このような発言は枚挙に暇が無い。
彼らが異口同音に指摘している事にはたしかに一理あると言えよう。進歩と言う一点については、それも科学技術的側面に限っての事であるが。
かかる意見に対して直接答えるのではなく我々が「停滞の2世紀」によってなにを得る事が出来たかを考えて見る事から始めたい。
先ず第一に、宗教的熱情もしくは「神の被造物たる人間」と言う概念からの脱却である。
大まかに言って1560年代から1680年までガリア・ゲルマニアを中心として打ち続いた戦役は1640年代にはこの地域の人口を戦役開始前の半分以下に落とし込む事態に立ち至った。
領域内の諸侯は自前の軍隊を維持する事も叶わない状況に陥った。
旧教徒軍はイスパニアに頼り、新教徒軍は押しかけ助っ人とも言うべきスエーデン軍を中心とするものとなった。
こ れに加えて戦に参加する事によって糊口をしのごうとする流民で構成された両軍は蝗とでも言うべき者となり、会戦の生じた地区や駐留を続ける都市周辺においては極端な飢餓の発生が通例とも呼ぶべき状況であった。
ここにおいて新旧両派の聖職者が神の平和の名の下で休戦・和約を実現していれば後世の進路は大きく変わったかも知れない。
しかし両派の聖職者とも相手の疲弊は見えても、自己の状況には眼を閉ざしいたずらに「神の正義」の名による殲滅を唱えるばかりであった。 このような状況の下、17世紀初期までは千年王国的神秘主義によるユートピア運動であった都市叛乱が、次第にその性格を変え宗教的色彩を薄めて行った。
失敗に終わったとはいえ、1660年代のガン・ハンブルク・ヴェルダン等の都市叛乱にその萌芽を見る事が出来る。
このような動きが決定的なものとなったのは1684年ファルツ・アルザス誓約者同盟がスイス同盟およびベネチアの援護を受け、域内における無神論を含む信仰の自由と聖職者の議会・公職・教育の参画禁止を柱とする休戦同盟として形成されてからであった。
幾多の曲折はあったものの現在のヨーロッパ・アナトリア・北アフリカ連合の基幹はここにあるとさえ言える。
新旧両軍の王侯間で検討されたアウグスブルク和約型の、あくまで「キリスト教の枠内に留まり貴族による領邦制を前提とした」、寛容ではイスラム教徒との和解が原理的に不可能であった(イスラム側の変質も勿論必要であり、その意味ではスルタンカリフ制の立ち腐れとも言うべき解体過程が大きく寄与する事となるが、本論の範囲を超える為詳述はいたさない。)。
更に言えば、19世紀における新ゴレス連合との遭遇も遥かに苛烈なものとなった事であろう事も想定される
彼らが異口同音に指摘している事にはたしかに一理あると言えよう。進歩と言う一点については、それも科学技術的側面に限っての事であるが。
かかる意見に対して直接答えるのではなく我々が「停滞の2世紀」によってなにを得る事が出来たかを考えて見る事から始めたい。
先ず第一に、宗教的熱情もしくは「神の被造物たる人間」と言う概念からの脱却である。
大まかに言って1560年代から1680年までガリア・ゲルマニアを中心として打ち続いた戦役は1640年代にはこの地域の人口を戦役開始前の半分以下に落とし込む事態に立ち至った。
領域内の諸侯は自前の軍隊を維持する事も叶わない状況に陥った。
旧教徒軍はイスパニアに頼り、新教徒軍は押しかけ助っ人とも言うべきスエーデン軍を中心とするものとなった。
こ れに加えて戦に参加する事によって糊口をしのごうとする流民で構成された両軍は蝗とでも言うべき者となり、会戦の生じた地区や駐留を続ける都市周辺においては極端な飢餓の発生が通例とも呼ぶべき状況であった。
ここにおいて新旧両派の聖職者が神の平和の名の下で休戦・和約を実現していれば後世の進路は大きく変わったかも知れない。
しかし両派の聖職者とも相手の疲弊は見えても、自己の状況には眼を閉ざしいたずらに「神の正義」の名による殲滅を唱えるばかりであった。 このような状況の下、17世紀初期までは千年王国的神秘主義によるユートピア運動であった都市叛乱が、次第にその性格を変え宗教的色彩を薄めて行った。
失敗に終わったとはいえ、1660年代のガン・ハンブルク・ヴェルダン等の都市叛乱にその萌芽を見る事が出来る。
このような動きが決定的なものとなったのは1684年ファルツ・アルザス誓約者同盟がスイス同盟およびベネチアの援護を受け、域内における無神論を含む信仰の自由と聖職者の議会・公職・教育の参画禁止を柱とする休戦同盟として形成されてからであった。
幾多の曲折はあったものの現在のヨーロッパ・アナトリア・北アフリカ連合の基幹はここにあるとさえ言える。
新旧両軍の王侯間で検討されたアウグスブルク和約型の、あくまで「キリスト教の枠内に留まり貴族による領邦制を前提とした」、寛容ではイスラム教徒との和解が原理的に不可能であった(イスラム側の変質も勿論必要であり、その意味ではスルタンカリフ制の立ち腐れとも言うべき解体過程が大きく寄与する事となるが、本論の範囲を超える為詳述はいたさない。)。
更に言えば、19世紀における新ゴレス連合との遭遇も遥かに苛烈なものとなった事であろう事も想定される
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