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pride and vainglory -澪標のpostmortem(ブリッジ用語です)-

初歩の文書分析と論理学モドキ(メモ)

空の翳り 第16章 テレマーク行❹

2021-02-09 07:19:56 | Λαβύρινθος
 とても変な物言いをしているけどもう少し辛抱して聞いておくれ。
 程度の差はあれクラシカルな論理体系(正統的と言うべきかも知れないし、生産的、進歩主義的とでもいった方がいいかも知れない。)は、事物は本質の顕現として存在し、世界は事物の相互関係として、確固としたものとして成立している。これを「事象世界」と呼ぶ事としようか。
 観察、表現、理解はそれぞれ事象世界を撫でる群盲の付け加える曇り(バイアス)。いわば幾重にも重ねられた歪な曇りガラスの越しに成立するのが「認識世界」。
 そういう訳だから如何に歪んでいたとしても、「認識世界」は本質に依拠した「事象世界」とシッカリと繋がっている。
 だから「事象世界」に一定の論理関係が成立しているならば、「認識世界」にその論理関係がなんらかの形で反映される事となる。」
 「プラトンからプロティノスまで、アヴェロエス主義やスコラの実在論、啓蒙主義者やヘーゲリアン果ては程朱の学まで含んじゃいませんか。その定義では、あまりに大風呂敷に過ぎません。」
 「良いんだ。できるだけ大きく括ってそこからはみ出すものを拾い上げようと考えているんだ。じゃあもう少し敷衍するね。事物の本質の拠り所は神、世界理性、理、マニフェストデスティニーと言ったもの。党派性を除去して中立的な表現を目指せば、統一的根源と言う言葉が良いかもしれない。この統一的根源に本質の拠り所に求めてしまえば、「事象世界」はその顕現そのものになるね。このような考えを持った人々。かりに彼等を「イデアの徒」と呼ぶ事にしよう。
 ぼくが今日話したいのは、そのような「イデアの徒」とは真逆の人たち。 仮幻主義者」とでも言うべき人々の事だ。しかし彼等を直接定義する事は難しい。まずは「イデアの徒」から話をはじめる事にしたのはそうした理由からだ。」
 「お師匠様の話しを聞いていると、ゴリゴリのマルキストや、ネオコン。もうすこしアカデミックな例で、ヘーゲルなりマルクスなりを思い浮かべてしまいますが、それで良いんですか。何か違っているような。別に型に嵌ったユダヤ・ギリシャ思想批判をおやりになるつもりとも思えませんし。」
 スキーの先が軽い雪の中に埋まり、深雪にトレースを刻んでゆく。すこしずつ上り勾配がきつくなってきた。 明るいが見通しの利かない森の中を30分ほど歩いたから、さほど勾配は意識しなかったものの屋敷のある雪原からはもう50メートル以上は上にいるはずだ。一応の目的地であるテールリッジまでは後2.5キロ、距離的にはあまりないものの、平均10度強上りの上りが続く。ゆっくりと登っていけば1時間半ほどかかる道のりだ。たっぷりと話す時間の余裕がある。 
 「予想通りの半畳有難う。勿論発展史観批判や終末論批判をするつもりはない。でもお前さんのリアクション自体にはとても面白いものがある。かなり脱線する事にはなるけど、後で関係してくるからすこしだけここで話しておくね。
 事象世界」における顕現が時間と言う軸を内包していると考えるか否かによって「イデアの徒」は、大きく区分出来る。
 言い換えれば事象世界に時間と言う概念が存在しているかどうかについての見解だ。そう思うとする考えを「事象世界時間保有説」、そうではないとするものを「事象時間無時間説」と呼ぶ事にしよう。
 もとより「認識世界」には生々流転と言う形で眼に見える時間が存在している事については「イデアの徒」である限り異論は存在し得ない。」
 「バラモン.VS.ヘーゲリアンですか。」
「そう、端的に言えばそういう事。ヘーゲリアン特にマルキストを一方の端に置けば、その反対側にはバラモンが立つ。たしかに分かりやすいアレゴリーだ。それではイスラム哲学は。」
 「そんな風に設問を設定した事がなかったので、難しい質問です。すこし時間をください。お師匠さまその間クッキーでも召し上がりながらあちらの風景でもお楽しみください。」
 そう言うと、暖かい紅茶の入ったテルモスと、いつの間にか焼いたらしい手作りのアーモンドチップクッキーをリュックから出してきた。

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