東京で桜が開花した日、娘の卒業式にカミさんと出かけて、ついでにおのぼりさん東京見物の一日でした。
街歩きもいいけどくたびれないように、船で隅田川の水辺と橋めぐりを提案。
「東京水辺ライン」水上バスでレインボーブリッジを下から。
一番近い発着場のあるJR総武線両国駅は相撲一色。
優勝額の下には歴代横綱の手形。
私がテレビジョンで見たのは千代の山、鏡里、吉葉山からです。
そして栃錦、若乃花、朝汐から大鵬、柏戸の時代に続くのです。
私の孫ばーさんは大の相撲好き。
月刊誌「相撲」を定期購読してました。
配達したのは、巡業で水戸泉を泊めたという和納駅前「マルノウ」です。
当時相撲はテレビの番組ナンバーワンでした。
3月場所の終わったばかりの国技館前にあった雨水貯め。
田舎じゃこんなの不要。川から汲んできますが、いまの若い人たちはジョーロに水道水をいれます。
都会ならではの珍しさに思わず撮りました。
水上バス時間まで約1時間。駅前の派手なお店に入ってお昼に。
入口には「We have ENGLISH MENU !」とあります。
Sumo Wrestling は外人にも人気なのでしょう。
鶴竜が昇進、横綱3人とも外国人。若乃花以降の日本人横綱が出てきません。
千秋楽、NHK解説の元横綱北の富士が日本人力士と親方に努力が足りないと「喝」入れてました。
ボクシングと双璧のハングリースポーツだった頃の相撲は遠い昔の話なんだと思います。
相撲一色の店内。
相撲甚句が聞こえてきます。誰か唄ってます。
奥に見に行ったらなんと!土俵が・・・
パホーマンスは夜の部のようです。
へぎそばミニ丼付きを注文。そば通?には安いけどお味は限りなく下流。
:水辺ラインパンフ
いよいよ水上バス乗船。コースは「浅草・お台場クルーズ」
新暦5月16日、かの芭蕉が深川から船に乗り上陸して旅立った地、千住の手前の「桜橋」まで遡上します。
「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也・・・・」
元禄2年(1689)の春 ここから5ヶ月、600里へと始まった「おくの細道」。
こすもす丸の運転席。ヒコーキのコクピットみたいです。
黄色は「蔵前橋」
緑の「厩橋」
水色の「駒形橋」、赤の「吾妻橋」の向こうにスカイツリーとアサヒビール本社上の「炎のオブジェ」
あのオブジェを定期的にふきそーじで磨く人がいるんだそうです。
どーやって?命懸けです。
追2015.4.22)NSTノンストップ東京観光トリビアで言ってました。このオブジェは聖火台と炎なんだそうです。それも後ろのビルの日照権から炎が横向きになった・・・。
「猪牙の文へんぽんとして読んでゆき」古川柳
馴染みの遊女からの長い巻紙の文をなびかせて、猪牙船の中で読んで行く姿が目に浮かびます。
台東区千束3・4丁目付近という吉原にはこのあたり、アサヒビール本社の対岸が船着場だった。と思っていたら言問橋の先、
山谷堀入口で船を降りて堀の土手日本堤を駕籠を仕立てて約1kmを吉原大門に向かったとされます。
通人気取りや小金持ちの商家の主人たちが、浅草橋や柳橋あたりの船宿から舟をしつらえ、神田川から大川に出て見物しながらの粋な吉原通いだったのでしょう。
「言問橋」手前でUターンして浅草発着場に接岸。東武伊勢崎線電車が通過。
乗船した両国発着場まで戻って、隅田川を海まで下ります。
JR総武線を黄色い電車が通過。
「両国橋」。首都高速の向こうに「新大橋」の吊り橋
ドイツのケルン市にあったヒンデンブルグ橋の大吊り橋をモデルにした「清洲橋」。
左手、小名木川合流点に芭蕉坐像があります。
近くには芭蕉記念館も・・・
おととしの4月、宮部みゆき「平成お徒歩日記」の赤穂浪士引き上げ道を両国吉良邸からここまで歩いてきました。
芭蕉庵の跡地にたつ展望公園の芭蕉坐像に対面しています。
「草の戸も住み替はる代ぞ雛の家」 芭蕉
四十七士が渡った「永代橋」
橋詰近くの乳熊(ちくま)ビル前に赤穂浪士休息地の石碑があります。
あたかも乳熊屋味噌店の上棟の日に当たり、大高源吾と俳諧の友の当主竹口作兵衛は甘酒粥を振る舞い労をねぎらったとありました。
川の真ん中に埋め立てしてできた月島。大川端リバーシティと中央大橋。
佃煮の佃島もここ。
佃大橋を越えて「勝鬨橋」
1940年開通、1日に5回、1回につき20分程度跳開していたそうです。なんと1968年まで都電が走っていたとか。
1970年から勝どきをあげていない橋。
勝鬨橋下流には築地市場、浜離宮恩賜庭園、竹芝桟橋とつながります。
市場に漁船が接岸しています。
トラック便で運ばれてくる魚だけかと思えば、漁船から直接荷揚げだなんてなんと効率的かです。
隅田川はここまでで、ここからは先は海なのです。その昔、どの川にもあった建設省と運輸省の管轄境界。
見上げるレインボーブリッジ。
映画「踊る大捜査線」で封鎖されたのはここではなく開通前の京滋バイパス久御山JCTだった
のは知る人ぞ知るです。
越えた先に折り返し地のお台場海浜公園。
むかし、子供連れてツアーで来ました。はとバスで浅草、お台場フジテレビ。巨人戦見て脇の東京ドームホテル宿泊プランでした。
お台場には水上バスで来るのがCool!です。
嘉永6年(1853)6月、ペリー提督の黒船にびっくり仰天。
江戸防衛のために急遽に作られた海上の砲台で、品川台場と呼ばれたのでついた「御台場」。
八つの台場まで作られて、翌年また来たペリーはこの砲台のおかげで横浜まで引き返して上陸したと言われています。
なんと坂本龍馬が故郷の父に宛てた手紙にある「異国船処々に来り候由に候へば、軍(いくさ)も近き内と存じ奉り候。その節は異国の首を打ち取り、帰国仕るべく候」。
剣術修行中の龍馬は「臨時御用」で土佐藩士の一員として黒船警備の人手として駆り出され、大得意。と「龍馬史」に磯田道史さんは書いています。
天保6年(1835)11月15日生まれの龍馬は品川沖に19歳(満17歳?)で黒船を見たのです(近眼の目にはボヤけていたんだろう?)。
刀で立ち向かう単純な「攘夷少年」龍馬だったのでしょう。
レインボーブリッジすぐ脇に、当時の土木技術をうかがい知る立派な石垣の「御台場」です。
:「英雄たちの選択」
お台場を後にして帰り道、隅田川に向かいます。
途中「浜離宮」で下船、新橋駅まで歩いて東京駅に向かう予定です。
浜離宮入口の水門。
水門入るとき、事故防止に何回も鳴らす汽笛にビックリ!
水辺にあるただ広いだけの庭、と好みではありませんでした。
先週のNHKニュースで見た都会の菜の花畑はここでした。
新橋駅まで15分くらい歩きました。
朝一番6時の新幹線で来た「おのぼりさん」は夕方5:04発とき399で燕三条に帰ったのでした。
街歩きもいいけどくたびれないように、船で隅田川の水辺と橋めぐりを提案。
「東京水辺ライン」水上バスでレインボーブリッジを下から。
一番近い発着場のあるJR総武線両国駅は相撲一色。
優勝額の下には歴代横綱の手形。
私がテレビジョンで見たのは千代の山、鏡里、吉葉山からです。
そして栃錦、若乃花、朝汐から大鵬、柏戸の時代に続くのです。
私の孫ばーさんは大の相撲好き。
月刊誌「相撲」を定期購読してました。
配達したのは、巡業で水戸泉を泊めたという和納駅前「マルノウ」です。
当時相撲はテレビの番組ナンバーワンでした。
3月場所の終わったばかりの国技館前にあった雨水貯め。
田舎じゃこんなの不要。川から汲んできますが、いまの若い人たちはジョーロに水道水をいれます。
都会ならではの珍しさに思わず撮りました。
水上バス時間まで約1時間。駅前の派手なお店に入ってお昼に。
入口には「We have ENGLISH MENU !」とあります。
Sumo Wrestling は外人にも人気なのでしょう。
鶴竜が昇進、横綱3人とも外国人。若乃花以降の日本人横綱が出てきません。
千秋楽、NHK解説の元横綱北の富士が日本人力士と親方に努力が足りないと「喝」入れてました。
ボクシングと双璧のハングリースポーツだった頃の相撲は遠い昔の話なんだと思います。
相撲一色の店内。
相撲甚句が聞こえてきます。誰か唄ってます。
奥に見に行ったらなんと!土俵が・・・
パホーマンスは夜の部のようです。
へぎそばミニ丼付きを注文。そば通?には安いけどお味は限りなく下流。
:水辺ラインパンフ
いよいよ水上バス乗船。コースは「浅草・お台場クルーズ」
新暦5月16日、かの芭蕉が深川から船に乗り上陸して旅立った地、千住の手前の「桜橋」まで遡上します。
「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也・・・・」
元禄2年(1689)の春 ここから5ヶ月、600里へと始まった「おくの細道」。
こすもす丸の運転席。ヒコーキのコクピットみたいです。
黄色は「蔵前橋」
緑の「厩橋」
水色の「駒形橋」、赤の「吾妻橋」の向こうにスカイツリーとアサヒビール本社上の「炎のオブジェ」
あのオブジェを定期的にふきそーじで磨く人がいるんだそうです。
どーやって?命懸けです。
追2015.4.22)NSTノンストップ東京観光トリビアで言ってました。このオブジェは聖火台と炎なんだそうです。それも後ろのビルの日照権から炎が横向きになった・・・。
「猪牙の文へんぽんとして読んでゆき」古川柳
馴染みの遊女からの長い巻紙の文をなびかせて、猪牙船の中で読んで行く姿が目に浮かびます。
台東区千束3・4丁目付近という吉原にはこのあたり、アサヒビール本社の対岸が船着場だった。と思っていたら言問橋の先、
山谷堀入口で船を降りて堀の土手日本堤を駕籠を仕立てて約1kmを吉原大門に向かったとされます。
通人気取りや小金持ちの商家の主人たちが、浅草橋や柳橋あたりの船宿から舟をしつらえ、神田川から大川に出て見物しながらの粋な吉原通いだったのでしょう。
「言問橋」手前でUターンして浅草発着場に接岸。東武伊勢崎線電車が通過。
乗船した両国発着場まで戻って、隅田川を海まで下ります。
JR総武線を黄色い電車が通過。
「両国橋」。首都高速の向こうに「新大橋」の吊り橋
ドイツのケルン市にあったヒンデンブルグ橋の大吊り橋をモデルにした「清洲橋」。
左手、小名木川合流点に芭蕉坐像があります。
近くには芭蕉記念館も・・・
おととしの4月、宮部みゆき「平成お徒歩日記」の赤穂浪士引き上げ道を両国吉良邸からここまで歩いてきました。
芭蕉庵の跡地にたつ展望公園の芭蕉坐像に対面しています。
「草の戸も住み替はる代ぞ雛の家」 芭蕉
四十七士が渡った「永代橋」
橋詰近くの乳熊(ちくま)ビル前に赤穂浪士休息地の石碑があります。
あたかも乳熊屋味噌店の上棟の日に当たり、大高源吾と俳諧の友の当主竹口作兵衛は甘酒粥を振る舞い労をねぎらったとありました。
川の真ん中に埋め立てしてできた月島。大川端リバーシティと中央大橋。
佃煮の佃島もここ。
佃大橋を越えて「勝鬨橋」
1940年開通、1日に5回、1回につき20分程度跳開していたそうです。なんと1968年まで都電が走っていたとか。
1970年から勝どきをあげていない橋。
勝鬨橋下流には築地市場、浜離宮恩賜庭園、竹芝桟橋とつながります。
市場に漁船が接岸しています。
トラック便で運ばれてくる魚だけかと思えば、漁船から直接荷揚げだなんてなんと効率的かです。
隅田川はここまでで、ここからは先は海なのです。その昔、どの川にもあった建設省と運輸省の管轄境界。
見上げるレインボーブリッジ。
映画「踊る大捜査線」で封鎖されたのはここではなく開通前の京滋バイパス久御山JCTだった
のは知る人ぞ知るです。
越えた先に折り返し地のお台場海浜公園。
むかし、子供連れてツアーで来ました。はとバスで浅草、お台場フジテレビ。巨人戦見て脇の東京ドームホテル宿泊プランでした。
お台場には水上バスで来るのがCool!です。
嘉永6年(1853)6月、ペリー提督の黒船にびっくり仰天。
江戸防衛のために急遽に作られた海上の砲台で、品川台場と呼ばれたのでついた「御台場」。
八つの台場まで作られて、翌年また来たペリーはこの砲台のおかげで横浜まで引き返して上陸したと言われています。
なんと坂本龍馬が故郷の父に宛てた手紙にある「異国船処々に来り候由に候へば、軍(いくさ)も近き内と存じ奉り候。その節は異国の首を打ち取り、帰国仕るべく候」。
剣術修行中の龍馬は「臨時御用」で土佐藩士の一員として黒船警備の人手として駆り出され、大得意。と「龍馬史」に磯田道史さんは書いています。
天保6年(1835)11月15日生まれの龍馬は品川沖に19歳(満17歳?)で黒船を見たのです(近眼の目にはボヤけていたんだろう?)。
刀で立ち向かう単純な「攘夷少年」龍馬だったのでしょう。
レインボーブリッジすぐ脇に、当時の土木技術をうかがい知る立派な石垣の「御台場」です。
:「英雄たちの選択」
お台場を後にして帰り道、隅田川に向かいます。
途中「浜離宮」で下船、新橋駅まで歩いて東京駅に向かう予定です。
浜離宮入口の水門。
水門入るとき、事故防止に何回も鳴らす汽笛にビックリ!
水辺にあるただ広いだけの庭、と好みではありませんでした。
先週のNHKニュースで見た都会の菜の花畑はここでした。
新橋駅まで15分くらい歩きました。
朝一番6時の新幹線で来た「おのぼりさん」は夕方5:04発とき399で燕三条に帰ったのでした。
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