Taxi Driver
1976年アメリカ
主演:Robert DeNiro
監督:Martin Scorsese
マーティン・スコセッシ&ロバート・デ・ニーロの強力タッグが送る、二人を超有名にするきっかけとなった映画です。二十数年振りにDVDを借りてきて見ました。何かね、急に見たくなったんですよ。
第26回カンヌ国際映画祭パルム・ドール受賞作品になって、1994年に米国連邦議会図書館がアメリカ国立フィルム登録簿に新規登録らしいですね。ま、この映画の一番の見所は、デニーロのモヒカンなわけですが(違うだろ)。
え~っと、例によって例のごとく、ネタバレオンパレードなわけですが、ネタバレが嫌な方は、こんなブログを見ていないで、とっととDVDを買うか借りるかして、この映画を堪能して下さい。自分で見るのが一番大切なことのような気がするんですよ、多分。
ベトナム戦争で海兵隊員として従軍していたトラビスは、名誉除隊後、不眠に悩まされた日常生活を送っていた。トラビスは、それなら夜勤のタクシードライバーになるべと、タクシー会社の運転手募集に応募し、5月上旬から夜勤のタクシードライバーの仕事に就くことになった。
タクシードライバーとなり夜の街を流すトラビスの目には、街は薄汚れ、人々も薄汚れたように見えていた。彼は、雨にその汚れを流して欲しいと願っていた。
仕事明けはポルノ映画館通いという毎日だったトラビスは、次期大統領候補のパランタイン(最初はパルパタイン→パルパティーン銀河皇帝に見えましたよ)の選挙事務所の事務員のベッツィーさんに人目惚れし、なんとかデートに誘うことに成功するが(成功するのかよ)、何故かポルノ映画を見せてしまい、彼女は激昂、見事に振られてしまう。当たり前のような気がします。
そんな中、偶然にもパランタインがトラビスの運転するタクシーに乗車する。トラビスは、応援してまっせといい、この街をトイレの洗浄と同じように、綺麗に洗い流してくれと、やけにハイテンションに語ってしまう。パラちゃんは引いてますが、そこは大統領選が控える身。無下にはしません。流石です。一枚上手です。
そういった日々の中、彼は無性に何かの行動を起したいという欲求が出て来るが、それが何をしたいのか、はっきりとわからなかった。しかし、行動には出た。非合法に何丁かの銃を入手し、鈍った体を再び鍛え始めた。
そんなある日、12歳半の売春婦アイリスに偶然出会い、彼女を助けたいという気持ちも芽生え始める。
頭をモヒカンにし、決意も新たに、パランタインを襲撃しようとするが失敗。何故かアイリスを勝手に救出することにし、売春宿を襲撃。瀕死のトラビスは、何故か一躍、少女売春婦を救ったヒーローに祭り上げられる。
傷の癒えたトラビスは再び夜勤のタクシードライバーとして働き出す。そこに態々ベッツィーが乗車しトラビスを誘うが、トラビスはそれを断り、街の喧噪の中に、タクシーと共に消えて行く。
と、ストーリーはこんな感じなんですが、まぁ、出て来るもの全てが少しおかしいのかなっていう描き方をしているような気がしますね。社会もおかしい、街もおかしい、暮らす人々もおかしい、と。
それから、主人公トラビスの苛立っていうか、イライラ感っていうのは物凄く伝わってくるんですが、見ている観客をイライラさせるという演出ではないのが(観客はイラつかせない)、素晴らしいなぁと思いましたね。
で、なんで今更乍らタクシードライバーやねんって言われるとね、クライマックスの売春宿への突撃を、なんかね、無性に見たくなっちゃったんですよね。でも、記憶っていうのはええ加減なものやっていうのを、再確認しましたよ。なんか、こじんまりとしてますよね、襲撃。僕の記憶の中では、売春宿にはもっといっぱい人がいて、もっといっぱい人が死んでいって、もっといっぱい銃撃戦があったんですけどね。
でもね、かっちょええのはかっちょええですな。勿論人殺し行為を褒めているわけではないですよ。映画の場面として、ですよ。
この映画の物語に対しての記憶も、デニーロが段々と狂気に走っていくっていうことを描いていたっていう風に記憶してたんですが、最初から変態オーラ丸出しじゃないですが、デニーロさんは(勿論褒めてるんですよ)。
それにしても、こんなにデニーロって格好良かったでしたっけ?細いし。最近の小太り中年バージョンが強烈に印象に残っているので、30年以上前の勇姿をすっかり忘れていましたよ。
ベッツィーと付き合いたいと思ったのは、議員の事務所で働いてる女性イコール社会的地位もある素晴らしい女性ということで、そういう女性と付き合っている自分も素晴らしいという発想からきたものであって、結局ベッツィー個人に対しての愛情ではなかった。それが最後の場面で、ベッツィーが自らやってきた時も、そういう女性を振る自分は格好良いという行為に繋がるんですよね、恐らく。ある意味ナルってたわけですよね。
最後の場面のベッツィーの描き方も、トラビスに対してっていうよりは、世間的にはヒーローになった人を求めてっていうことなんでしょうしね。
結局、行動しても少しの変化はあったけど、体勢的には何も変わらなかった。世間も、そして自分自身も。ってことなんでしょうかね。水面に波は立ったけど、暫くするとまた元通りの水面になる、ってなもんですかね。ガッツの足掻きと一緒ですね(←何か違うぞ)。
深いなぁ。こうやって考えさせられる映画はいいですよね。一応答えは映画としては出してるけど(ほんまけ?)、観客の解釈も包容出来るっていう。色々な回答があってええし、それがこの映画の世界観でもあるんやろうし。
なんか見終わって暫くしてから感想を書き始めたので、ちょっと支離滅裂ですが(いつもやろっていう突っ込みはなしの方向で)、ようは面白かったってことですよ。うん。
1976年アメリカ
主演:Robert DeNiro
監督:Martin Scorsese
マーティン・スコセッシ&ロバート・デ・ニーロの強力タッグが送る、二人を超有名にするきっかけとなった映画です。二十数年振りにDVDを借りてきて見ました。何かね、急に見たくなったんですよ。
第26回カンヌ国際映画祭パルム・ドール受賞作品になって、1994年に米国連邦議会図書館がアメリカ国立フィルム登録簿に新規登録らしいですね。ま、この映画の一番の見所は、デニーロのモヒカンなわけですが(違うだろ)。
え~っと、例によって例のごとく、ネタバレオンパレードなわけですが、ネタバレが嫌な方は、こんなブログを見ていないで、とっととDVDを買うか借りるかして、この映画を堪能して下さい。自分で見るのが一番大切なことのような気がするんですよ、多分。
ベトナム戦争で海兵隊員として従軍していたトラビスは、名誉除隊後、不眠に悩まされた日常生活を送っていた。トラビスは、それなら夜勤のタクシードライバーになるべと、タクシー会社の運転手募集に応募し、5月上旬から夜勤のタクシードライバーの仕事に就くことになった。
タクシードライバーとなり夜の街を流すトラビスの目には、街は薄汚れ、人々も薄汚れたように見えていた。彼は、雨にその汚れを流して欲しいと願っていた。
仕事明けはポルノ映画館通いという毎日だったトラビスは、次期大統領候補のパランタイン(最初はパルパタイン→パルパティーン銀河皇帝に見えましたよ)の選挙事務所の事務員のベッツィーさんに人目惚れし、なんとかデートに誘うことに成功するが(成功するのかよ)、何故かポルノ映画を見せてしまい、彼女は激昂、見事に振られてしまう。当たり前のような気がします。
そんな中、偶然にもパランタインがトラビスの運転するタクシーに乗車する。トラビスは、応援してまっせといい、この街をトイレの洗浄と同じように、綺麗に洗い流してくれと、やけにハイテンションに語ってしまう。パラちゃんは引いてますが、そこは大統領選が控える身。無下にはしません。流石です。一枚上手です。
そういった日々の中、彼は無性に何かの行動を起したいという欲求が出て来るが、それが何をしたいのか、はっきりとわからなかった。しかし、行動には出た。非合法に何丁かの銃を入手し、鈍った体を再び鍛え始めた。
そんなある日、12歳半の売春婦アイリスに偶然出会い、彼女を助けたいという気持ちも芽生え始める。
頭をモヒカンにし、決意も新たに、パランタインを襲撃しようとするが失敗。何故かアイリスを勝手に救出することにし、売春宿を襲撃。瀕死のトラビスは、何故か一躍、少女売春婦を救ったヒーローに祭り上げられる。
傷の癒えたトラビスは再び夜勤のタクシードライバーとして働き出す。そこに態々ベッツィーが乗車しトラビスを誘うが、トラビスはそれを断り、街の喧噪の中に、タクシーと共に消えて行く。
と、ストーリーはこんな感じなんですが、まぁ、出て来るもの全てが少しおかしいのかなっていう描き方をしているような気がしますね。社会もおかしい、街もおかしい、暮らす人々もおかしい、と。
それから、主人公トラビスの苛立っていうか、イライラ感っていうのは物凄く伝わってくるんですが、見ている観客をイライラさせるという演出ではないのが(観客はイラつかせない)、素晴らしいなぁと思いましたね。
で、なんで今更乍らタクシードライバーやねんって言われるとね、クライマックスの売春宿への突撃を、なんかね、無性に見たくなっちゃったんですよね。でも、記憶っていうのはええ加減なものやっていうのを、再確認しましたよ。なんか、こじんまりとしてますよね、襲撃。僕の記憶の中では、売春宿にはもっといっぱい人がいて、もっといっぱい人が死んでいって、もっといっぱい銃撃戦があったんですけどね。
でもね、かっちょええのはかっちょええですな。勿論人殺し行為を褒めているわけではないですよ。映画の場面として、ですよ。
この映画の物語に対しての記憶も、デニーロが段々と狂気に走っていくっていうことを描いていたっていう風に記憶してたんですが、最初から変態オーラ丸出しじゃないですが、デニーロさんは(勿論褒めてるんですよ)。
それにしても、こんなにデニーロって格好良かったでしたっけ?細いし。最近の小太り中年バージョンが強烈に印象に残っているので、30年以上前の勇姿をすっかり忘れていましたよ。
ベッツィーと付き合いたいと思ったのは、議員の事務所で働いてる女性イコール社会的地位もある素晴らしい女性ということで、そういう女性と付き合っている自分も素晴らしいという発想からきたものであって、結局ベッツィー個人に対しての愛情ではなかった。それが最後の場面で、ベッツィーが自らやってきた時も、そういう女性を振る自分は格好良いという行為に繋がるんですよね、恐らく。ある意味ナルってたわけですよね。
最後の場面のベッツィーの描き方も、トラビスに対してっていうよりは、世間的にはヒーローになった人を求めてっていうことなんでしょうしね。
結局、行動しても少しの変化はあったけど、体勢的には何も変わらなかった。世間も、そして自分自身も。ってことなんでしょうかね。水面に波は立ったけど、暫くするとまた元通りの水面になる、ってなもんですかね。ガッツの足掻きと一緒ですね(←何か違うぞ)。
深いなぁ。こうやって考えさせられる映画はいいですよね。一応答えは映画としては出してるけど(ほんまけ?)、観客の解釈も包容出来るっていう。色々な回答があってええし、それがこの映画の世界観でもあるんやろうし。
なんか見終わって暫くしてから感想を書き始めたので、ちょっと支離滅裂ですが(いつもやろっていう突っ込みはなしの方向で)、ようは面白かったってことですよ。うん。