においていかに表象されているかを探っている。

雑誌やファッション、音楽に加え、BBCのドラマ「シャーロック」や、このブログでも以前に取り上げたDesperate Romanticsも扱われている。

少し気になったのは、69頁右下の画像のキャプション。
「『Desperate Romantics』より。ミレイが《オフィーリア》のモデルのシダルを浴槽に浮かべる場面」とある。

画像はこれ[下図参照]と同場面のものを用いている。


確かに、ここでの主語は、史実的には「ミレイ」でいいのだろう。
しかし、細かい話になるが、ドラマの設定としては、Fred Waltersという(実在しない)人物がシダルを浴槽に浮かべたことになっている。

ともかくも、論全体としては面白かった。

その他の記事も、興味深い内容であった。

もしかしたら"ヴィジュアル系"? [76-77頁]
   ...エスプリの効いた記事

少女マンガ家はラファエル前派の夢を見るか [76-85頁]
   ...その関係性や、意外に密接

ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ―知られざる巨匠の古代幻想 [104-09頁]
   ...シャヴァンヌの〈アナクロニズム〉と〈モダニズム〉

特別対談(鼎談?) 高階秀爾×原田マハ 「美術史とミステリーには共通点がある」 [110-11頁]
   ...推理小説と美術鑑賞

海外アート―きみはターナーの海を見たか [125頁]
   ...ターナーとメルヴィル『白鯨』

良質の記事群だったように思う。

図版も多く、手元に備えておきたくなる一冊である。

マーカス・デュ・ソートイ 『素数の音楽』

2014-03-06 13:03:07 | 書籍(その他)

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マーカス・デュ・ソートイ
素数の音楽
[原題:The Music of the Primes
冨永星(訳)
新潮社
2013

Heard melodies are sweet, but those unheard
  Are sweeter; therefore, ye soft pipes, play on;
Not to the sensual ear, but, more endear'd,
  Pipe to the spirit ditties of no tone:

            (John Keats 'Ode on a Grecian Urn', ll.11-14)

聞こえる調べは甘美だが、聞こえぬ調べは
なお甘美である。故に優しき笛の音よ、その調べを奏でるのだ。
願わくは感覚としての耳にではなく、精神のうちに、
いとしい旋律なき調べを届けたまわんことを。

かつて「NHK人間講座」という番組があった。

各界で活躍をみせておられる方々が順番に講師を務めるという趣旨で、美術関連でいえば森村泰昌氏(2002年2月-3月 「超・美術鑑賞術」)や千住博氏(2003年10月-11月 「美は時を越える」)らも担当されたことがある。

いまではもう削除されてしまったようだが、以前YouTubeでみていたお気に入りの動画が、同じく同番組で講師を務められていた数学者・藤原正彦氏の講義シリーズであった。
毎回、ガロアラマヌジャンワイルズといった古今東西の偉大な数学者をひとりずつ取り上げ、その業績と生き様を振り返るという内容。

純粋に数学の〈美〉を求める彼らの生き方は、藤原氏独特のユーモアあふれる語り口が添えられたことで、より一層魅力を増して映った。

同シリーズの放送回の原稿に加筆したものが、現在文春文庫の『天才の栄光と挫折―数学者列伝』に収められている。
藤原氏の著書では『遥かなるケンブリッジ―一数学者のイギリス』と並んで、個人的にお気に入りの一冊といえるかもしれない。

これら藤原氏の〈講義〉でもたびたび言及される偉大な数学者たちも次々に登場するのが、今回紹介する一冊、マーカス・デュ・ソートイ著『素数の音楽』である。
オックスフォード大学の数学教授が一般の読者向けに書いたこのノン・フィクションでは、〈素数〉をめぐる歴史が語られる。

ちょうど一口に〈文学〉といってもいろいろなジャンルがあるように、〈数学〉の扱う領域もまた、当然ひとつではない。
そのなかで、数学の歴史において、〈素数〉をめぐる研究史は常にメインストリームであったといってもいいだろう。
さながら、西洋文学の王道が長らく〈詩〉であったように。

そして素数という〈一級河川〉は、未だ証明されていないリーマン予想に象徴されるように、なお絶えることなく流れ続けている。
この〈急流〉に飲み込まれた才能ある数学者は数知れず。
しかしそれでいて、セイレーンが岩礁から船人を誘惑するかのごとく、素数の謎は多くの人々を魅了し続けている。

一見、〈無秩序〉に並ぶ素数。
本書で取り扱われているのは、こうした素数の背後に「あるはず」と数学者が信じて探し求め続けた、素数の〈秩序〉をめぐる歴史である。

リーマン予想成立までの歴史を簡潔にまとめている箇所を引用しよう。

エウクレイデスは、素数はどこまでいってもつきることがないという事実を証明した。
ガウスは、素数が、ちょうどコインの投げ上げで決まるようにでたらめに現れるだろうと予測した。

リーマンがワームホールをくぐって入った虚の世界
[注:虚数のこと]では、素数は音楽になった。
そこでは、ひとつひとつのゼロ点が音を奏でていた。
こうして素数探究の旅は、リーマンの宝の地図を解釈し、ゼロ点の位置を確定する作業へと変わった。

リーマンは秘密の公式を駆使して、素数がでたらめに現れるらしいのに対して、地図上のゼロ点が実に秩序だっていることをつきとめた。
ゼロ点は、でたらめに点在するどころか、一直線上に並んでいた。
あまり遠くまで見通すことができず、常に直線状に並んでいるとは断言できなかったが、リーマンは、並んでいると信じた。

こうしてリーマン予想が生まれた。
   (604頁)

『素数の音楽』というタイトルからも窺われるように、本書では素数の奏でる〈聞こえぬ調べ〉に耳を澄ませた数学者たちの歴史が語られる。
そして、冒頭に引用したキーツの詩ではないが、こうした〈聞こえぬ調べ〉ほど〈甘美〉なるものはない。

当然、数学の歴史を数式なしで語るのは至難なことである。
実際に本書では、数学の発展に大きく寄与した定理や証明が文中でいくつか扱われている。
しかし数式の示すものが具体的にわからずとも、本書の魅力は決して減じない。

〈聞こえる調べ〉は聞く人を選ぶとしても、〈聞こえぬ調べ〉は聞く人を選ばないのである。

433頁に、英国の数学者ハーディーの次の言葉が載っている。

「本当の」数学者による「本当の」数学、フェルマーやオイラーやガウスやアーベルやリーマンの数学は、ほとんどすべてが「役に立たない」(「純粋」数学だけでなく「応用」数学についてもそういえる)。
いかに天才的な数学の専門家であっても、その業績が「有用」だといって己の生涯を正当化することはできないのだ。

現代ではクレジットカードのセキュリティー問題をはじめとして、数学が〈有用〉な方面と結びつけられることが多くなってきている。
しかしやはり、とりわけ過去によくみられたような、〈役に立たない〉数学研究の追及ほど、ロマンに満ちたものはない。

〈役に立つ〉ものはいずれ〈不要〉になる。
しかしもとより〈役に立たない〉ものは、決して価値が薄れない。

498頁では『失われた時を求めて』より、プルーストの次の言葉が引用されている。

真の発見の旅は、新たな風景を捜すことではなく、新たな視点を獲得することにある。

リーマン予想が証明されたときに開かれる新たな地平が楽しみである。

さて、本ブログは一応美術関連のものなので、美術の話もしておこう。
とはいえ、何について書くか。

『不思議の国のアリス』の著者ルイス・キャロル(本名:チャールズ・ラトウィッジ・ドジスン)がオックスフォード大学の数学講師であったことは有名である。
実際、彼の名は『素数の音楽』でも何度か言及されている。

〈画家と数学(者)〉との関わりということで、挿絵画家テニエルの話をしはじめると、また長くなりそうだ。

それでは、岩波文庫の『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記 (下)』におさめられている、ルネサンスの〈万能人〉(Homo universalis参考]) レオナルドの〈数学〉論(24-25頁)から二つを引用して締めたい。

・数学者でないものには、私の原理は読めない。

・比例は単に数および量のなかに見出されるのみでなく、さらに音、重量、時間および位置その他あらゆる可能性(ポテンシア)の中にもあるはずだ。

ここでいう〈原理〉のひとつのあらわれが、有名な《ウィトルウィウス的人体図》であろう。[下図参照]


また数学と芸術との関連については、こちらのWikipediaページも参照されたい。

『素数の音楽』。
名著といってよいだろう。

〈聞こえぬ調べ〉に耳を傾けたいという方には、ぜひ一読をお勧めする。

河田美恵子 『TOLEDO―その歴史と芸術』

2014-03-05 17:13:08 | 書籍(その他)

河田美恵子
TOLEDO―その歴史と芸術
サビール出版
1991

マドリードのやや南、イベリア半島のほぼ中心に位置するスペインの古都トレド
美しい街並みが今も残り、1986年には旧市街全体がユネスコの世界文化遺産に登録された。

今回紹介する一冊は、旅行でスペインに行った方からお土産として頂いた同市のガイドブックである。

120頁にわたる本ガイドブックでは、多くのカラー図版(絵画、彫刻、建築、地図 etc.)とともに、トレドの各観光名所にまつわる歴史とその地でみられる主な芸術作品が紹介されている。

スペインを訪れたことのない私にとって、〈トレド〉と聞いて思い浮かぶものはただひとつ。

そう、エル・グレコである。

ギリシアに生まれ、イタリアでティツィアーノらヴェネツィア派の画家たちに師事したグレコ。
30歳を過ぎたころにスペインへやってきた画家は、トレドを中心に活躍をみせ、いまではベラスケスゴヤと並びスペイン三大画家のひとりに数えられる。

本書では多くの画家の作品が取り上げられているが、なかでも質・量ともに群を抜いているのがグレコの絵画である。
掲載されている作品のうちから、画題としてトレドと関わりのあるものをいくつか抜き出してみよう。

● 《トレド全景》 (p.32, pp.34-35)

二点現存しているグレコの描いたトレドの風景画のうちのひとつ。
もうひとつはこちら
どちらかといえば後者の方が有名なように思われる。

エル・グレコの絵は、スペインへ来た頃のイタリア的な肉体礼賛から一変し、人体描写はあたかも重力を失ったかのように、細長く引き伸ばされていく。
彼が描こうとしたのは、肉体を超えた精神の世界だったのだろうか?
 (32頁)


● 《オルガス伯の埋葬》 (p.90-92)

「静的な地上の埋葬場面と、動的な審判の行われる天上界を、ドラマティックに統一させ」た一作である(90頁)。
埋葬されているのはトレドに生まれた敬虔なオルガス伯ドン・ゴンサロ・ルイス。

大塚国際美術館(徳島)には本作の原寸大のレプリカが展示されている。
同美術館の〈エル・グレコの部屋〉も見どころである。

生命の炎を象徴するかのように異様に引き伸ばされた人体、しなやかで、表現力のある指先、いずれをとっても、画家の非凡な力量がうかがえると同時に、ほとんど狂気とも思われる彼の自由奔放な幻想の集大成ともいえる作品である。 (92頁)


● 《無原罪の御宿り》 (pp.98-100)

この主題はマリアがイエスを身ごもったいわゆる〈受胎告知〉とときに混同されるが、区別が必要である。
無原罪の御宿り〉とは、原罪を免れた状態で、マリアが母アンナの胎内に宿ったというカトリックの教義を指す。

[注:98頁右下のキャプションでは100頁に掲載されている本作品のタイトルが《聖母の被昇天》となっているが、おそらく誤りであろう。]


画面左下には、先ほど触れたトレドの風景画(参考)と同様の景観が描かれている。[下図参照]


――――――――――――

本書全体を通して―


例えば上で言及したように作品名が誤っていたり(98頁右下)、また画家名が違っていたり(104頁右下)など、現地で(おそらく)長年売られているガイドブックにしては誤植が多いようにも思われる。
しかし本ガイドブックはいわゆる美術書ではなく、著者ご自身も美術の専門家ではないため、これ以上深入りすることもなかろう。

スペイン。
ぜひ行ってみたい。

トレドもそうだが、プラド美術館(マドリード)は外せない。

ボス・・・《快楽の園

ベラスケス・・・《ラス・メニーナス》《織女たち

ゴヤ・・・《裸のマハ》《着衣のマハ》《我が子を喰らうサトゥルヌス》《マドリード、1808年5月3日

トレドと「あのギリシア人」エル・グレコ。

マニエリスムを代表する画家につきまとう謎には、魅力が尽きない。