大工風の道

仮設住宅ってわけでもないけれど、
ま、しばらくここで様子みようっと。

浜岡原発の停止決定

2011年05月12日 | 不思議
 私が原子力発電に反対するのは、今回のように単に事故が起こったときの危険性だけを考えてではない。

 通常に運転されてるときにも日々作られる、どうしようもない廃棄物のことや、作業員の(医学的に立証されにくい)被曝などによる致命的な後遺症の疑い。その建設に絡んで動く大きな見えない力。明らかにされない本当の原子力発電にかかるコスト……。その他もろもろを含めて、そもそも根底から見直したほうがいいのじゃないのかな? と思うところ。

 さておき、世間では浜岡原発の停止についてなにやら騒がしい。
 個人的レベルでは「ああ、よかったよかった」と喜んでいたのだけど、まんざら手放しで喜んでいられないようだ。
 まず、「自動車産業を抱える中部圏内での経済への影響が……」。
 ううん、そりゃそうだろう。たしかに影響はあるだろう。でもそれは実は大手企業は前から予測しているに違いない。私ら零細工務店でさえ、節電対策やら工業製品に頼らずに家を建てる方法を模索し続けてきたのだから。世界をまたにかける企業家が、この震災の現実を受けてそこまで読まないはずはないとも思う。



 そのことについては、またあらためて書くとして、昨日、ふと気づいたこと。

 この停止決定までのプロセスで、なにやら違和感があったのだが、その違和感がなにかわかった。

 (3月11日までのことはどうしようもないのでとりあえず棚にあげるとして)もし、健全な社会であったら、本来中電側が「浜岡原発は一度安全に停止させて、対策を講じたい。再開するかどうかはそれからの話」とまず言うべきで、それを受けて「電気が足りるのか、節電を訴えるのか、値上げするのか、計画停電するのか」の見通しを発表し、消費者が「それを受け入れるのか、受け入れないのか」の判断をし、受け入れられるのならそれでよし、受け入れられないなら、国に直訴する……。
 という流れではなかろうか?
 それが企業としての責任感だろうと思う。
 原発推進、反対論議は別として。
(あえて小学生レベルの「道徳」の感覚です)

 しかし現実は、順番が違うのだ。
 それが、私の感じた違和感だったのだ。

 なんで首相が「停止要請」するまで、だれも止めようとしなかったのだろう。(一部の自治体の首長や一部の団体や個人は口をすっぱくしていたけれど)

 そしてでてきた言葉が「首相の言葉は重い」なのである。