いちご畑よ永遠に(旧アメーバブログ)

アメーバブログ「いちご畑よ永遠に(旧ヤフーブログ)」は2023年7月に全件削除されましたが一部復活

青森県 三沢市寺山修司記念館 三沢市歴史民俗資料館②十腰内式土器 小比類巻文書 

2024年05月05日 15時45分51秒 | 青森県

三沢市歴史民俗資料館。青森県三沢市三沢淋代平。寺山修司記念館となり。

2022年9月30日(金)。

縄文時代後期の十腰内式土器など。

小比類巻文書。

現在の下北・南部地方は、糠部郡(ぬかのぶ・ぬかのべ)と呼ばれ、不毛の大地であったものの、馬の飼育には条件が良く、古くから名馬の産地であった。鎌倉幕府は、馬を育てるのに優れた腕を持つ南部氏や工藤氏の一族を地頭代として当地方に送り込んだ。

室町時代の初め、南部師行が陸奥国司の代官となって糠部郡根城(八戸市)に入り、三沢の地域は南部氏の領地となった。この頃には、糠部郡では馬産が盛んに行われた。

江戸時代になると三沢の地名、木崎(きざき)が歴史上に現れる。三沢の地域は南部藩領で、三沢のほとんどは下南部家の家臣、下田舘主の下田家800石の領地であった。木崎野牧は、寛永 7年(1630年)藩主令により再興(母馬30頭)されたが、寛永16年(1639年)下田治太夫は牧を返上した。

南部藩は、小比類巻掃部助(こひるいまきかもんのすけ)を野守に任命した。小比類巻一族は、現在の三沢の浜三沢(三沢村)に移住し、南部藩の直営牧場を経営した。

小比類巻家は、寛永18年ころから約230年間「木崎野」における五戸代官所との連絡や農業、漁業凶作など地域全般の事柄にあたり、詳細に記録された小比類巻文書が貴重な資料となっている。

 

このあと、隣接する寺山修司記念館を見学した。

三沢市寺山修司記念館。三沢市三沢字淋代平。

建物は延床面積約833平方メートルの展示棟とホワイエ棟があり、渡り廊下で繋がる。ホワイエ棟外壁は、寺山修司と交流のあった約30人のメッセージと寺山修司の作品を題材とした陶板149枚で飾られている

2022年9月30日(金)。

外観は、寺山芸術の小道具として登場した「柱時計」がモチーフになっている。

寺山修司(1935~1983年)は、1967年、横尾忠則、東由多加、九條映子らと劇団「天井桟敷」を結成。丸山(美輪)明宏は『毛皮のマリー』に出演して、再ブレイクした。

中央の写真は、左から、寺山修司、横尾忠則、東由多加、丸山(美輪)明宏。1967年。

「天井桟敷」は有名で、60年代アングラ文化・カウンターカルチャーの帝王的存在だが、演劇などを直接見たことはないので、それほどファンでもない。寺山の「書を捨てよ、町へ出よう」は当時流行した言葉である。カルメン・マキの「時には母のない子のように」の作詞を手がけた。

寺山修司の母はつより寄贈された遺品の保存と公開のために三沢市が三沢市民の森公園内に建設した寺山修司の顕彰施設である。

寺山修司と親しかった粟津潔のデザインをもとに、九條今日子をはじめとする元天井棧敷のメンバーなど数多くの関係者のアドバイスを得て建設され、1997年(平成9年)7月に開館した。

館内は、寺山修司が主宰した劇団「演劇実験室・天井棧敷」の舞台や映画のセットの再現、そして11台の机の引き出しの中を懐中電灯で照らしての鑑賞など、先例を見ない展示がされており、机の中は、懐中電灯で照らして見ることになる。

1983年寺山修司は、何もかもを机の引き出しに置き忘れたまま、自分の存在を不確かなものとして旅立っていった。この記念館はそんな寺山修司を「探す」ことを展示構成の基本としている。「日本一不親切な展示」と自慢するとおり、暗くて展示を見ることが馬鹿らしくなってしまった。

館から徒歩5分の小田内沼の畔には「作家寺山修司文学碑」が1989年(平成元年)に設けられており、碑に至る散策路には道標のように歌碑が点在する。歩いてみたが、期待した景色は見られなかった。

 

このあと、三沢基地に隣接する青森県立三沢航空科学館を見学した。

青森県 三沢市歴史民俗資料館①北日本最古の土偶と貝殻文土器 野口コレクション


青森県 三沢市歴史民俗資料館①北日本最古の土偶と貝殻文土器 野口コレクション

2024年05月05日 14時20分56秒 | 青森県

三沢市歴史民俗資料館。青森県三沢市三沢淋代平。寺山修司記念館となり。

2022年9月30日(金)。

七戸町の世界遺産・二ツ森貝塚を見学後、東の海側へ向かい、米軍キャンプ跡のような小川原湖東岸の園地帯を抜けると三沢市歴史民俗資料館に着いた。

三沢市歴史民俗資料館の展示コーナーでは、北日本最古の土偶縄文時代晩期の赤漆彩色土器を中心とした野口コレクションなど、三沢市内から出土した先史・古代の出土品を多数展示している。また、日本最大級のへらぶなのホルマリン漬けをはじめとする小川原湖や湖岸にみられる動植物の剥製や写真、小川原湖の内水面漁業、太平洋の沿岸漁業の漁具、馬具、農具、農作業衣、生活用具等も多数展示している。

北日本最古の土偶と貝殻文土器(縄文時代早期中頃)。

小川原湖東岸に所在する根井沼(1)遺跡から約9000年前の板状土偶が発見されている。高さ3cmぐらいの小さなものであるが、頭と腕が表現されている。板状をしていることから土偶」という総称で呼ばれている。

また、土器の表面にアカガイなどの貝で文様を施した「貝殻文土器」が大量に出土している。土偶と同時期のもので、県内屈指の出土量を誇る。

貝殻文土器。

(以下、参考図。六ヶ所村立郷土館)

「野口コレクション」。野口貝塚(縄文時代早期、前期、後期、晩期)。

小川原湖東岸に所在する野口貝塚は、「遮光器土偶」を含めた縄文晩期の工芸的な土器群で構成される「野口コレクション」により知られている。貝塚が形成されたのは、前期初頭で、アサリ、ハマグリを主体とした分厚い貝層がある。平成25年6月の調査で、早期中頃(約8,600年前)と思われる貝層が確認されており、かなり古くから眼前に広がる内湾(現小川原湖)が食料を得るための重要な場所だったことがうかがえる。 

遮光器土偶。

青森県七戸町 世界遺産・二ツ森貝塚 二ツ森貝塚館②円筒土器 榎林式土器


青森県七戸町 世界遺産・二ツ森貝塚 二ツ森貝塚館②円筒土器 榎林式土器

2024年05月05日 10時58分49秒 | 青森県

二ツ森貝塚館。七戸町字鉢森平。

二ツ森貝塚館は、二ツ森貝塚史跡公園から800mほど西の場所にある、閉校になった天間東小学校を再利用した施設である。二ツ森貝塚や町内の遺跡から出土した資料を展示している。

二ツ森貝塚は、旧遺跡名から名付けられた「榎林(えのきはやし・えのきばやし)式土器」という縄文時代中期後半の土器型式の標式遺跡として知られる。

榎林式土器は、東北北部の円筒土器文化と東北南部の大木(だいぎ)式土器文化の二つの文化の融合により生まれた。榎林式土器には、大木8b式土器の樽のような丸い形と渦巻文様が見られ、円筒上層e式の上部の開きや、線描も見られる。

二ツ森貝塚の榎林式土器を代表する人面付土器。

縄文時代前期の中頃から、円筒土器というバケツを細長くしたような形の土器を用いる文化が、青森県を中心として北海道南西部から東北北部の広範囲に花開いた。

その中には、前期から中期にいたる円筒土器文化のもと約1500年の長期にわたり集落が営まれた全国でも最大規模の縄文集落である三内丸山遺跡などがある。

縄文時代前期中頃から始まった円筒土器文化は、中期に引き継がれる。前期の土器が円筒下層式と呼ばれるのに対して中期の土器は円筒上層式と呼ばれ、シンプルな形の多い前期の土器に比べると、土器の口の部分に突起や粘土紐による装飾が加えられるなど、より華やかになる。また、前期には胎土に植物繊維を混ぜることにより土器をもろくならないようにしていたのに対し、中期には砂粒を加え、焼成温度を高くして強固な土器を作っていた。

東北北半に広がる円筒土器文化圏に対して、東北南半には大木(だいぎ)式土器文化圏が広がっていた。前期から長く続いてきた円筒土器文化も中期の最後には衰退し、南の大木式土器文化が徐々に浸透していく。

二ツ森貝塚や三内丸山遺跡などの土器形式は、I期からVI期に区分されている。古いほうから、I期は縄文時代前期中頃:円筒下層a・b式土器、II期は前期後半:円筒下層c・d式土器、III期は中期前半:円筒上層a・b式土器、IV期は中期中頃:円筒上層c~e式土器、V期は中期後半:榎林式・最花(さいばな)式土器、VI期は中期最終末:大木10式土器である。

二ツ森貝塚出土の土器・土偶。

縄文時代晩期の土偶。

古墳時代の遺跡。森ケ沢遺跡出土の土器。北の続縄文文化と古墳文化が併存。

このあと、小川原湖東岸へ向かい、三沢市歴史民俗資料館・寺山修司記念館を見学した。

青森県七戸町 世界遺産・二ツ森貝塚 二ツ森貝塚館①埋葬された縄文犬