DEEP ACIDなんでもかんでも日記・ヤプログ!より移行

過剰な意味づけをしないこと

 ポストモダンの話の続き。いわゆる多様性の受容とは、手短に言えば、過剰な意味づけをしないことではないか。過剰な意味づけとは、可能性と不可能性の間のグラデーションに対して、他者が意味づけすることを禁止すること、であると思う。abilityとdisabilityは、将来への可能性の問題であって、まだ物語historyとして記述されていない。それに対して他者が横から勝手に意味づけをしてはならない、と言うこと。可能性、不可能性を持つ本人(主体)は、自分の中に「プランとしての」物語を持つことは問題ない、と言うかむしろ積極的に行うべきだが、他者はすでに記述されたこと=結果に対してしか意味づけは許されないと言うこと。
 障害に限らず、性差もまた広義の可能性不可能性の話であり、結果を出す前から他者が「らしさ」を語ることを禁じると言うこと。
 政治もまた、可能性不可能性の問題だが、政治が語る「私たち」に他者はいないし(誰もが当事者)、そもそも「結果」への語り口が皆バラバラなのが難しい。なら「黙して語らず」が良いのか?それも違う。それでも、「私たち」を分断して、当事者と他者を想定した語り口だけは避けなければならない。逆に言えば、それぞれが他者の評価ではなく「当事者としての語り口」であれば、複数の政治的主張がそれぞれ多様性として受け入れる必要がある。
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