第5章 ヨーロッパ世界の形成と発展
1節 西ヨーロッパ世界の成立
用語リストへア.ヨーロッパの風土と人々
- a ヨーロッパ は、ユーラシア大陸の西端、西は大西洋岸から東はウラル山脈までを言う。
- 地形:ピレネー山脈-アルプス山脈などを境に北ヨーロッパと南ヨーロッパに分かれる。
北は平坦な丘陵地とロワール川、セーヌ川、ライン川、エルベ川などの河川沿いの平野が多い。
南部の地中海沿岸は、平地は少ない。
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- 気候:b 西ヨーロッパ 湿潤・温暖な、西岸海洋性気候。森林が広がり、穀物栽培、家畜飼育に適する。
c 東ヨーロッパ 乾燥・寒冷な大陸性気候。大森林が広がり、さらにステップに連なる。
d 南ヨーロッパ 夏暑く、乾燥する地中海性気候。果樹栽培に適する。 - 民族構成 古代から現代まで、民族移動や移住が進み、多くの民族が混在している。
e インド・ヨーロッパ語族 ギリシア人、イタリア人、スペイン人、フランス人などの南欧系
ケルト人、ゲルマン人(ドイツ人及びノルマン人)などの北欧系
スラブ系(ポーランド、チェコ、ロシア人など)などの東欧系
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f ウラル語系・アルタイ語系 マジャール人、フィン人、エストニア人など
用語リストへイ.ゲルマン人の大移動
■ポイント ゲルマン人の移動と国家建設の歴史的意義と、その社会の特質を理解する。
Aゲルマン人 a インド・ヨーロッパ語族 バルト海沿岸で牧畜と狩猟を主とする部族生活を営む。
- 先住民のb ケルト人 ※を圧迫しながら次第に西ヨーロッパに拡大。
※前6世紀頃、ヨーロッパに広がる。ゲルマン人に圧迫されたが、現在も一部に少数民族として残存している。 - 紀元前後、ライン川からドナウ川にいたる広大な地域に進出、c ローマ の国境を脅かす。
▲AD9年 d トイトブルクの戦い でローマ皇帝アウグストゥスの派遣したローマ軍を破る。
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B ローマ時代のゲルマン人
- a カエサル のb 『ガリア戦記』 と、歴史家c タキトゥス のd 『ゲルマーニア』 が史料となる。
- 社会 数十の部族(キヴィタス)に分かれ、それぞれ王または首長に率いられ貴族・平民・奴隷の別があった。
首長の主催するe 民会 (貴族と平民の成年男子による集会)を最高議決機関とする。 - 帝政末期のローマ領内への移住 背景 f 人口増加に伴い、土地が不足など が考えられる。
→ ローマ帝国の下級官吏やg 傭兵 や、h コロヌス となる。
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Cゲルマン人の大移動 の開始。
- 4世紀後半 アジア系遊牧民のa フン人 が黒海北方から西に移動開始。
→ 南ロシアのゲルマン民族のb 東ゴート人 を征服し、さらにc 西ゴート人 に迫る。 - d 375 年 c 西ゴート人 の西方移動始まる。= ゲルマン民族の大移動の開始。
→ 翌年、ドナウ川を越えローマ領内に侵入。
解説
ゲルマン人の移動の直接的原因は、一般にフン人による圧迫とされているが、そのフン人の移動もふくめて、よく分かっていない。当時のゲルマン人の農耕はまだ生産力の低い、移動性の強いものであった。また同じ時期にユーラシアの東では五胡の中国本土への侵入という民族移動も展開されていたので、地球的な規模での環境の悪化があったとも考えられている。なお、日本では「ゲルマン人の大移動」と言われるが、フランスではこれを「侵入」と言っている。世界史の見方も立場が異なれば違ってくる例である。
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D ゲルマン人諸国の建国
- a 西ゴート人 :イタリア侵入、410年 アラリック がローマ掠奪。
→ ガリア西南部からイベリア半島にかけてb 西ゴート王国 を建国。都c トレド 。(前出) - d ヴァンダル人 :イベリア半島から北アフリカに渡り旧カルタゴの地にe ヴァンダル王国 を建国。
- f ブルグンド人 :ガリア東南部に王国を建国。(後のg ブルゴーニュ 地方)
- h フランク人 :ライン川中、下流を越えてガリア北部にi フランク王国 を建国。
- j アングロ=サクソン人 :ブリタニア( 大ブリテン島 )に進出。k ケルト人 を征服。
→ l 七王国(ヘプターキー) を建国。(後出)
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E西ローマ帝国の滅亡
- a フン人 の国家 : b アッティラ大王 がパンノニア(現在のc ハンガリー )に大帝国を建設。
451年 d カタラウヌムの戦い で西ローマ帝国とゲルマン民族の連合軍に敗れる。 - e 476 年 ゲルマン出身の傭兵隊長f オドアケル 、西ローマ帝国を滅ぼす。
493年 東ゴート人のg テオドリック大王 イタリアに移動、オドアケルの王国を滅ぼす。
h 東ゴート王国 ラヴェンナを都に北イタリアを支配。ローマ文化との融合を図る。
→ 555年 東ローマ(ビザンツ帝国)のi ユスティニアヌス帝 の遠征軍に滅ぼされる。
→ 北アフリカのj ヴァンダル王国 も滅ぼし、一時地中海支配を回復。
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- 568年 k ランゴバルド人 北イタリアに入り、ビザンツ帝国を撃退し王国を建国。
= ゲルマン人の大移動が終わる。 → 6世紀、ゲルマン諸王国の中で、フランク人が有力となる。
用語リストへウ.フランク王国の発展
■ポイント ゲルマン人諸国の中で、フランク王国が有力となりヨーロッパの統一に成功したのはなぜか。
Aメロヴィング朝 の成立。 481年 メロヴィング家のa クローヴィス がフランク人を統一。
- b ガリア 中部まで領土を拡大。 → 東ゴート王国とならぶ強国となる。
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Bクローヴィスの改宗 496年 キリスト教の正統派a アタナシウス派 に改宗。

B クローヴィスの改宗
- 他のゲルマン諸民族は異端派のb アリウス派 のキリスト教を信仰。
→ c フランク王国がローマ人貴族を支配層に取り込み、その権威を継承した。 - 6世紀なかば ガリア南東部のブルグンド王国を滅ぼし、全ガリアを統一。
- 8世紀 メロヴィング朝が衰退、d 宮宰 (マヨル=ドムス)が実権を握る。
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Cイスラームの侵入 a ウマイヤ朝 の勢力が北アフリカに及ぶ。
- 711年 イベリア半島に侵入、b 西ゴート王国 を滅ぼす。
→ ピレネーを超え、ガリアに侵入。 - 732年 c トゥール・ポワティエ間の戦い
= フランク王国の宮宰d カール=マルテル が活躍し、イスラーム軍を撃退。
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Dカロリング朝 の成立。 751年 カール=マルテルの子a ピピン が王位を奪う。
- bローマ教皇 からフランク王国の王位を認められる。(後出)
解説
ピピンはフランク王国カロリング朝初代の国王。751年、ピピン3世として即位。彼は小ピピンと言われるが、彼の祖父を中ピピン、そのまた祖父を大ピピンという。彼はたいへん小柄であったためともいう。父カール=マルテルに続いて宮宰であったが、メロヴィング朝の王位の弱体化に乗じ、ローマ教皇からフランク王国の甥につくことを認められた。その見返りとして北イタリアのランゴバルト王国から奪ったラヴェンナ地方をローマ教皇に寄進(ピピンの寄進)し、ローマ教皇との関係を強めた。
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E地中海世界の変貌 ゲルマン人の大移動 → 西ローマ帝国の滅亡 → イスラーム勢力の進出
- その結果、a 地中海世界の政治的・文化的統一は失われ、商業活動も停滞し貨幣経済が後退した。
用語リストへエ.ローマ=カトリック教会の成長
■ポイント ローマ=カトリック教会がヨーロッパ世界に浸透し、教皇権が強大になった経緯を知る。
A五本山の成立 の成立。 ローマ帝国の帝政末期に成立したキリスト教の重要な五カ所の教会。
- a ローマ・コンスタンティノープル・アンティオキア・イェルサレム・アレクサンドリア
→ 西方教会=b ローマ教会 と東方教会=c コンスタンティノープル教会 が有力となる。
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Bローマ=カトリック教会 の成長。 西ローマ帝国の滅亡後、次第に東方教会から分離の傾向を強める。
- ▲525年 ローマ教会で a キリスト紀元 が用いられる。→ 10世紀末までに西ヨーロッパに定着。
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- 6世紀 b 修道院運動 がひろがる。
529年 c ベネディクトゥス がイタリアのd モンテ=カシーノ に修道院を建設。(後出) - ローマ教会の司教がペテロの後継者としてe 教皇(法王) と言われ権威を高める。
- 6世紀末 最初のローマ教皇f グレゴリウス1世 、ゲルマン人への布教に努める。
- 568年 g ランゴバルド王国 (異端)がイタリアに侵入、h ビザンツ帝国 はイタリアから後退。
→ ローマ教会はビザンツ皇帝の保護権から離れる。
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C聖像崇拝問題 ローマ教会は布教のためイエスやマリアの像をa 聖像 として崇拝していた。
- 726年 ビザンツ皇帝b レオン(レオ)3世 がc 聖像禁止令 を発布。
- 背景 イスラーム勢力の小アジアに進出してビザンツ帝国を脅かし、キリスト教を偶像崇拝として非難した。
→ d 偶像崇拝を厳格に否定することにより、イスラーム教側のキリスト教批判に対抗しようとした。
→ ローマ教会はe ゲルマン人への布教の必要のため聖像礼拝を肯定し、聖像禁止令に反対した。
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Dローマ教皇領 の成立
- ビザンツ皇帝と対立したローマ教会は、a フランク王国 に接近。
- 754年 b ピピン がc ラヴェンナ地方 ※をローマ教皇に寄進。 = d ピピンの寄進
※ローマ教皇にフランク王位を認めてもらった返礼として、ランゴバルト王国から奪った地を寄進した。 - 意義 e ローマ教皇領が成立して大領主となる第一歩となり、フランク王国との結びつきが強まった。
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用語リストへオ.カール大帝
■ポイント カールはどのような点で「大帝」といわれるのか。「カールの戴冠」の世界史的意義は何か。
Aカール大帝 フランク王国カロリング朝ピピンの子。仏語でa シャルルマーニュ という。
- 771年 単独の王権を確立。一代で領土の拡大し、西ヨーロッパの大部分をフランク王国領とする。
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北イタリアのb ランゴバルド王国 を征服。 ドイツ北東のc ザクセン人 を服従させる。
→ ゲルマン諸部族の大部分が統合され、d ローマ=カトリック に改宗進む。
東方:パンノニア(現ハンガリー)に侵入したアルタイ語系e アヴァール人 を撃退。
南方:イベリア半島に進出し、f イスラーム勢力 と戦う。北東部(カタルーニャ地方)を領有。 - 国土の統治:全国を州に分けそれぞれにg 伯 を置き、h 巡察使 を派遣して監督。
▲国境地帯にはi 辺境伯 を置く。 → 中央周辺的に支配。j ビザンツ帝国 と並ぶ大国となる。 - ▲教育と文化の振興:宮廷を置いたk アーヘン を中心に古典文明の復興をはかる。(4節参照)
古典文明の復興を目ざしイギリスの神学者l アルクィン らを招く。 =m カロリング=ルネサンス
解説
カール大帝とイスラーム世界 カール大帝は、イスラーム世界ではアッバース朝の全盛期であるカリフ、ハールーン=アッラシードと同時代だった。カール大帝は、イベリア半島では後ウマイヤ朝軍と戦っているが、ハールーン=アッラシードには使者を送り、提携を求めている。それはビザンツ帝国との対抗上、有利と考えたからであろう。
ピレンヌ=テーゼ 20世紀初頭に活躍したベルギーの歴史家アンリ=ピレンヌ(1862-1935)は、「マホメット無くしてシュルルマーニュ無し」と主張した。ピレンヌ説は、当時の地中海世界はイスラーム勢力の脅威にさらされ、そのため地中海商業圏は衰え、ヨーロッパ世界は自給自足的な農業を基本とした中世封建社会に移行せざるを得なかった、というものである。ピレンヌは、イスラーム教徒の歴史家イブン=ハルドゥーンのキリスト教徒は「もはや地中海上に板子一枚浮かべることができない」という言葉を引用し、カール大帝の国家はイスラーム勢力の地中海覇権の成立によって、封建的な内陸国家として成立せざるを得なかったと主張した。これはピレンヌ=テーゼと言われて大きな影響を及ぼし、ヨーロッパ中心の歴史観を修正をせまった。しかし現在では、ヨーロッパ社会の封建化はイスラームの地中海進出以前から、それとは因果関係なしにすすんでいるというのが一般的な見方である。
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地図 西ヨーロッパ世界の成立 カール大帝時代のフランク王国とその周辺

1 アングロ=サクソン七王国 2 ザクセン人 3 スラブ諸民族 4 マジャール人
5 ランゴバルト 6 ローマ教皇領 7 ビザンツ帝国 8 後ウマイヤ朝
a アーヘン b パリ c トゥール d ポワティエ e ラヴェンナ
f ローマ g ヴェネツィア h モンテ=カシーノ
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