三沢市歴史民俗資料館。青森県三沢市三沢淋代平。寺山修司記念館となり。
2022年9月30日(金)。
縄文時代後期の十腰内式土器など。
小比類巻文書。
現在の下北・南部地方は、糠部郡(ぬかのぶ・ぬかのべ)と呼ばれ、不毛の大地であったものの、馬の飼育には条件が良く、古くから名馬の産地であった。鎌倉幕府は、馬を育てるのに優れた腕を持つ南部氏や工藤氏の一族を地頭代として当地方に送り込んだ。
室町時代の初め、南部師行が陸奥国司の代官となって糠部郡根城(八戸市)に入り、三沢の地域は南部氏の領地となった。この頃には、糠部郡では馬産が盛んに行われた。
江戸時代になると三沢の地名、木崎(きざき)が歴史上に現れる。三沢の地域は南部藩領で、三沢のほとんどは下南部家の家臣、下田舘主の下田家800石の領地であった。木崎野牧は、寛永 7年(1630年)藩主令により再興(母馬30頭)されたが、寛永16年(1639年)下田治太夫は牧を返上した。
南部藩は、小比類巻掃部助(こひるいまきかもんのすけ)を野守に任命した。小比類巻一族は、現在の三沢の浜三沢(三沢村)に移住し、南部藩の直営牧場を経営した。
小比類巻家は、寛永18年ころから約230年間「木崎野」における五戸代官所との連絡や農業、漁業凶作など地域全般の事柄にあたり、詳細に記録された小比類巻文書が貴重な資料となっている。
このあと、隣接する寺山修司記念館を見学した。
三沢市寺山修司記念館。三沢市三沢字淋代平。
建物は延床面積約833平方メートルの展示棟とホワイエ棟があり、渡り廊下で繋がる。ホワイエ棟外壁は、寺山修司と交流のあった約30人のメッセージと寺山修司の作品を題材とした陶板149枚で飾られている。
2022年9月30日(金)。
外観は、寺山芸術の小道具として登場した「柱時計」がモチーフになっている。
寺山修司(1935~1983年)は、1967年、横尾忠則、東由多加、九條映子らと劇団「天井桟敷」を結成。丸山(美輪)明宏は『毛皮のマリー』に出演して、再ブレイクした。
中央の写真は、左から、寺山修司、横尾忠則、東由多加、丸山(美輪)明宏。1967年。
「天井桟敷」は有名で、60年代アングラ文化・カウンターカルチャーの帝王的存在だが、演劇などを直接見たことはないので、それほどファンでもない。寺山の「書を捨てよ、町へ出よう」は当時流行した言葉である。カルメン・マキの「時には母のない子のように」の作詞を手がけた。
寺山修司の母はつより寄贈された遺品の保存と公開のために三沢市が三沢市民の森公園内に建設した寺山修司の顕彰施設である。
寺山修司と親しかった粟津潔のデザインをもとに、九條今日子をはじめとする元天井棧敷のメンバーなど数多くの関係者のアドバイスを得て建設され、1997年(平成9年)7月に開館した。
館内は、寺山修司が主宰した劇団「演劇実験室・天井棧敷」の舞台や映画のセットの再現、そして11台の机の引き出しの中を懐中電灯で照らしての鑑賞など、先例を見ない展示がされており、机の中は、懐中電灯で照らして見ることになる。
1983年寺山修司は、何もかもを机の引き出しに置き忘れたまま、自分の存在を不確かなものとして旅立っていった。この記念館はそんな寺山修司を「探す」ことを展示構成の基本としている。「日本一不親切な展示」と自慢するとおり、暗くて展示を見ることが馬鹿らしくなってしまった。
館から徒歩5分の小田内沼の畔には「作家寺山修司文学碑」が1989年(平成元年)に設けられており、碑に至る散策路には道標のように歌碑が点在する。歩いてみたが、期待した景色は見られなかった。
このあと、三沢基地に隣接する青森県立三沢航空科学館を見学した。