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青森市 国史跡・高屋敷館遺跡 平安時代の蝦夷(エミシ)集落

2024年04月21日 16時09分47秒 | 青森県

国史跡・高屋敷館(たかやしきだて)遺跡。青森市浪岡高屋敷野尻。

2022年9月28日(水)。

道の駅「なみおか」で起床。浪岡城跡に近い資料館「中世の館」が9時開館なので、その前に平安時代後期の環濠集落である国史跡・高屋敷館遺跡を見学することにした。高屋敷館遺跡の概要や出土品は「中世の館」に展示されている。

高屋敷館遺跡は、国道7号線バイパスに隣接する史跡公園にあるが、車線の東側にあるので、駐車場入口を見逃してしまった。戻って、駐車場へ入ると広大な駐車場があった。

高屋敷館遺跡は、濠と土塁を巡らした平安時代後期のいわゆる環濠集落である。高屋敷館遺跡では10世紀ごろから12世紀ごろまで人々が住み、11世紀に壕と土塁に囲まれた集落として最も栄えたとみられる。

国道バイパス建設に伴う発掘調査を行った結果、遺跡の時期は,出土土器等により10世紀後半頃から12世紀前半頃と考えられる古代のものと判明し、その性格をめぐって大きな議論をよんだ。遺跡はバイパスの路線を変更することによって全体の保存が図られた。

遺跡は東に平野を臨む台地の縁辺に立地し,南北約100m、東西約80mの規模をもつ。西側には、幅約6m,深さ約3mの濠とその外側に幅約2m,現存高約1mの土塁を巡らし、集落を外部から遮断している。

濠の西側には出入口と考えられる土塁が途切れた部分があり、この他南西部にも木の橋が濠に架けられていた。濠の内部には大小の竪穴住居が重複しながら密集し、その数は86棟が確認されており、それ以外にもかなり多数の存在が推定されることから、多くの人々が長期にわたり生活していたことが知られる。

このうち2棟の竪穴住居からは,鉄滓が出土しており鍛冶工房と考えられる。出土している遺物は土器の他、種々の鉄製品・木製品が豊富にある。

なお、遺跡北側には高屋敷館遺跡に先行する時期の、竪穴と掘立柱建物が連結する建物にU字形の溝がめぐる遺構と、墓と推定される円形周溝遺構があり、高屋敷館遺跡成立以前の状況が具体的に知られる。  

集落を濠と土塁で囲むという構造は、防御を意図したものとも考えられる。同じ時期に日常生活を営むのに不便な高い山上に立地するいわゆる高地性集落も知られており、合わせて防御性集落とも称される。古代の環濠集落・高地性集落は、現在のところ、秋田・岩手両県の北部から青森県に及ぶ東北地方北部、さらには北海道南部に分布し、時期はいずれも平安時代後期の10世紀から12世紀を中心としている。

東北北部以北の地域は律令国家の直接的な支配が及ばない地域であった。この地域に環濠集落・高地性集落が成立することは、この地域が律令国家の支配領域とは異なった社会情勢にあったことを示唆する。

記録によれば、岩手県・秋田県の地域においては、11世紀後半に前九年、後三年の役があったことが知られているが、これらの遺跡の存在から、それ以前から、蝦夷の集団相互の抗争などがあったことが想定される。本遺跡はこの地域の古代の環濠集落の中でも、とくに規模が大きく、出土遺物も豊富で遺跡の遺存状況も良好であり、重要な歴史的意義を有している。

史跡整備では、この遺跡の最盛期である11世紀代の竪穴建物跡・工房跡12棟について平面表示、柵列・土塁・壕跡について立体表示をしている。

 

土塁は、壕の外側に造られている。幅は2.1mで、総延長は約188mある。土塁の外周や頂部に、防御を強める柵列のような施設は確認されていない。

は、土塁の内側に総延長約214mにわたって掘られている。基本的には空壕と考えられ、雨水等は東側の大釈迦川へ流れ込むようになっている。

 

出入口・柵列・門。

集落の出入口は、3か所確認されている。西側では土塁が虎口状に途切れており、橋脚のない木製の橋が架けられていたものと考えられる。また、その付近には、壕の内側に沿う形で柵列や門の痕跡が確認されている。

集落西側の土塁が途切れた部分から壕をわたり、木柱の門をぬけると、たくさんの建物や、建物をつなぐ通路、柵列がつくられ、鉄に係わる生産活動などが行われていた。集落が途絶えると壕は完全に埋められ、近年まで果樹園などとして利用されていた。

竪穴建物跡。壕で囲まれた内郭からは、竪穴建物跡が70棟ほど見つかっている。最も大きな竪穴建物跡(第23号住居跡)は、直径9m前後の規模で、床面積は約84㎡である。建物の中央に4本の主柱穴があり、壁際には多数の壁柱穴を配置している。

鉄器生産関連遺構。

ほぼ方形の直径6m前後の竪穴建物跡で、床面積は約40㎡である。この建物は、改築されており、炉跡が見つかっていることから、継続した鉄器生産が行われた施設であったようである。

 

資料館「中世の館」。出土遺物。

発掘調査では、衣・食・住・生産に関連した資料が発見され、遺跡内での生活や暮らしぶりを想像できるようになった。

衣:植物から繊維(糸)をつくっていたとみられる道具(苧引金(おひきがね)・紡錘車(ぼうすいしゃ))。

食:当時の人々が食べていたとみられる穀物(イネ・オオムギ・コムギ・アワ・ヒエ)やマメ類、皿・碗・貯蔵のためのうつわ(土師器・須恵器・漆器椀)や調理具(土鍋・鉄鍋・竪杵)。

住:建物の一部とみられる多量の板材や加工材(部材)。

生産:農耕具(鋤・クワ先・鉄斧)、鍛冶作業の道具(坩堝(るつぼ)・羽口(はぐち))、砥石、漁ろう具(土錘)、ムシロを編むための道具(菰槌(こもつち))、武器類(鉄鏃)などがある。特に、鍛冶作業の残骸(鉄滓)が多量に発見された。

ほかにも、特徴的な形のうつわ(把手付(とってつき)土器・内耳(ないじ)土器・片口土器)や、北方の文化の影響を受けて作られたうつわ(擦文(さつもん)土器)、宗教用具と考えられる土鈴・土製勾玉・錫杖(しゃくじょう)状鉄製品・銅碗などがある。

遺跡見学後、青森市浪岡の資料館「中世の館」へ向かった。

青森県 田舎館村埋蔵文化財センター 北限の弥生水田跡・垂柳(たれやなぎ)遺跡 田舎館式土器



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