和納中37年入学

同級生と和納と旅行をアップ。誰だか分かる?

甲斐で 駿河で どっちから富士?

2023-12-11 09:59:51 | 旅行

2023.12.7  6:50am富士市日乃出町 富士の見える部屋を予約して6時から変化する山頂の雲をホテルの窓から眺めてた。

12/5から池さんの忍野村マンションにカミさんと富士を見に。雨模様の週間天気予報に期待薄だったけど、1日目に曇っただけで3日間とも富士に御目見がかなった。ラッキー。

12/5日 2:50pm 天下茶屋から 曇り空ながら雪のついた富士。 

NHK「ブギウギ」見てから新潟を8:30amに出発。R116→北陸道中之島IC→長野道→中央道→一宮御坂IC→R137御坂みち→新御坂トンネル→2:00pm天下茶屋に到着。380km休みながら高速80km巡航は5時間半もかかってしまった。

 

茶屋の前のバス停脇に駐車して店主に尋ねると、「もうバス来ないから停めていいよ」って。帰りにバス停見たら終点10:18am河口湖駅往復が1便だけ、それも通過予定時刻表って書いてある。客が降りたらトンネル前でバスはUターンして帰る? バスで来た客はどーやって帰るんだろうか?

 

 

あつあつほうとう鍋を頼む。食客はウチらだけ。入ると営業中の看板をしまい込んで奥の部屋の電気も消えた。2時半なのに・・。「旧道がバリケード通行止めになってた。冬支度早いね」って言ったら「昨日来て閉鎖してった」と店主。味は並み。

 

2階の部屋が当時のまま復元され太宰治文学記念室になっている。昭和13年9月、太宰は井伏鱒二に連れられ来て、富士の見える2階の6畳間に11月まで逗留した。トンネル脇旧道にある石碑からの拓本は太宰の原稿か?

「滞在中の太宰治に、ほうとうを出したところ、「僕のことを言っているのか」と不機嫌になったとの事。先代が「ほうとうは甲州の郷土料理である」と説明したところ、太宰治は安堵して喜んで食し、好物になったようです。その様子から先代は生前、太宰治は自身が「放蕩(ほうとう)息子」と勘違いしていたようだと当時を語っておりました。」と天下茶屋HPにある。放蕩息子って陰口さんざん聞いてたんだろうな。作家でなくとも勘違いするのに無理はない。

むかし鷲さんと行った金木町の斜陽館(2016.10.13ブログ三内丸山)。そこで見た太宰が好きだった津軽若生昆布巻のおにぎりを思い出した。

 

12/6 6:50am忍野村 雲が切れて朝日が当り始める。

7:26am吉田口登山道(右)と下山道(左)のジグザグ。もっと倍率上げたら人がわかるようだな。

どうだ。冬に上がる人はいない。

 

12/6 9時忍野村を出発。陸自北富士駐屯地前を通り山中湖ICから東富士五湖道路→東名に。11:08am三保の松原 世界遺産登録の景観。白砂青松ではなく砂利の浜辺は汚かった。夏は海水浴場になるんだろうか。

 

12/6  1:29pm 久能山東照宮 日本平からロープウェーで降りる?と「どーする家康」の墓所。肉付きのいい手のひら、横一線の感情線頭脳線、これって強運、天才肌の人に特徴「ますかけ線」ってネットに占い師?が書いてる。他にも手形が残ってた秀吉や岸信介、松下幸之助、石原慎太郎、手塚治虫、黒柳徹子、イチローなど大勢がこの手相だって。でも100人に1~2人と占い師には見飽きるほどらしい。

かつて武田信玄が今川攻めでここに久能山城を築いたとある。甲府からここまでの道のり。御坂みちを峠越えして御殿場、三島から富士川を渡り、遥か遠い遠征路だったな。信玄の夢、京都まではまだ遥かな道。

12/6 2:06pm 久能山の上、日本平からは清水の街と駿河湾、遠くに富士。この景色がウリ、富士と駿河湾見ながらの日本平ホテルツインルーム45㎡は朝食付きで35,910円/2人(高っ!)。残念ながら(?)満室。 富士市のAPAホテルで富士の見える部屋取れたので安くてラッキー。

 

12/6 3:14pm 大天守があったという駿府城本丸跡発掘中、中央遠くに富士。 銅像と脇に大株となったお手植えのミカン。駿府城に隠居の際に紀州和歌山から贈られた鉢植えを地に下したものとある。たわわに生ってる周りに金網柵で入れないようにしてある。盗られないようにってたかがミカンじゃないか、盗らねーよ。

「どーする家康」は次回最終回。諸説あるが家康の死因。静岡新聞のHPを見る。豊後日出藩主木下延俊の「慶長日記」、元和2年(1616年)家康の所望によって京都の豪商茶屋四郎次郎が、当時上方ではやっていた鯛の天ぷらを献上したところあまりのうまさに家康、たくさん食べすぎて腹痛をおこしてそのまま75歳の生涯をとじたという「天ぷら死亡説」のエピソードがのってるそうだ。

また金地院崇伝の日記「本光国師日記」に家康は、同年1月21日夜にタカ狩りで訪れた田中(現藤枝市)で発病、腹痛や痰[たん]に見舞われ、「御虫」の記述から原因は寄生虫と考えられていたようだ。「萬病圓[まんびょうえん]」「ぎんゑきたん」を服薬して回復し、25日には駿府に帰ったとある。

そして江戸幕府がまとめた「寛永諸家系図伝」の家康侍医の片山宗哲の項目にある「御腹中に塊ありて時々痛たまふ」の記述。史料から読み取れるこうした症状から、近年は死因を胃がんとみる説が有力とある。なんと鷹狩りの帰路、長曾我部の遺臣に火縄銃で狙撃、暗殺されたとの説もある。銃声に驚いた馬から田んぼに落ちたとの伝承。

日曜日は「どーなる家康??」1/21日の鷹狩りの日に鯛の天ぷらが出てくるかな??だ。3か月後食事がとれず容体悪化して4月17日、墓は久能山にと遺言してここ駿府城で75歳没す。諸説あるから面白い歴史、地上にロマンだ。

 

ぐるっと山梨、静岡と回った富士3日間。どっちの富士がいい?論争は江戸の昔から・・・。かの大田南畝の狂歌、これが正解。意味は人に聞かないことggrです。

「娘子の裾をめくれば富士の山 甲斐で見るより駿河一番」

 

江戸田沼時代の狂歌師大田南畝は面白いから好き。政治批判の「世の中に蚊ほどうるさきものはなしぶんぶといひて夜もねられず」 捕まるから?詠み人知らずだがきっと南畝だと思う。 辞世を詠んだ75歳(は家康と同じ)に私も近づきつつある。

「今までは人のことだと思ふたに俺が死ぬとはこいつはたまらん」

 

12/7 7:47am富士市 山頂の笠雲は崩れて東に伸びていく。南畝の云うとおり、駿河一番と思う。

12/7 9:57am富士宮市 朝霧高原道の駅 牛の○○の匂いがする。

12/7 10:30am R139富士パノラマライン→旧上九一色村→本栖湖畔。

富士写真の先駆、岡田紅陽が1935年5月に撮った「湖畔の春」。図案化して五千円、千円札裏面の富士、あれは春の富士か。甲府から御坂みちを御殿場三島から北条攻め、糸魚川静岡構造線を駿河湾に注ぐ笛吹川富士川沿いの信玄の進軍には及びもせぬだろうが、90年近く昔の写真撮影道中は大変だったろう。

 

12/7 11:38am 甲府武田神社 古くは躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)と呼ばれ、信玄の父信虎が石和からこの地に館を移し、武田三代の城郭として甲府の城下町が作られたと案内板にある。風林火山、あの信玄にしてこの館は城郭としてはチャッチぃなって素人は思う。「人は石垣人は城・・」だったんだな。

隣の案内板には昭和14年1月から太宰治がここ甲府で新婚生活を送り、「富嶽百景」を書いたとも。甲府に縁のある人のようだ。若くして自殺未遂、クスリ中毒、愛人と心中未遂。お騒がせ太宰は前年の天下茶屋逗留で心身とも回復し、29歳井伏の世話で二度目の新婚生活を甲府、三鷹で暮らし作品も順調に・・・だがお騒がせは続き38歳、愛人と玉川上水で「グッドバイ」となる。典型的な自己破滅型の私小説作家とWikiにある。私は「走れメロス」しか知らない。

明るいうちに家まで帰りたいので中央道に入り80km/h安全巡航。隣り町R116吉田のうどん琴平(12/26まちがい丸亀製麺でした)で温まって6時半無事到着。1,000km運転はじき74歳ジーさんには少々ハードル高かった帰り道ヘロヘロ3日間だった。

 

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