和納中37年入学

同級生と和納と旅行をアップ。誰だか分かる?

帯広への道

2013-07-03 04:33:49 | 旅行
門別灯台。


7/2日9:00am 苫小牧駅前で駅レンタカー借り国道R235を南下。鵡川(むかわ)町を過ぎ日高町に。
海岸に出ると岬に門別灯台。
隣にある民家は灯台守だったんだろうか。新しい灯台。

:日高振興局HP
昭和45年に建てられた高さ13m、六角形の純白な灯台。周囲は、手入れの行き届いた草地。標高30mの高台からは、雄大な太平洋が広がり、沈みゆく夕陽がつくり出すシルエットが美しい。眼下には日高本線を走るキハ40をカメラに収めることができる。:日高振興局HP




眞下を日高本線。



新冠町に入りR235から内陸R209新ひだか町「サラブレッド銀座通り」に入ります。
日高は馬の楽園です。
日本中の競争馬がここで育っています。


 
サラブレッド銀座通りにある二十間道路桜並木。
北海道開拓時代に皇族たちの行啓道路として整備されたとあります。
この道に面してある軽種馬協会静内種馬場。

軽種馬とは早い話、競馬馬サラブレッドです。
主に乗用や、乗用の馬車をひくために改良された品種で、軽快なスピードとある程度の耐久力をもつように改良されている。多くがアラブを母体としている。:wikipedia

一方重種馬とは、国産は道産子です。
主に農耕や重量物の運搬のために改良された品種。中世ヨーロッパでは重い甲冑を着込んだ重装備の騎士の乗馬とされた。大きな個体では体重1トンを超えることも珍しくない。また、軽種よりも美味とされ、食用として用いられるのは重種馬が多い。:Wikipedia

この地域では道端の雑草を刈っている大勢の人を見ました。
すべて人力の草刈機で刈られています。
動物がいるせいでしょうか?
田んぼのあぜ道に除草剤を撒くと写真家天野尚氏が嘆く新潟西蒲原と何かが違います。



牧草はこうして飼料に。



こいつがラッピングマシーン。通称ラッパー(ウソです)。
黒と透明を交互に巻いていきます。
自然発酵するのです。
こいつを考えた人ってすごいと思いません?




 
襟裳岬。
走りなので観光客もいません。



森進一の何もない春よりも、われわれ団塊世代は島倉千代子の襟裳岬が懐かしいのです。

♪風はひゅうひゅう波はざんぶりこ

ずっと「ひゅうひゅう」と思ってましたが、「ひゅるひゅる」だったんですね。


作詞:丘灯至夫
作曲:遠藤実

風はひゅるひゅる
波はざんぶりこ
誰か私を 呼んでるような
襟裳岬の 風と波
にくにくいと 怨んだけれど
いまじゃ恋しい あの人が




襟裳岬を廻って着いた帯広の夜。
取れたて、旬のアスパラガスとぶた丼で幸せ。
表でいっぷくしてた「はげ天」三代目のM治60年卒。インテル長友の先輩サッカー部obと。



「豚丼マップ」があるくらい、帯広は豚一色です。

「豚丼は帯広の食文化そのもの...。豚丼と帯広の縁は古く、開拓時代までさかのぼります。
明治十六年、静岡県松崎市より帯広開拓のため、依田勉三率いる晩成社が豚四頭を連れてオベリベリ(当時の下帯広のちの帯広)に入植したのが始まりといわれ、開墾とともに農業の路を歩みだしました。当時オベリベリでは、「牛は牛乳、馬は馬力、豚は食料」と区別され、牛肉を食する習慣を得なかった帯広は、豚を食する土地柄になったといいます。
半世紀後の昭和初期、豚肉はもちろん醤油や砂糖も大変貴重な時代、当時の洋食料理人数人がうなぎの蒲焼きをイメージし、試行錯誤の末に完成させたのが、豚丼という食べ物が世にでた始まりと伝えられます。
それから数十年。帯広に暮らす人々の変わらぬ開拓精神とともに帯広に根づいてきた食べ物、それが帯広名物・豚丼なのです。」:昭和九年創業「はげ天」HP




昭和九年創業初代矢野省六さんは、はげ頭だったようです。
「はげ天」のぶた丼で幸せな帯広の夜です。




「開墾のはじめは豚とひとつ鍋」依田勉三


客人が豚の餌と勘違いするほどの粗末な食事であったと開拓初期の壮絶な句。



コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 走の北海道 | トップ | 北海道限定 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

旅行」カテゴリの最新記事