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青森県八戸市 日本100名城・根城(ねじょう)跡①根城南部氏 本丸跡に入るまで

2024年05月12日 08時50分39秒 | 青森県

日本100名城・国史跡・根城(ねじょう)跡。八戸市博物館。青森県八戸市根城。

2022年10月1日(土)。

道の駅「十和田」で起床。国史跡・根城跡の見学入口となる八戸市博物館に9時前に着いたが、駐車場に入る車で渋滞していた。当日は「史跡根城まつり」が開催され、様々なイベントが予定されており、博物館・根城本丸の入場は無料であった。

根城南部氏4代南部師行(もろゆき)銅像。八戸市博物館入口。

根城は、根城南部氏(八戸氏)の居城で、馬淵(まべち)川河口近くの右岸に広がる台地上に築かれた平城である。陸奥国司北畠顕家の郡代としてこの地に入った根城南部氏4代南部師行(もろゆき)が1334年(建武1)に糖部郡八戸石懸村八森に築城した。「奥州平定の根の城」と顕家からその完成を祝われ、根城と名づけたと伝えるが、江戸時代初期に「根城」と名付けられ、それまでの公称は八戸城だったという。

馬淵(まべち)川の下流右岸沿いの段丘末端に位置し、東と南は南方から延びる丘陵地、西は西にしノ沢の沢地を隔てて丘陵地に面し、北は馬淵川が北東に流れる。本丸の同川沿岸低地との比高は約15m。中ほどを北東から南西に国道104号(三戸街道)が通る馬淵川流域の出入口を押える要地にあたり、東に太平洋が控えているところから、海上交通と河川交通との接点でもあった。

根城南部氏は東北の地で足利勢に抗して南朝に忠誠を尽くし、根城を南朝の東北地方における一大拠点として8代の政光まで5代にわたり、優勢な足利氏に屈せず南朝方に忠節を尽くした。

天正18年(1590)豊臣秀吉の諸城破却令によって、壊されたことになっているが、住居としての館は残され、寛永4年(1627)直栄が遠野に移封後、完全に壊された。1627年(寛永4)、直栄が遠野に国替えされるまで300年の間、南部氏の居城として続いた。

本丸、中館(なかだて)、東善寺館(とうぜんじだて)、岡前館(おかまえだて)、沢里館(さわさとだて)の5郭が残るそれぞれに堀があり、独立した城のような構成で、中世の典型的な築城形態を残している。

1994年(平成6)、史跡公園の主要整備が完成。史跡の主要部分は「史跡根城の広場」として公園化され、発掘調査の成果をもとに、安土桃山時代の根城の様子が復原整備されている。本丸跡には、主殿と呼ばれる当主が儀式を執り行った建物を中心に工房(こうぼう)・板蔵(いたくら)・納屋(なや)・馬屋(うまや)などが復原されており、内部に入れば、正月の儀式の様子や、いろいろな道具類などを見ることができる。

史跡公園入口。

中舘手前の堀。

中舘。

中舘から本丸跡方向。

中舘と本丸跡の堀。

本丸跡から中舘方向。

根城南部氏(八戸氏)。

南部氏は多くの支族を抱えていたが、その中で南部師行は南部氏としては記録上初めて、南北朝時代に北畠顕家に従って奥州に下向した。南北朝時代、1333年(元弘3年、正慶2年)南朝方に属する武将・北畠顕家は陸奥国司として後醍醐天皇の皇子・義良親王を奉じて陸奥国に下向した。この時、甲斐国波木井の地頭職であった南部師行も供奉し、国代として任じられた。

1334年(建武元年)師行は、従前工藤氏の拠っていた糠部郡八戸八森の城を接収し、居城とした。

南部師行の子孫は八戸氏を称し、一般には根城南部氏とよばれる。従来、根城南部氏は南部氏の有力な分家と見られてきたが、近年の研究では根城南部氏が当初は南部氏の宗家に位置付けられていたと推定されている。

1338年南部師行は北畠顕家とともに足利尊氏討伐に遠征したが、師行は和泉国石津川(大阪府堺市西区浜寺石津町)の地で北朝方の高師直との戦いで顕家と共に戦死した。

師行の死後、弟の政長が跡を継いだ。政長は室町幕府から再三の降伏勧告を受けたが従わず南朝への忠誠を守り続けた。1393年(明徳4年)南部氏8代の八戸政光は本領の甲斐から根城に移って南部氏の再興を図った。

南朝方が次第に劣勢となると14世紀半ばからは次第に力を弱め、北朝方であった同族の三戸南部氏が次第に有力になったが、17世紀前半までは下北地方などを領有し、南部氏のなかでも比較的大きな勢力を有していた。

1590年(天正18年)小田原征伐の際に宗家の三戸城主南部信直は豊臣秀吉の元に帰参して所領の南部7郡を安堵された。この際に、根城南部氏(八戸氏)も宗家の支配下に組み込まれた

江戸時代に入り、宗家の南部利直は盛岡城を築き盛岡藩を開いた。元和3年(1617年)に所領のうち下北地方を、幕藩体制下で宗家としての地位を確固たるものにした三戸南部氏(盛岡南部氏)によって接収された。

寛永4年(1627年)、八戸氏22代・直義は遠野(現在の岩手県遠野市)に移される。これ以後の根城南部氏は遠野南部氏とよばれ、江戸時代を通じ盛岡藩の世襲筆頭家臣であり、中野氏、北氏と共に南部家中で代々家老を務める「御三家」の一つとして続いた。

なお遠野南部氏が、日蓮に帰依し身延(現在の山梨県南巨摩郡身延町)の地を寄進したとされる南部実長(波木井実長)の子孫を称するようになるのは、江戸時代後期になってからである。

三戸南部氏(盛岡南部氏)。

三戸に根拠を置いた系統は三戸南部氏とよばれる。三戸南部氏の系譜は明確ではないが、南北朝時代に奥州に下向した南部氏の一族と見られている。三戸南部氏は鎌倉時代にこの地に下向した南部氏の宗家と従来は考えられてきたが、根城南部氏が当初は南部氏宗家に位置付けられていたと近年では推定されている。三戸南部氏は南北朝時代には北朝を支持していたが、いつごろ南部氏の宗家としての地位を築いたのかは分かっていない

このような一族内の主従関係が曖昧な状況に終止符が打たれたのは、豊臣秀吉によるいわゆる「天下統一」事業により三戸南部氏当主である南部信直が、津軽為信に押領された津軽三郡以外の所領を安堵されたころである。

近世大名としては同族連合を否定し、有力一族も家臣として宗家への服属を求められ、八戸政栄は根城南部氏が三戸南部氏の「付庸」であることを認めた。三戸南部氏は大浦(津軽)氏以外の南部諸氏を家臣化することに成功し、宗家としての地位を確立した。その後、三戸南部家は居城を三戸から盛岡に移し、根城南部氏に対しては遠野への知行替を行った。

八戸藩。

近世には盛岡藩から八戸藩が分立するが、これは、盛岡南部氏の当主南部重直の死後に将軍徳川家綱が裁定して、寛文4年(1664年)12月に重直の異母弟の南部重信に2万石減封して盛岡8万石を与えて家を相続させ、同じく異母弟(重信とも異母兄弟)の南部直房に新知として八戸2万石を与え、事実上の分割相続を行った際に創立したものである。

重信は後に幕府に盛岡藩の高直しを願い出て、八戸藩を含まずに、8万石から10万石となっている。

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