ひろば 川崎高津公法研究室別室

川崎から、徒然なるままに。 行政法、租税法、財政法、政治、経済、鉄道などを論じ、ジャズ、クラシック、街歩きを愛する。

西鉄宮地岳線乗車記(3)

2013年01月19日 06時03分20秒 | 写真

 前回に引き続きましての西鉄宮地岳線乗車記、その3です。津屋崎駅から歩いて海岸に出て、玄界灘を見ようと思います。津屋崎は海水浴場でもあり、時期を完全に外しているとはいえ、海を見ておこうと考えたのです。そう言えば、一昨年には、JR香椎線の西戸崎駅付近から海を眺めていました。

 いきなり、海とは全く関係のない写真で申し訳ございません。駅から歩いて1分も経たないような場所に、フォルクスヴァーゲンの名車の一つ、カルマン・ギアが置かれていたので、撮影してみました。ナンバープレートが外されていますし、タイヤはパンクしていますし、車体も傷んでいます。しかし、レストアすれば現役で走れそうですし、東京都世田谷区や目黒区にあるワーゲン屋さん(フォルクスヴァーゲンの空冷式自動車を販売しているお店のこと)では立派な現役車を購入することができます。この車を見て「もしも少しばかり手を入れたら走れそうなら、欲しいなあ」と思ったくらいでした(ただ、色を変えたいとは思うのですが)。

 マツダのファミリア・シャテレ(スカイブルー)、日産パルサーJ1J(茶色のメタリック)、日産ウイングロードX(黒)を経て、現在は5代目ゴルフGLi(黒)を愛車としている私ですが、幼い頃から、何故かドイツ車には興味を持っていて、とくにフォルクスヴァーゲンのビートルなどが好きでした。免許を取って間もない頃には等々力でビートル(VW1303)を見て、あと少しで購入というところまで行きましたし、大分市に住んでいた時には、大字宮崎にある下水処理場の近くに白いビートルが置かれていたので買おうかと思ったくらいです。ただ、メインテナンスが大変なようなので、結局は購入をあきらめました。渋谷のエンワ、レオ、東急ハンズで売られている、ヴィキングやブッシュのミニカーで楽しめます(ドイツのミニカーは、鉄道模型のHOゲージに合わせたサイズとなっていて、非常に精巧です。そのため、私の愛車であるゴルフについては、初代から5代目まで揃えてしまいました)。

 このカルマン・ギアは、エンジンなどの基礎的な部分がビートルと共通なのですが、ビートルやゴルフのカブリオレも手がけているドイツのカルマン社と、イタリアのギア社が車体のデザインなどを手がけています。この種の車でファンが多いのはアメリカと日本で、両国で人気が高い車です。

 持ち主の方に。無断で撮影して、しかもこのブログにあげてしまい、申し訳ございません。私もフォルクスヴァーゲンのファンであるということで、お許しを。

 駅から少し歩き、交差点を越えると、防風林沿いに海の家などが並んでいるという道があります。上の写真がそれで、右側が海の家やレストハウスで、玄界灘はすぐそこです。海水浴の時期は過ぎていますので、人通りは少ないのですが、何故か駐車している車は多いのです。海水浴なんて、もう16年くらい遠ざかっています。それに、海よりは緑に囲まれた山の中のせせらぎのほうが好きなのですが、時には海岸で波を見ていたいという気になるのです。

 「♪今はもう秋 誰もいない海」という歌がありました(私が生まれる前か、生まれて間もない頃の歌です)。全くその通りではないのですが、秋の海、津屋崎海岸です。日本海の一部とも言える玄界灘を見ています。2年ぶりに砂浜を踏みしめています。

 右側に見えるのが相ノ島で、左側に見えるのは玄海島、志賀島のいずれかでしょうか。 砂浜を歩いていると、所々に船が見えます。久しぶりに波のハーモニーを耳にしました。すると、頭の中に、ラヴェルのピアノ曲「海原の小舟」(Une barque sur l'ocean)が流れてきました。1987年秋、予備校に通っていた時に六本木WAVEで購入したフランスEMI盤で聴いて以来、今に至るまで聴き続けている、ラヴェルのピアノ曲らしい美しい曲です。

 海と言えば、やはり六本木WAVEで大学院生時代に買った、ギドン・クレーメルのアルバムFrom My Homeのジャケットを思い出します。モノクロームの写真で、何故か1台の自転車がポツンと置かれている、不思議なものでした。今も忘れられない秀逸なデザインでして、私には、そのアルバムのジャケットといい、9月3日(日曜日)の津屋崎海岸といい、寂しい海岸の情景こそが好ましく思えてくるのです。

 今度は、南のほうをとらえてみます。福間、古賀、そして福岡市のほうを見ています。宮地岳線は、貝塚から津屋崎まで、この海岸線に近いところを走っているのですが、海は見えません。一昨年、香椎線に乗った時に、海ノ中道を通り、少しばかり車窓から海を見て、西戸崎駅周辺で玄界灘を眺めていましたが、その海ノ中道などから津屋崎は或る程度離れています。

種類がわからないだけに、気になりました。

 

 海を見て、心を洗ったところで、駅へ戻ろうと思いました。そして、津屋崎駅前にある児童公園に入ります。立派な松が何本も生えている立派な公園で、児童公園という名称がもったいないくらいです。私も日本人で、松の木を愛する者です。

 この児童公園には写真にあるように「ふるさと」と「赤とんぼ」の歌詞を記した看板が立てられています。見た瞬間に思ったのですが、両方ともこの津屋崎町に縁(ゆかり)がない歌ではないでしょうか。海岸に近いこの場所に「ふるさと」の歌詞は似合いませんし、「赤とんぼ」の歌詞は、一番を歌ってみればすぐにわかるように、近畿地方の山里の情景でしょうから、やはり海岸に近いこの場所には似合いません。そんなことにこだわるほうがおかしいのかもしれませんが。

 2005年、津屋崎町は福間町と合併し、福津市になりました。そのため、津屋崎町はもうありません。しかし、公園には津屋崎町が残っていました。昭和60年は1985年、その年に町村合併30周年ですから、津屋崎町は昭和30年、1955年に誕生したことになります。結局、一地方公共団体としての命はちょうど50年ほどだったということになります。地方公共団体は法人ですから、人格を持っています。人生50年という言葉もありましたが、今の日本人の平均寿命は大体80年前後ですので、今や、人生50年という言葉は市町村にこそふさわしいのかもしれません。

 時間を見計らい、また西鉄宮地岳線に乗り、津屋崎を離れることとしました。果たして、次にここに来るのはいつのことになるかと思いながら。来年の3月末日をもって西鉄新宮~津屋崎が廃止されてしまうと、京浜地区に生まれ育ち、今も住んでいながら、大分市に7年間住み、その間に福岡に何度も足を運び、大分市を離れてからも集中講義のために年に1回、10日間前後を福岡で過ごし、すっかり九州に馴染んでいる私としては、また一つ、行きにくい場所ができてしまいます。残念なことです。

 この300形3両編成で、貝塚に戻ります。現在、宮地岳線を走る電車の多くは、天神大牟田線(太宰府線と甘木線を含める場合も多い)を走っていたもので、この300形もそうです。中古車らしくという表現がふさわしいかどうかわかりませんが、かなりの改造が加えられています。天神大牟田線を走っていたかつての特急用の名車、1000形より古いので、吊り掛け駆動かと思ったのですが、カルダン駆動に改造されていました。しかも冷房化されています。

 津屋崎駅に戻った時には、駅員と私以外に誰もおらず、上の3両編成の電車が到着した時、果たして降りたお客がどれくらいいたのかわからないような状態でした。この電車には、運転士と私だけしかいなかったのでした。発車間際に女性の客が乗ってきましたが、それでも、津屋崎を出発した電車の中は、真ん中の車両に私、後の車両に女性の客、この2人しかいなかったのです。西鉄福間で数人乗ってきましたが、前の1両が運転士だけ、真ん中の車両が私だけ、そして後の車両に残りの数人だけがいました。徐々に客が増えてくるのですが、空気だけを運んでいるような車両がなくなったのは西鉄古賀か西鉄新宮に到着してからでした。西鉄新宮、三苫で客が増えてきて、和白、西鉄香椎、西鉄千早では入れ替えもありました。

 それにしても、3両は多すぎるという感じです。平日にはもう少しお客が多いのでしょうか。しかし、推して知るべしという気もしなくはありません。ちなみに、宮地岳線の西鉄新宮~津屋崎の廃止とともに、この3両編成は廃車となっています。

 数年ぶりに宮地岳線に乗ってみて、少なくとも西鉄新宮~津屋崎に関して言えば、よくぞここまで生き残ったとも思います。JR鹿児島本線とほぼ並行しながら、しかも貝塚~三苫は福岡市内を走りながら、全線単線ですし(しかも、複線化しようと思えばできるようになっている場所が多いのです)、車両も見劣りのする古いものばかりです。終点の津屋崎も、開業当時はともあれ、現在の視点からすれば中途半端な場所ですが、何といっても起点の貝塚が致命的です。福岡市内線があったころならまだよかったのかもしれませんが、福岡市の市街地からは完全に外れたところですし、どうして、福岡市営地下鉄箱崎線との相互乗り入れを実現させなかったのか、理解に苦しみます。このために、名香野駅が移転して西鉄千早駅となって鹿児島本線と乗り換えられるようになるまでは、博多に出るにも天神に出るにも面倒な路線でした。これでは、通勤路線としての役割を十分に果たせないでしょう。莫大な費用がかかることは承知していますが、関東の私鉄であれば、その莫大な費用をかけてでも地下鉄と相互乗り入れを実現させたりして、路線の存在意義を高めていたでしょう。

 宮地岳線で天神、西新、姪浜まで乗り換えなしで行ければ、本当に便利です。あるいは、今の七隈線も違った形になっていたでしょう。宮地岳線に乗っていればだまっていても六本松などに行けるならば、もっと乗客は増えていたはずです。

 それに、宮地岳線ではよかネットカードも使えないのです。福岡市営地下鉄、西鉄天神大牟田線・太宰府線・甘木線、そして西鉄バスで使えるカードですから、宮地岳線でも使えるようにすべきだったのですが、宮地岳線には投資しないという姿勢のためなのでしょうか。

 不利な線形ですが、宮地岳線の一部区間をこのまま廃止させるのはもったいないのです。並行している鹿児島本線も、決して便利な路線ではありません。快速電車が走っていますが、その停車駅などが非常に複雑でわかりにくく(しかも、電車の正面には快速という表示がありません。こんな電車が京浜地区や京阪神地区を走っていたら総スカンを食います)、普通電車の本数も少ないので、昼間の快速通過駅では結構待たされます。特急優先のダイヤだからということなのか、普通電車に乗ると、とくに博多から久留米の間ではやたらと特急や快速の通過待ちなどをしますし、快速電車でも特急の通過待ちなどということで南福岡などで長い時間停車しています。原田から博多まで乗った時には、本当にうんざりしました。これなら、やはり鹿児島本線に並行している西鉄天神大牟田線のほうが便利です。博多から福間の間でも同じようなものですから、宮地岳線も、工夫次第でいくらでも改善できたはずです。そして、宮地岳線がもう少し便利な路線であれば、福岡市営地下鉄箱崎線の利便性が高くなったでしょう。

 関東地方であれば、地下鉄に乗り入れるなど、様々な手を使って利便性を高めようとするのが当然なのですが、福岡ではそのような姿勢が感じられないのです。

 あれこれと書いてきましたが、宮地岳線で貝塚に戻るまで、こんなことを考えたりしていたのでした。

 貝塚に戻り、箱崎線に乗りました。中洲川端で乗り換えて博多駅に出て、山陽新幹線に乗って小倉に出て、日田彦山線と後藤寺線を乗り継いで飯塚に出るという、私にとっては非日常的である生活をおくる日々を利用しなければできないことをやるのですが、それについては、また、機会を改めて。

  (以上は2006年10月17日、第189回として掲載したものです。その後、2007年12月31日に、第186回および第188回と統合し、一部変更の上で、別室9として再掲載しました。2010年10月17日に別室8へ移行しましたが、2010年11月10日に掲載を終了しました。

 

 (追記:2007年12月31日)

 2007年4月1日、西鉄宮地岳線の西鉄新宮~津屋崎は廃止されました(営業最終日は3月31日で、その翌日を廃止日とするのが通例です)。同時に、残された区間の貝塚~西鉄新宮は貝塚線と改められました。

 当初は、福岡市内の貝塚~三苫を残し、三苫~津屋崎を廃止する予定であったようです。詳しいことは不明ですが、おそらく通学の利便性のために貝塚~西鉄新宮が残ったということです。貝塚線に名称を改めるとともに、運転本数も若干減りました。ただ、地下鉄箱崎線との接続は改善されたようですので、今後を期待したいところです。

 西鉄と言えば、2000年11月に北九州線が全廃されました。その半年ほど前に、最後の区間となった黒崎駅前~折尾に乗りました。その時には一枚も写真を撮っておりませんので、今となっては残念なことです。なお、黒崎駅前~熊西は、現在は筑豊電気鉄道の一部として残っています(但し、正式には西鉄が保有し続けています)。

 そして、2007年12月、ついに、高千穂鉄道の全区間が廃止となることが決まりました。既に延岡~槇峰の廃止は決定していますが、槇峰~高千穂についても廃止届が提出されたのです。2008年の12月までに廃止されることとなります。高千穂鉄道は、まだ私が大分大学教育学部の講師であった時に、一度だけ、延岡から高千穂まで乗りました。天岩戸駅の近くにある、日本で一番高い場所にある鉄橋のことを思い出します。非常に残念な話ではあるのですが、乗客が非常に少なく、早晩、経営資金が底をつく状態であったこと(私が乗車した頃にも廃止の噂はあったようです)、そのような経営状態で営業再開のために必要な資金を確保することが無理であるということなので、廃止はやむをえないでしょう。


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