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西洋美術関連ブログ 思索の断片
―Thoughts, Chiefly Vague

MOTアニュアル2014 フラグメント―未完のはじまり

2014-03-02 20:36:15 | 美術展

MOTアニュアル2014 フラグメント―未完のはじまり
[英題:MOT Annual 2014: Fragments―Incomplete Fragments]
(東京都現代美術館、2014年2月15日~5月11日)

シュレーゲルは、レッシングの「断片の価値」は読者に「自ら考えるよう喚起する」ことにある、と述べ、「機知の優位」を示すこの「一見すると没形式的に見える形式」を「内的形式」と名づける。
断片」を「断片」たらしめている「内的形式」とは、外的な没形式性にもかかわらず存在しうるような「統一性」であり、それゆえに、人を驚かし、人を思考へと誘うことができるような、そうした動的な統一性である。
(...)この「内的形式」は内的であるがゆえに、かえって外的なあらゆる細部に宿りうる。

                            ―――(小田部胤久『西洋美学史』 89頁)

ベルヴェデーレのアポロン》にみられる〈均整〉のとれた〈理想美〉を称揚した18世紀の美的観念は、英国において、19世紀初頭に大英博物館へと運び込まれた大理石群エルギン・マーブルによって一転する。

〈欠損〉の目立つ彫刻群は、〈断片〉に積極的な価値を認めるという新たな審美観を人々にもたらし、とりわけ当時のロマン派詩人たちに大きな影響を与えた。
彼らは〈断片的〉な彫刻群から詩的インスピレーションを受けたのみならず、多くの〈断章(断片詩)〉をも遺している。

〈断片〉に新たな美的価値を認める姿勢は、なにも英国においてのみみられた訳ではない。
冒頭に引用した言葉にもあるように、シュレーゲルがロマン主義運動を主導したドイツにおいても、〈断片〉に肯定的な価値を付与する土壌が着々と形成されていった。

現在、東京都現代美術館で開催されている展覧会「MOTアニュアル2014 フラグメント―未完のはじまり」のタイトルにも「フラグメント(断片)」という単語が含まれている。
現代美術の領域において、「フラグメント」なる言葉がどのような概念を表象しうるのか興味をもち、今日初めて同美術館を訪れた。

小雨降るなか辿り着いた美術館は、最寄駅から幾分離れたところにあった。
作品が展示されていた各アーティスト(ユニット)ごとに展覧会を振り返ってみよう。

1. 高田安規子・政子

会場入ってすぐに展示されている三つの(小)作品。
軽石で制作されたこれらは、それぞれ古代ローマの凱旋門と公衆浴場、円形競技場を模したものである。

言ってみれば、廃墟である。

この時点では、現代美術における〈フラグメント〉の表象も、ロマン派的な〈断片〉の美学の延長線上にあるものと思われた。
しかし、それは〈誤り〉であることにほどなく気付いた。

以降に展示されていた作品には、どうみても19世紀的な審美観は当てはまらないのである。

ともかくも、次の作品へ移ろう。

絨毯の上に置かれたテーブルには、トランプが所狭しと並べられている。
テーブルが絨毯の中心に置かれていなかったのは、現代アート的な観点からみて面白かった。
〈視線の操作〉は現代アートの本質のひとつである。

しかし、〈フラグメント(断片)〉の要素はいったいどこにあるのか。
この時点では、正直よくわからなかった。

現代アートにおける〈フラグメント〉の表象について、ひとつの解釈の可能性に気付いたのは次のアーティストの作品をみていたときであった。

2. 宮永亮

"WAVY"と題された10分10秒の映像作品。
ちょうど、ロマン派的な〈断片〉観が、有機的統一を示唆するものとしてのそれであったように、一見脈絡のない映像の集積が、観終えたときにゆるやかな〈まとまり〉をもって受け止められた。

興味深かったのは、映像の途中にあった、局所的に光を当てるシーン。
これが私には示唆的であると思われた。

つまり、この作品ひいては本展覧会に出展されている作品が表象する〈フラグメント〉が浮かび上がらせるのは、我々人間の認識の〈断片性〉なのである。
すなわち、〈見えているようで見えていない〉認識の〈不完全さ〉が、〈フラグメント〉として表象されているということである。

そもそも、現代アートというものは往々にして〈認識〉に訴えかけるものである。
こうした個人的解釈をもって、私のなかではこの時点で現代アートにおける〈フラグメント〉の表象について、一条の光が見えてきたように感じられた。

〈認識の不完全さ〉を表象するものとしての〈フラグメント〉。
その作品の内には、少なからずクリティカルな意識も働いていることであろう。

3. 青田真也

みたところ、この作家は、今回展示されているすべてのアーティストのなかで、最も〈空間配置〉にこだわりをもっていたように思われた。
個人的には、〈宗教的な空気感〉をも湛えた作品群であったように思う。

一列にずらっと並ぶ展示はさながら巡礼者の一行のようであったし、三つ置かれたテーブルのうち、ひとつは明らかに〈十字〉の形をしていた。
もう一つのテーブルの上の配置も、みようによっては、礼拝に訪れた者らが聖家族をとりまいているようでもある。

4. 福田尚代

全アーティストのなかで、この方の作品が一番印象に残った。

ひとつには、比較的、ロマン派的な〈断片の美学〉とそれほど遠くないように感じられたため。
もうひとつには、とりわけ文学的志向の強い方のように思われたためである。

アルチュール・ランボー
の手紙を収録した文庫をページごとに分断し、それを無秩序に並べてゆく。
焼けた紙のページもまた、憂愁の香りを漂わせている。

別の作品のタイトルにつけられていた〈残像〉という言葉も興味深い。
この言葉もまた、憂愁の調べを奏でつつ〈フラグメント〉な表象の有り様を示しているように思う。

〈「髪の毛も、ふたつの目も、おどおどした頭も」II〉という作品は面白い。
"II"とあると"I"の不在を感じさせ、〈断片性〉がいや増す。

タイトルは、19世紀アメリカの詩人エミリ・ディキンスンの詩からとってきたようだ。
この詩の3行目から4行目にかけて、それに該当する詩行がみられる。

5. 吉田夏奈

スーラのような点描画が二点あった。
思えば、スーラもまたエルギン・マーブルに強く影響を受けて、《グランド・ジャット島の日曜日の午後》を描いたといわれる。

点描画はそもそも、このように、本質的に〈フラグメント〉に通じているのである。

あと、展示空間も印象に残った。
他のアーティストは、〈断片性〉を湛えた作品を制作し、空間内に配置するというプロセスだったのに対し、この方は展示空間それ自体を〈断片的〉にしていたように感じられた。

《ポテトインテリア》。
印象深い作品であった。

6. パラモデル

以前六本木の森美術館で開かれていた「会田誠展」でもあったが、今回のこのユニットの展示もまた、作品の制作現場をそのまま残すというものであった。

まさに"incomplete"。
しかしその〈不完全性〉が、ときに芸術の本質であったり、ひいては〈生〉の本質であったりする。

―――――――

こんなところだろうか。

現代美術というのは、観る分には適度な刺激(ときに度を越すものもあるが)を受けられてよいのだが、いざ何か作品について書こうとなるとなかなか骨が折れる。
書いている文章それ自体が〈フラグメント〉である

ともかくも、今回の展示を通じて、ロマン派文芸ばかりではない〈断片芸術〉の可能性に触れられたのはよかったと思う。

現代アートの〈生〉の胎動を感じに、本展を訪れるのもいいかもしれない。
〈フラグメント〉とは、「未完のはじまり」という、可能性に満ちた存在なのだから。