▲ステンカ=ラージン
●ロシア(ロマノフ朝)
The rebellion of Stenka Razin begins.
色(いろ)んな例で 知ってんか。
1670年 ロシア ステンカ=ラージンの乱
1670年、ロマノフ朝2代目のアレクセイ帝の時代、ドン=コサックの首領ステンカ=ラージンはロシアの農奴制強化に対し、コサック、下層農民も含めた大軍を率いてヴォルガ川方面で反乱を起こした。
ラージンは捕えられ殺され、コサックの自治は奪われたが、彼の名は伝説・民謡に残り、語り継がれた。
▲ステンカ=ラージン
●ロシア(ロマノフ朝)
The rebellion of Stenka Razin begins.
色(いろ)んな例で 知ってんか。
1670年 ロシア ステンカ=ラージンの乱
1670年、ロマノフ朝2代目のアレクセイ帝の時代、ドン=コサックの首領ステンカ=ラージンはロシアの農奴制強化に対し、コサック、下層農民も含めた大軍を率いてヴォルガ川方面で反乱を起こした。
ラージンは捕えられ殺され、コサックの自治は奪われたが、彼の名は伝説・民謡に残り、語り継がれた。
▲青年時代の康熙帝
●中国(清)
Revolt of the Three Feudatories is squashed by Kangxi Emperor.
一路(いちろ)難産 反抗期。
1673年 三藩の乱 呉三桂 雲南 康熙帝
李自成の北京占領に際し、清軍を本土に引き入れて中国統一に協力した明の武将呉三桂は雲南の藩王となり、広東の尚可喜、福建の耿継茂とともに三藩とよばれた。
聖祖康熙帝は強大化した勢力を削るため、三藩の廃止に踏み切ると、1673年呉三桂ら挙兵し、三藩の乱が起こった。
清朝支配は一時危機に陥ったが、康熙帝はたくみに鎮定し、中国支配を確立した。
▼呉三桂
《康熙帝の台湾支配》
1681年に三藩の乱を平定した康熙帝は、1683年には明の遺臣である鄭成功以来、台湾を根拠地として「反清復明」の運動を続ける鄭氏一族も征服し、台湾も直轄支配下に置いた。
これによって、反清勢力は潰(つい)え去った。
▲チャールズ2世
●イギリス(ステュアート朝)
Parliament passes the Test Act in 1673 and the Habeas Corpus in 1679.
色(いろ)んな刷新(さっしん) 自信なく。
1673年 審査法 人身保護法 79年
クロムウェルの死後、1660年、議会は先王の子をチャールズ2世としてむかえ、王政を復活した。
国王が専制的な姿勢とカトリック復活をくわだてると、議会は1673年、公職につくものは国教徒に限る審査法を、1679年には不当な逮捕を認めない人身保護法を可決して国王に対抗した。
《政党の発生》
1670年代末、王位継承をめぐって国王の権威を擁護しようとするトーリー党(保守党の前身)と議会の権利を主張するホイッグ党(自由党の前身)が誕生した。
▲アウラングゼーブ
●インド(ムガル帝国)
Aurangzeb reimposes jizya.
色(いろ)無くします あらジズヤ。
1679年 アウラングゼーブ帝 ジズヤ復活
アクバル帝以後、財政は行き詰まり、増税による農民の没落が始まった。17世紀半ばの第6代アウラングゼーブ帝は、たびたび外征を行い、領土は最大となったが、非イスラム教徒へのジズヤを復活させた。そのためラージプート族の支持を失い、勢力を増大させつつあったデカン高原のマラータ族やパンジャーブ地方のシク教徒の反発を招いた。
●江戸時代(霊元天皇 徳川綱吉)
Ihara Saikaku publishes the amorous adventure tale “The Life of an Amorous Man”.
色初(はつ)最初の 一代男。
1682年 井原西鶴 世之介 『好色一代男』
西山宗因に俳諧を学んだ井原西鶴は、現世を写実的に描く浮世草子の作者となり、1682年、主人公世之介の人生を54章に描いた『好色一代男』を刊行。晩年は金銭を中心に動く町人社会を描いた『日本永代蔵』『世間胸算用』などの町人物を書いた。
《元禄文化》
浮世草子 井原西鶴 好色物…『好色一代男』
町人物…『日本永代蔵』『世間胸算用』
俳諧 松尾芭蕉 紀行文…『奥の細道』
俳諧七部集…『猿蓑』『あら野』など
人形浄瑠璃 近松門左衛門 世話物…『曽根崎心中』『明度の飛脚』
時代物…『国姓翁合戦』
絵画 尾形光琳 『紅白梅図屏風』
菱川師宣 『見返り美人図』
▲昭明太子(蕭統)
●魏晋南北朝の文化
照明利用 門前(もんぜん)で。
昭明太子 梁 『文選』
南朝梁(りょう)の武帝の長子で、皇太子であった昭明(しょうめい)太子(たいし)は、周から梁までの詞と散文を集めた全30巻の詩文集『文選(もんぜん)』を編纂。
後世の範とされ、日本の平安文学にも大きな影響を与えた。
▲オランダ、ゼーラント州に到着したウィリアム3世
●イギリス(ステュアート朝)
Glorious Revolution breaks out and Bill of Rights follows.
広場(ひろば)は名誉 野球拳。
1688年 名誉革命 89年 権利の章典
ジェームズ2世(在位1685~1688年)が絶対王政の復活をくわだてたのに対して、1688年議会は国王の長女メアリと夫のオランダ総督ウィレム3世を招き、国王は抵抗をあきらめて亡命した。二人は1689年、権利の宣言をうけいれてウィリアム3世・メアリ2世としてともに王位についた。これを名誉革命という。そして翌1689年には権利の宣言を成文化し、権利の章典として発布した。
※権利の章典 「王の権限によって議会の同意なく法を停止できると主張する権力は違法である」とする。
1月1日は魔法の日である。
この日に継続を誓ったことは他の日に誓ったことよりも遥かに高い確率で達成することができる。
例えば6月23日が6月24日になっても変わり映えのしない日常の連続であるが、12月31日と1月1日はそうではない。
●中国(清)・ロシア(ロマノフ朝)
China and Russia sign the Treaty of Nerchinsk.
一路(いちろ)躍進 好評(こうひょう)ね。
1689年
ロシア 清 康熙帝
ピョートル1世 ネルチンスク条約
17世紀に成立した清王朝は、4代皇帝康熙帝のとき、三藩の乱を平定し(1681年)、台湾を領有(83年)。
清朝による中国統一を実現した。康熙帝は黒竜江(アムール川)流域にアルバジン要塞を築いて南下してきたロシアをも攻め、1689年にピョートル1世との間にヨーロッパ諸国との最初の対等な条約となるネルチンスク条約を結んで、アルグン川とスタノヴォイ山脈(外興安嶺)を両国の国境と定めた。
また、康熙帝はオイラートの一部族のジュンガル部を親征し、外モンゴルから青海、チベットにも勢力を伸ばした。
▼ピョートル1世
《露清間の条約》
ネルチンスク条約以後の露清間の条約には、雍正帝の時代に結ばれたキャフタ条約がある。また、1847年にムラヴィヨフが初代東シベリア総督に就任すると、ロシアの東進政策は一層進展し、アイグン(1858年)・北京(1860年)・イリ(1881年)の3条約が結ばれた。
寝(ね)るキャ愛人 北京入り。
ネルチンスク条約 キャフタ条約 アイグン条約 北京条約 イリ条約
▲第2次ウィーン包囲
●トルコ(オスマン朝)
Treaty of Karlowitz is concluded: The Ottoman Turks cede to Austria almot all their former territories in Transylvania and Hungary.
一路(いちろ)危機から 戸は開き。
1699年 カルロヴィッツ条約 トランシルヴァニア ハンガリー
16世紀にはaアジア・ヨーロッパ・アフリカにまたがる大帝国を支配したオスマン帝国は、17~18世紀以降、弱体化と分裂の傾向が顕著になる。そのきっかけになったのは、 1683年の第2次ウィーン包囲の失敗であった。
その後、1699年に結ぼれたカルロヴィッツ条約でハンガリーとトランシルヴァニアをオーストリアに割譲したのをはじめとしオスマン帝国は、ヨーロッパ側の領土を奪われていった。
オスマン帝国にとってはキリスト教国に対するはじめての大幅な領土割譲であり、改革の時代への端緒となった。
▲ ピョートル1世
●ロシア(ロマノフ朝)
Commencement of Great Northern War.
居(い)直(なお)れ北方 今日取るか。
1700年 北方戦争 ピョートル1世 カール12世
1700年、ロシアのピョートル1世は、バルト海貿易を独占し北ヨーロッパの覇権を握っていたスウェーデンに対し、デンマーク・ポーランドと結んで北方戦争を起こした。徴兵制をしき常備軍を編制したロシアはカール12世のスウェーデン軍をポルタヴァの戦い(1709年)に大勝して戦局を転換した。この戦いの間、サンクト=ペテルブルクを建設して新都とし、1721年にはニスタット条約を結んでバルト海に覇権を打ちたてた。
▲フェリペ5世
●フランス(ブルボン朝)
The War of the Spanish Succession begins. It is an international retaliation to Louis XIV’s acceptance of the Spanish crown on behalf of his grandson.
非難(ひなん)王位は 不幸です。
1701年 オーストリア
オランダ イギリス
ハプスブルク家断絶
フェリペ5世 スペイン継承戦争
1700年、スペイン王カルロス2世が死去してハプスブルク家が断絶すると、スペインから王妃を迎えていたルイ14世は孫をスペイン国王フェリペ5世として即位させ、スペイン‐ブルボン朝を創始。
諸国はフェリペ5世の王位継承権放棄を条件に即位を認めたが、ルイ14世が撤回したため、イギリス・オランダ・オーストリアなどが連合してフランスと戦った(スペイン継承戦争)。
《ユトレヒト条約》 スペイン継承戦争の講和条約ユトレヒト条約で、列強はフェリペ5世の王位継承を承認。イギリスはジブラルタル・ミノルカ島をスペインより、ハドソン湾地方・ニューファンドランド・アカディアをフランスから獲得した。その結果イギリスがアメリカ大陸への奴隷供給を独占することになった。
異(い)な意味ゆとり 兄は地味。と覚えよう!
1713年 ユトレヒト条約 アカディア ニューファンドランド ハドソン湾地方
ジブラルタル ミノルカ島
テストにゃ出ぬが…フェリペ5世はフランスで育ったためスペイン語を話せず、入国後もその状態で過ごしていた。
●イギリス(ステュアート朝)
Great Kingdom of Britain formed in England.
人(ひと)、名を成すと ブリリアント。
1707年 スコットランド 大ブリテン王国 アン女王
メアリ2世の妹で、ステュアート朝最後のアン女王の1707年、ジェームズ1世以来同君連合の関係にあったスコットランドが合併し、輝かしき(brilliant)大ブリテン王国が成立した。
●江戸時代(東山天皇 徳川綱吉)
1695(元禄8)年 〈元禄金銀の改鋳〉★
Gold and Silver coins are reminted upon recommendation of Ogiwara Shigehide.
広(ひろ)くごまかす 原料を。
1695年 勘定吟味役 元禄金銀 荻原重秀
1695年、徳川綱吉は財政難から勘定吟味役であった荻原重秀の献策を容れ、慶長以来の貨幣の質を落とした元禄金銀を鋳造。その結果、450万4両にのぼる出目(差益金)を得て、一時的に幕府財政は豊かになったが、物価は高騰し、民衆は生活難となった
●江戸時代(中御門 徳川家継)
New regulations are issued restricting foreign trade with the Chinese and Dutch at Nagasaki; Chinese are limited to 30 and Dutch to 2 trade ships annually.
一難(いちなん)以後の 荒い海。
1715年 長崎 新井白石 海舶互市新例
1715年、新井白石は長崎貿易で日本の保有する金の4分の1、銀の4分の3が流出したと推計し、1715年、長崎で年間の貿易量をオランダ船とは船数2隻、銀高3000貫目、中国船とは30隻で銀高6000貫目に制限する海舶互市新例を発して貿易制限を行い金銀の海外流出を防ごうとした。