人間が群れで生活する生き物なのだという事を思い出させられる事の一つに”帰属意識”があります。コミュニケーション不足の時代であっても、帰属意識という本能は健在で、インターネット上でも盛んにコミュニティをつくってそこに帰属しようとしていますし、少し前のナショナリズムなども帰属意識と考える事もできます。
関西人とか、江戸っ子という帰属意識もあります。江戸っ子の方はそこに属する人が極めて少ないためあまり目の当たりにする事はありませんが、関西人は東京では異邦人であるためか、帰属意識を全面に押し出して仲間意識を獲得しようとする姿を目にします。
私は関西人といっても滋賀県出身なので、関西に居る間は大阪や京都の人たちからは関西人扱いされません。そういう経緯もあって、関西人であるという帰属意識には少し複雑な事情が絡みます。にもかかわらず、少し関西弁を話しただけで、”関西人ですかぁ”と、”同じ関西人同士”という事だけで自分を売りこもうとする営業マン、意外と多いですね。こういう人には”私は滋賀県人で、関西では大阪とか京都の人に嫌な目にあわされてるから関西人嫌いなんですよね。”と答えることにしています。
この帰属意識、攻撃的に働くこともあります。我らが関西人は事あるごとに”東京の連中は..."とか、他の集団に対して攻撃的になりますね。こういう意識がやがて戦争や虐殺に発展した例は世界の歴史に数えきれないほど存在します。
もっと違った世界、たとえば、バイクの世界では”オフロード派”とか”ロード派”といった帰属意識の更に上位に”BMW派””ハーレー派””ホンダ派””ヤマハ派””スズキ派””カワサキ派”などなど。
以前、どこかにも書いたのですが、カナダのガイド、デイブに”お前はホンダとスズキのバイクに乗っているが、ホンダ派なのかスズキ派なのか”と尋ねられたことがありますから、帰属意識は日本人だけが有している本能では無く、人類普遍に有しているのだと思います。
帰属意識を持つこと自体は自然な事ですから、その事そのものに問題は無いと思います。ただ、最近、問題ナノではないかと感じるのは、帰属意識+個性意識。”個性的であれ”と教えられたことと、帰属意識が合わさって、”社会とは少し外れた集団”というのを形成しているように思います。
少しわかりにくい話になったのでシンプルにしてみましょう。
例えば、私というひとりの人間はE&Gという旅行会社に帰属しているというグループへの帰属意識。構成員一人。
家族というグループへの帰属意識
日本人という民族、文化の系統に帰属しているというグループへの意識
〇〇高校出身というグループへの帰属意識
ホンダのバイクに乗っているというグループへの帰属意識
スズキのバイクに乗っているというグループへの帰属意識
旅行好きというグループへの帰属意識
ロードレース観戦が好きというグループへの帰属意識
映画が好きというグループへの帰属意識
と、少し考えただけでももっと沢山のグループへの帰属意識を持っている事を思い起こすことができます。これら、いくつものグループとの関係において自分は存在するという事になります。だから、それぞれのグループに対して適切な顔を以て付き合うことができますし、そのことに自分自身の不統一感を感じることはありません。
私の両親は、バイクは大嫌い。私が80ccのオフロードバイクを買ってきた時、母は泣きました。先日も、年末帰省する際に”バイクで行こうかな”と話したところ、母は”危ないからやめた方が良い”と本気で訴えておりました(苦笑)。こんな両親と共に過ごしている時間に、熱くバイクの話を語ったりはしません。
ところが、こういう場違いなところで、敢えて自分本位にバイクの話をぶちあげて、それを自分の”個性”と勘違いしているような姿をよく眼にするようになったと思うのです。自分がどこに属しているかを誰かれ構わず表明せずには居られない感じです。
上に上げた私の例の場合。バイクが好きということがたった一つの自分の属するグループではありません。他にも沢山のグループに属していて、その全てが自分という人間の個性を”形成している”とも言えます。ある人から見れば、旅行好きの私であって、何かの拍子に、バイクに乗っていると知って驚くという事も頻繁に起こり得ます。頑張って、”バイク乗りの自分”を社会に押し出すのは、むしろ本来の自分の姿ではないものを周囲に押し付けることになるのです。
もし、自分がどういう人間であるかを周囲にどうしても印象付けたいのであれば、自分帰属する集団を全て表明擦る必要があります。よほど世界が狭い人を除いては、そんなことはほとんど不可能でしょう。そうであれば、その時共に時間を過ごしているグループに対して自分を押し売りするのではなく、自分がどういう同一性を持っているのかに基づいて行動するのが一番自分に正直な過ごし方だと思うのでありました。
本当は、自分のアイデンティティというのは自分から押し出すものではなく、結局は周囲の人達がそれぞれに、自分との関わりの中で自分に対して抱くイメージに支配されるのが本当のところだと思います。だから、自分のアイデンティティというものについて自分で思いを巡らせる事自体が妙な話なのであります。
関西人とか、江戸っ子という帰属意識もあります。江戸っ子の方はそこに属する人が極めて少ないためあまり目の当たりにする事はありませんが、関西人は東京では異邦人であるためか、帰属意識を全面に押し出して仲間意識を獲得しようとする姿を目にします。
私は関西人といっても滋賀県出身なので、関西に居る間は大阪や京都の人たちからは関西人扱いされません。そういう経緯もあって、関西人であるという帰属意識には少し複雑な事情が絡みます。にもかかわらず、少し関西弁を話しただけで、”関西人ですかぁ”と、”同じ関西人同士”という事だけで自分を売りこもうとする営業マン、意外と多いですね。こういう人には”私は滋賀県人で、関西では大阪とか京都の人に嫌な目にあわされてるから関西人嫌いなんですよね。”と答えることにしています。
この帰属意識、攻撃的に働くこともあります。我らが関西人は事あるごとに”東京の連中は..."とか、他の集団に対して攻撃的になりますね。こういう意識がやがて戦争や虐殺に発展した例は世界の歴史に数えきれないほど存在します。
もっと違った世界、たとえば、バイクの世界では”オフロード派”とか”ロード派”といった帰属意識の更に上位に”BMW派””ハーレー派””ホンダ派””ヤマハ派””スズキ派””カワサキ派”などなど。
以前、どこかにも書いたのですが、カナダのガイド、デイブに”お前はホンダとスズキのバイクに乗っているが、ホンダ派なのかスズキ派なのか”と尋ねられたことがありますから、帰属意識は日本人だけが有している本能では無く、人類普遍に有しているのだと思います。
帰属意識を持つこと自体は自然な事ですから、その事そのものに問題は無いと思います。ただ、最近、問題ナノではないかと感じるのは、帰属意識+個性意識。”個性的であれ”と教えられたことと、帰属意識が合わさって、”社会とは少し外れた集団”というのを形成しているように思います。
少しわかりにくい話になったのでシンプルにしてみましょう。
例えば、私というひとりの人間はE&Gという旅行会社に帰属しているというグループへの帰属意識。構成員一人。
家族というグループへの帰属意識
日本人という民族、文化の系統に帰属しているというグループへの意識
〇〇高校出身というグループへの帰属意識
ホンダのバイクに乗っているというグループへの帰属意識
スズキのバイクに乗っているというグループへの帰属意識
旅行好きというグループへの帰属意識
ロードレース観戦が好きというグループへの帰属意識
映画が好きというグループへの帰属意識
と、少し考えただけでももっと沢山のグループへの帰属意識を持っている事を思い起こすことができます。これら、いくつものグループとの関係において自分は存在するという事になります。だから、それぞれのグループに対して適切な顔を以て付き合うことができますし、そのことに自分自身の不統一感を感じることはありません。
私の両親は、バイクは大嫌い。私が80ccのオフロードバイクを買ってきた時、母は泣きました。先日も、年末帰省する際に”バイクで行こうかな”と話したところ、母は”危ないからやめた方が良い”と本気で訴えておりました(苦笑)。こんな両親と共に過ごしている時間に、熱くバイクの話を語ったりはしません。
ところが、こういう場違いなところで、敢えて自分本位にバイクの話をぶちあげて、それを自分の”個性”と勘違いしているような姿をよく眼にするようになったと思うのです。自分がどこに属しているかを誰かれ構わず表明せずには居られない感じです。
上に上げた私の例の場合。バイクが好きということがたった一つの自分の属するグループではありません。他にも沢山のグループに属していて、その全てが自分という人間の個性を”形成している”とも言えます。ある人から見れば、旅行好きの私であって、何かの拍子に、バイクに乗っていると知って驚くという事も頻繁に起こり得ます。頑張って、”バイク乗りの自分”を社会に押し出すのは、むしろ本来の自分の姿ではないものを周囲に押し付けることになるのです。
もし、自分がどういう人間であるかを周囲にどうしても印象付けたいのであれば、自分帰属する集団を全て表明擦る必要があります。よほど世界が狭い人を除いては、そんなことはほとんど不可能でしょう。そうであれば、その時共に時間を過ごしているグループに対して自分を押し売りするのではなく、自分がどういう同一性を持っているのかに基づいて行動するのが一番自分に正直な過ごし方だと思うのでありました。
本当は、自分のアイデンティティというのは自分から押し出すものではなく、結局は周囲の人達がそれぞれに、自分との関わりの中で自分に対して抱くイメージに支配されるのが本当のところだと思います。だから、自分のアイデンティティというものについて自分で思いを巡らせる事自体が妙な話なのであります。
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