大工風の道

仮設住宅ってわけでもないけれど、
ま、しばらくここで様子みようっと。

大工風の道

2008年12月26日 | 記憶
中学生のときだったか…。
当時工事中だった瀬戸大橋の本州側の付け根近くの母親の郷里へ行ったときのこと。
祖父もまだ健脚で、味野(倉敷市児島)でお昼を御馳走になってから、下津井まで「しもでん」こと、下津井電鉄の小さな列車にのった。

鉄道マニアならずとも、知る人ぞ知る軽便鉄道。線路の巾は762㎜。
味野(「児島駅」)から、家の軒先をかすめるように小さな駅に止まっては進み、鷲羽山の麓の田んぼの中を大きくUカーブをして四国への玄関、下津井港のある「下津井駅」まで。
車窓からみえたのは、瀬戸内海にそびえる大きな橋脚から逆アーチに吊り下げられたワイヤー。
 →「鉄道のある風景」さんのページへhttp://nekosuki.org/landscape/index2/place-shimotsuidentetsu.htm
20年以上の月日は流れて今、祖母が病床で昏睡状態。
両親を乗せて、高速、山陽道から、瀬戸中央道へ。
水島、早島、鴻ノ池と、懐かしい地名が続く。
思えば自分は阪神大震災直後の祖父の葬式の日から来ていない…。
「ばあちゃん元気なうちにくればよかったな…」。



児島インターからはすぐ。小さな峠を越えると、海が見えてきた。
バス停からよく歩いた道。「子どものころ、この景色が見えると安心した…」と母は懐かしそうに言った。
自分の記憶そのままのその家はそこにあって、違うのは祖父母がいなくて、全体に少し古くなったこと。

?なにか違和感…。
庭、こんなに狭かった?

すぐに解った。
座って子どもの目線になると、懐かしい景色がバチッと来た。

病院に行くまでの少しの時間、浜までひとり歩いてみた。
子どものころ泳いだ海…。
沖にタンカーやフェリーが通ると大波が押し寄せては、はしゃいでた。
捕りをした大木もあった。
従兄弟たちを走り回った田んぼ。
朝一で採ったトマト…。
日焼けして背中に塗ってもらったアロエ。
本当に楽しかった…。

叔父叔母に先導してもらい、病院へ向かう。
目は開けてくれなかったが、十数年ぶりに祖母と再会した。
残念ながら、私たちの声にも反応はなかった。
手は冷たく、すっかりやつれて、それでも祖母は、酸素マスクをあててもらって、かろうじて自分で息をしていた。
今日は顔色がいいらしい。
ひょっとするとちゃんと聞こえてて理解しているかもしれないな…。

人工呼吸はつけてない。
94歳。
ものすごい生命力だと皆は言う。

後ろ髪ひかれながら病院を出た。
あの日、亡き祖父に乗せてもらった「しもでん」の廃線あとが、病院のまん前にある。



「風の道」

今にも向こうから白と赤のツートンカラーのかわいい電車が走ってきそう。
少しわがままを言って、終点の下津井駅跡まで足を伸ばした。



役目を終えた彼らは、車庫に静かに眠っていた。
駅舎も基礎のコンクリートだけになっていた。

そうだ、あのUカーブ…。
中学の自分はあそこで「しもでん」の写真を撮ったんだ…。
原田泰治さんの作品ページへhttp://www.torinome.net/gallery/gallery_a050.html

…田んぼはほとんど無くなって、新しい家が建ち並ぶ中に、大きな曲線の土手をあるく高校生の姿がみえた。
彼方には、瀬戸大橋…。

さ、帰ろうか…。




最新の画像もっと見る

コメントを投稿