【頂いた句集より】
「つながる」視線で 鈴木和枝句集『離農』
金澤ひろあき
生活の中で、私達は色々な物を見ている(はずだ)。見ているにもかかわらず覚えていないのは、大して気にもとめずに過ごしているからであろう。
鈴木和枝という詩人は、生活の中で見えたものを、口語の俳句という短い詩型で掬い上げている。中に出てくるのは、野菜であったり、蛙などの小さな生き物たちだ。あるいは農作業に関わることだ。例えば、
葱坊主のガッツポーズにはかなわない (以下、引用句の作者はすべて鈴木和枝)
人参も入って今夜ソプラノ鍋
ペコペコしても本音見せませんネコジャラシ
肝のすわった筍だ 茹でてみる
はみ出した家計簿 夜通しコオロギ
だんご虫が急ぐ自由時間
光れ お母さんに好かれる茄子になれ
音のない雨は大根も私も太らせる
ドクダミ引っこ抜く淋しさ抱えていた
鍬キズなんて私しか知らない大学芋
これらの句に出てくる生き物、そして野菜と筆者は、同じ目線なのだ。描く者と描かれるものが同じ世界にいてつながっている。
鈴木和枝という人は「同じ目線」で「つながる」詩人なのかもしれない。あるいは、描く者と描かれるものが、「一体感」を持っているようだ。
「つながり」などというと、よく「食物連鎖」という語が使われる。しかし「食物連鎖」は、「食う」「食われる」の関係で図示し説かれているので、鈴木さんの句の持つ「穏やかさ」とはまた違う印象を受ける。何よりも「食物連鎖」の図の中には「人間」が入っていない。「人間」だけは別格扱いを受けているので、世界観が違うのではないか。
また一見穏やかに見えるが、自己省察もある。例えば、
蚊を叩きそこね生き方変える
コスモスよ来年の約束しかねます
雲と話す時間多くなったな
爪切る音人間なんてちっちゃいものさ
弱虫を全部背に日向ぼこ
鳩の歩きに似て来たぞ影法師
墓へ野良着のままで来てしまう
短所いくつも持って日向ぼこ
変な話だが私には尾がない
おしくらまんじゅうなんてもうやめた
最後の句など、小さな狭い世界の中での縄張り争い、優劣づけへの嫌悪のように思える。それを他人事ではなく、自分のこととして考えている。
この自己省察の延長線上に、社会への省察がある。自分の違和感に正直だ。だから、声高ではないし、自然な声である。
東京行電車吊革が妙な踊り
冬陽に温められている「売土地」
意見言えぬ時代鍬は重かった
シイタケ天日にプンプン村と町が合併
農道が真っすぐすぎて日本が危ない
不況だから太ってしまったじゃがいも
瓦礫の中から黄水仙子らが見つけた
玉葱家族分吊るして原発拒否
クーラー効きすぎ人間が駄目になる
ネコジャラシ放棄田守っている
物価高ズル寝かふて寝か冬瓜よ
口語俳句作家に共通する平和への願いも、この人にとって大切な意識である。
蟻に言っておきたい核だけは運ぶな
親の又親の代から銃を持たない蟻の列
長崎に行った時のセーター有る筈だ
戦地を逃れて来た雲くっついては離れ
巨大な冬瓜戦車だけにはなるな
平和公園蛙になって忍び込む
多くの困難な状況の中で生き、句を詠んでいるが、鈴木さんの作品は全体的に明るく、たくましい。全体に流れているのは、「生きることの肯定」である。
大根いっぱい干してあるこの家が好き
一00円バス待ついい顔ばかり
豆御飯のマメ無言でむく丸はいい
おはぎまるめる自分の丸です
輪投げ大会誰か蕗の香連れて来た
白菜の結球軽く押してから買う夢も買う
生きる約束のどくだみ一年分干す
根っからの百姓立春は西から来る
芋を摺るかわりばんこがおいしくする
「シャツ裏ですよ」もう少し夫婦でいたい
「生きることを肯定」しているから、生活感にあふれている。そして生活をまっすぐにみつめ、詩にしている。大切な生活を詠む詩という口語俳句の可能性がつまっている。
「つながる」視線で 鈴木和枝句集『離農』
金澤ひろあき
生活の中で、私達は色々な物を見ている(はずだ)。見ているにもかかわらず覚えていないのは、大して気にもとめずに過ごしているからであろう。
鈴木和枝という詩人は、生活の中で見えたものを、口語の俳句という短い詩型で掬い上げている。中に出てくるのは、野菜であったり、蛙などの小さな生き物たちだ。あるいは農作業に関わることだ。例えば、
葱坊主のガッツポーズにはかなわない (以下、引用句の作者はすべて鈴木和枝)
人参も入って今夜ソプラノ鍋
ペコペコしても本音見せませんネコジャラシ
肝のすわった筍だ 茹でてみる
はみ出した家計簿 夜通しコオロギ
だんご虫が急ぐ自由時間
光れ お母さんに好かれる茄子になれ
音のない雨は大根も私も太らせる
ドクダミ引っこ抜く淋しさ抱えていた
鍬キズなんて私しか知らない大学芋
これらの句に出てくる生き物、そして野菜と筆者は、同じ目線なのだ。描く者と描かれるものが同じ世界にいてつながっている。
鈴木和枝という人は「同じ目線」で「つながる」詩人なのかもしれない。あるいは、描く者と描かれるものが、「一体感」を持っているようだ。
「つながり」などというと、よく「食物連鎖」という語が使われる。しかし「食物連鎖」は、「食う」「食われる」の関係で図示し説かれているので、鈴木さんの句の持つ「穏やかさ」とはまた違う印象を受ける。何よりも「食物連鎖」の図の中には「人間」が入っていない。「人間」だけは別格扱いを受けているので、世界観が違うのではないか。
また一見穏やかに見えるが、自己省察もある。例えば、
蚊を叩きそこね生き方変える
コスモスよ来年の約束しかねます
雲と話す時間多くなったな
爪切る音人間なんてちっちゃいものさ
弱虫を全部背に日向ぼこ
鳩の歩きに似て来たぞ影法師
墓へ野良着のままで来てしまう
短所いくつも持って日向ぼこ
変な話だが私には尾がない
おしくらまんじゅうなんてもうやめた
最後の句など、小さな狭い世界の中での縄張り争い、優劣づけへの嫌悪のように思える。それを他人事ではなく、自分のこととして考えている。
この自己省察の延長線上に、社会への省察がある。自分の違和感に正直だ。だから、声高ではないし、自然な声である。
東京行電車吊革が妙な踊り
冬陽に温められている「売土地」
意見言えぬ時代鍬は重かった
シイタケ天日にプンプン村と町が合併
農道が真っすぐすぎて日本が危ない
不況だから太ってしまったじゃがいも
瓦礫の中から黄水仙子らが見つけた
玉葱家族分吊るして原発拒否
クーラー効きすぎ人間が駄目になる
ネコジャラシ放棄田守っている
物価高ズル寝かふて寝か冬瓜よ
口語俳句作家に共通する平和への願いも、この人にとって大切な意識である。
蟻に言っておきたい核だけは運ぶな
親の又親の代から銃を持たない蟻の列
長崎に行った時のセーター有る筈だ
戦地を逃れて来た雲くっついては離れ
巨大な冬瓜戦車だけにはなるな
平和公園蛙になって忍び込む
多くの困難な状況の中で生き、句を詠んでいるが、鈴木さんの作品は全体的に明るく、たくましい。全体に流れているのは、「生きることの肯定」である。
大根いっぱい干してあるこの家が好き
一00円バス待ついい顔ばかり
豆御飯のマメ無言でむく丸はいい
おはぎまるめる自分の丸です
輪投げ大会誰か蕗の香連れて来た
白菜の結球軽く押してから買う夢も買う
生きる約束のどくだみ一年分干す
根っからの百姓立春は西から来る
芋を摺るかわりばんこがおいしくする
「シャツ裏ですよ」もう少し夫婦でいたい
「生きることを肯定」しているから、生活感にあふれている。そして生活をまっすぐにみつめ、詩にしている。大切な生活を詠む詩という口語俳句の可能性がつまっている。
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