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読書メモ「人類の起源」篠田謙一 日本人・世界の民族のルーツ 

2024年05月24日 09時59分12秒 | 歴史

「人類の起源」篠田謙一、中公新書、2022年2月。

ヤムナヤ集団は、青銅器時代初期に当たる5000~4100年ごろに中心地であるウクライナから東西両方面への拡大を始めた。

青銅器時代後期にはユーラシアステップに興ったアンドロノヴォ文化集団も東西両方向へ拡散した。この二つの集団はインド・ヨーロッパ語族であった。

スキタイは地域によって遺伝的な構成が異なっていた。西ユーラシアのスキタイにはヤムナヤ文化の遺伝的な要素が認められる。

BC3世紀に出現した匈奴は東アジア集団とスキタイの一部により成立した連合体。4世紀に興った遊牧民フン族と同様にチュルク語族。

南アジア集団

在来の南方集団は、アンダマンにつがる古代の狩猟採集民と9千年前以降にイランから来た初期農耕民が混合して7400年~5700年前に成立した。その後に北方集団との新たな混合が起こった。

4600年~3900年前のインダス文明は、この集団が興した。イラン系の割合は45~82%、南部狩猟採集民の割合は11~50%。

「第三の波」をもたらした集団はヤムナヤ集団とはつながらない。5500年前に最初にウマを家畜化したカザフスタンのボタイ遺跡の人々はバイカル湖周辺の東シベリア狩猟採集民に連なる系統。

アウトオブ台湾モデルは正しい。台湾が源郷で、その祖先は中国南部の海岸地帯。

13世紀頃ポリネシア人と南米コロンビア付近の先住民の祖先集団が接触した。

中国の南北地域集団の遺伝的相違。中国大陸には南北二つの人口拡散のセンターがあり、1万年以降の農耕の拡散により、現代の中国人の祖先の大部分は北のグループにつながっており、さまざまな割合で南のゲノムを取り込んでいる。

西遼河流域の古人骨は田園洞人骨のゲノムから派生している。西遼河流域は、キビを中心とした雑穀農耕が興った地である。その古代ゲノムに、日本や韓国の現代人との共通性があることから西遼河流域が日本語や韓国語の祖語の起源地と考えられる。この集団の動きは3000年前に弥生時代初期の農耕民の流入という形で日本列島に影響を与えた。ただし、現在は稲作起源地の長江流域の古人骨のゲノムの解析がされていない。

シノ・チベット語族に属する集団は5千年ほど前の黄河流域のキビ栽培をしていた農耕民に起源がある。南のチベット高原へ拡大したグループによってチベット・ブータン語が生み出され、中原に向けて南と東、東の海岸に拡大した集団のなかから中国語が生まれた。

南のセンターは稲作農耕を主体としたもので、日本列島との関係は不明であるが、南方への進出はオーストロアジアやタイ・カダイ語族の分布と関係する。

東南アジアや日本列島などの東アジアの沿岸部では、初期拡散で定着した人々と農耕民の混合によって現代に続く集団が形成された。

縄文人のミトコンドリアDNAの代表的なハプログループはM7aとN9b。現代では日本列島に限って存在していること、成立年代が3万~2万年前にさかのぼることから、旧石器時代に流入し、大陸に残った系統は消滅したと考えられる。

N9bの系統は東日本から北海道にかけて多数を占め、M7aは西日本から琉球列島で多数になるので、集団の違いを示す。

M7aでも西日本に分布するものが成立年代が古く、東に行くほど新しくなるので、中国大陸の南部沿岸から西日本に進入して東へ向かったと推測される。琉球列島と九州の系統は1万年ほど前に分岐した

N9系統の祖先は朝鮮半島から沿海州の広い地域に散在しており、北回りルートと朝鮮半島経由ルートにより日本列島に到達したとみられる。

縄文人は旧石器時代にさまざまな地域から入ってきた集団によって形成され、多様な集団が居住していた。

現代日本人に占める割合はM7aが7.5%、N9bは2.1%。縄文時代の人口は東日本のほうが多かったことと矛盾するが、これは弥生時代の渡来人と在来の縄文人の混合状況にある。

九州長崎・佐賀の沿岸部離島の西北九州弥生人や南九州弥生人は縄文人の直系の子孫。

福岡県那珂川市の安徳台遺跡の弥生中期の女性は、現代日本人の範疇に収まり、縄文人にやや近かった。

弥生時代稲作農耕は長江中流域から拡散した日本の青銅器の源流は北東アジアにあるとされる。この二つの要素は異なる集団に起源をもつ可能性がある。

本土の現代日本人に関しては主に朝鮮半島に起源をもつ集団が渡来することにより、列島の在地の集団を飲み込んで成立した。主体は渡来した人々である。

朝鮮半島の古代集団や渡来系の弥生人と西遼河の新石器時代雑穀農耕民は遺伝的に連続している。この雑穀農耕民が6000年前以降に朝鮮半島に進出し、3300年ほど前に遼東半島と山東半島の稲作農耕民も朝鮮半島に流入することで、稲作農耕が朝鮮半島に伝わった。そこで在地の縄文系の遺伝子を持つ集団と混合して新しい集団が形成され、その中から生まれた渡来系弥生人が3000年前以降に日本列島に到達した。

弥生時代前期の佐賀県唐津市の大友遺跡人骨のゲノムは縄文人と同じだが、半島文化の支石墓に埋葬されていた。弥生後期の長崎県佐世保市の下本山岩陰遺跡人骨は縄文人と現代日本人の中間であった。

東北に到達した渡来系農耕民は人口で在来集団を大きく上回っており、両者の混合は在来集団の吸収に近い形で行われた。

琉球列島では、縄文人が存在した。貝塚時代後期(弥生~平安時代)から九州との交易が始まり、本土日本人の影響を受けるようになり、グスク時代の開始期に南九州の農耕民の流入により加速した。

アイヌ集団北海道の縄文人を基盤としてオホーツク文化人の遺伝子を受け取ることで成立した。

2000年前に千島列島を経由してカムチャッカ半島集団の遺伝子が流入し、1500年前には沿海州からの遺伝子の流入があった。

現代アイヌは縄文人のゲノムを70%ほど持っている。

ゲノムから見た東アジア集団。

東南アジアから初期拡散によって北上した集団の中で、沿岸地域の広いエリアに分布する集団が列島に進入し混ざり合って縄文人の母体になった。大陸の現代人集団の中にもわずかにゲノムを留めている。朝鮮半島集団の基層に縄文人につながる遺伝子がある。

Y染色体DNAでは、縄文人は現代日本人で3割を占めるものの半島や中国にはほとんどいないハプログループD系統を持っている。

釜山郊外獐項(しょうこう)遺跡の6000年前のゲノムは現代の韓国人よりも多くの縄文的要素を持ち、ほぼ現代日本人と同じ位置にあった。縄文時代相当期の朝鮮半島南部の集団と北部九州の縄文人集団は区別できない。

アメリカ先住民。ベーリング陸橋(ベーリンジア)を越えてアジアから人類が進入した。南米最南端からクロヴィス文化より古い遺跡が発見された。無氷回廊よりも、海沿いのルートで北米に移動したと言う説が有力になった。初期集団が新大陸に進出した時点での規模は5000人に満たない集団。

共通祖先の誕生した年代は2万4千年前。3万9千年前に東ユーラシアへ向かったグループから北回りでシベリアに向かった古代北シベリア集団が生まれた。その中に2万3千~2万年前に東アジア古代集団と混合するグループがあり、バイカル湖周辺で古代アメリカ先住民の祖先となった

2万1千~1万6千年前に北米北海岸で最初の分岐、1万7500~1万4600年前に北米南海岸で北方アメリカ先住民と南方アメリカ先住民に分岐。前者は北米東部に拡散。クロヴィス文化の担い手である南方アメリカ先住民は南米に進出したが9000年前ごろに消滅。中米から南方アメリカ先住民の異なる集団が南米へ進出し現代の南アメリカ先住民の祖先となった。

4200年前以降の中央アンデス山岳地域集団はカリフォルニアのチャネル諸島の古代集団と遺伝的に共通。4200年以上前の時代に北米から南米へ向かった集団の流入があった。