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畠山鈴香被告2審も無期

2009-03-25 19:07:25 | ニュース
畠山鈴香被告に無期懲役、検察・弁護側双方の控訴棄却(読売新聞) - goo ニュース
畠山被告、無期宣告に微動だにせず=悔しそうに見つめる遺族-秋田連続児童殺害(時事通信) - goo ニュース

捜査段階,公判の過程で数々の奇行を見せていた鈴香被告,
先週の『報道特集』でも取り上げていましたけど,
彼女の精神状態はかなり深刻なものがありそうです。

・自分を良く見せようとする心の働きが著しく弱い
・行動に連続性がなくその場その場で一貫性のないことをする
 (遺族にいきなり土下座したかと思えば判決が出て即控訴するなど)
 →周りからはうそつき,卑怯者に見える

先だって心理士に書いた手紙の中で
「事故や病気で死ぬのはよくてなぜ殺人はよくないのか
 本当にわからない」
などと書いていたことが明らかになり
昨年9月からの控訴審でも,

「今はあやふや」「記憶があいまい」。
畠山被告は彩香ちゃんへの殺意を強く否定。
豪憲君殺害を涙ながらに謝罪する一方、
動機を思い出せないと繰り返した。


裁判長が「本当のことを話して」と語り掛けると、「わたしがうそをついてると?」と問い返す場面もあった。

部屋の中や身のまわりがきれいなときと汚いときで
激しく変わるとか,相手のことを真面目に受けとめているのか
いいかげんなのかまるでわからないといった奇行は
中高時代からの筋金入りで
少なくとも,死刑を免れるための計算でやっている
可能性は低い(割に合わない)ですし,
託間守みたいに世の中や遺族に唾を吐き
自分の未来を棄てているということでもないと思います。

裁判長に逆ギレするのは裁判をなめているからというより
すごく本人は真剣なつもりで,裁判はおろか自分のことすらも
見えてない,わかっていないから。
第一審でしゃべっていたことすら控訴審で思い出せないと
殺意や動機について証言しなくなったのは
弁護側の言っているとおり,追い詰められて健忘が進んだ
ためではないでしょうか。

父親からの虐待で社会的に必要な精神の発達に支障が出て
それが学校での虐め(というか,周りから露骨に嫌われる
日常)を招いてさらに心を壊していった…
同じような境遇でもちゃんと社会と協調して生きている
人はたくさんいる,と言っても壊れてしまったものは
本人にはどうにもならない。
彩香ちゃんの父親はまともな男性だと信じますけれど
こんなバラバラな性格では,ちょっと優しくすれば
言うことを聞く都合のいい女として体や金(生活保護)
目当ての男とかしか寄ってこないし,それを見抜くこともできない。

通り魔殺人を犯して世の中を震撼させた「レッサーパンダ男」も
知的障害があって本来は福祉の対象であるべき存在で
あったのに,親にも本人にも援助の手が差し出されることなく
社会の底辺の存在として職を転々としたあげく
殺人者,人間としても最低の存在となってしまったといいます。

「鈴香被告も被害者であった」などという物言いは
語弊があり自分でも同意・共感のしようがないですが,
救われなければならない人生だった
と,この事件が報じられ被告のことを知る度に思うんですよね…。
生活には支障がないだけに福祉の対象にはならなかったわけですが
その壊れた心は,どれだけ年を取ろうが自分の力では
どうにもならなかったのだと。

橋から突き落としたという殺人事実すら
2人でいるところを女性が見たという証言が唯一の
客観的な証拠で,あとは被告の証言に頼るしかない
(あとは遺体発見現場と川の流れなどから事件現場や日時を
 類推することになるわけですが,その点でも疑問点が
 浮上してくるとか)。しかし被告は,取り調べで
強くこうだと言われればそれを認めてしまうし
次の瞬間には,先に言ったこととつながっていなくても
その時思ったことが本人にとっての事実になってしまう。

こうなると,事件の「真相」を裁判で明らかにするというのは
ここまでのやり方では無理でしょうし「事実」すらも
あやふやなままで終わるしかなくなってしまう。

豪憲君のご両親は
勝弘さんは「命を持って償うべきだ」,
真知子さんは「被告に更生の機会が与えられる世の中なら絶望する」
と極刑を訴えていた。

と,鈴香被告に一人前の殺人犯として,命をもって
責任をとるべきと考えておられるという報道ですが,
私の感覚としてはそれは難しいのではないかと思います。

精神的に問題があって責任能力がないとされたら
無罪になるが,それを適用するわけにはいかない。
しかし,裁判で被告の言動を目のあたりにすれば
明らかに「おかしい」ことはわかる。
殺人を犯した罪を免れることは許されない,
でも,明らかな悪意をもった凶悪な殺人犯と
認定するには無理がある。
事件の全容が明らかになったというには程遠いが
この被告から真実を引きだすというのは無理だろう。
社会に戻ってもうまくやっていけないことは目に見えているが…

とりあえず,社会から排除しておけ
よって,無期懲役。

かなり乱暴な理屈だとは思いますが,
これが現状なのではないでしょうか。


反省もしない,誠意のある謝罪もしない鈴香被告を
ご遺族は許すことはできないと思いますが,
彼女は反省する術すらもたないというのが現実だと思います。


無期懲役からの出所の可能性はともかくとして
更生の可能性は…難しいでしょうね。
死刑を求刑された被告が遺族に謝罪の手紙を送り続けて
極刑を免れたとたんに手紙も賠償の送金もしなくなった
というケースは多いそうですが,鈴香被告の場合
それとは違う(本人は真剣につとめようとしているが
できていない,また,それを自分でわかっていない),
しかし,正気をとりもどす…世間のふつうの人の
レベルに追いつく…ためには,自分の存在が認められているという
心からの安心を与えられないと無理だと思います。
愛情に包まれた状態で,適切な教育(ものの考え方,
ふるまい方,常識)をほどこされる必要がある。
それも,年齢的にいって,どれくらいの年月で効果が
出るのかは全くの未知数-。

かなり無責任で乱暴なことを書いてしまいましたが,
こんな感じで,今の社会の現実から
そんなに外れてはいないんじゃないでしょうか。


■過去のエントリ
(語るに)落ちたか…鈴香容疑者<秋田>(2006-07-14)
話題の凶悪事件3件◆光・宇治・藤里(2006-06-20)
秋田男児殺害事件 嫌な噂ばかりの報道(2006-06-08)


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累犯障害者
山本 譲司
新潮社
「これまで生きてきたなかで、ここが一番暮らしやすかった…」逮捕された元国会議員は、刑務所でそうつぶやく障害者の姿に衝撃を受けた。獄中での経験を胸に、「障害者が起こした事件」の現場を訪ね歩く著者は、「ろうあ者だけの暴力団」「親子で売春婦の知的障害者」「障害者一家による障害者の監禁致死事件」など、驚くべき事実を次々とあぶり出す。現代日本の「究極の不条理」を描く問題作。


秋田連続児童殺害事件―警察はなぜ事件を隠蔽したのか

黒木 昭雄
草思社

法廷ライブ秋田連続児童殺害事件

産経新聞社会部
産経新聞出版

豪憲はなぜ殺されたのか

米山 勝弘
新潮社

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3 コメント

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「近代裁判」と「お白州」 (しま)
2009-03-26 05:01:13
こんにちは、

ネット上に溢れかえる「死刑だ!死刑だ!」の声にうんざりしていたのですが、概ね同意です。。

日本人は理解できていませんが、刑事裁判というのは、「真実を明らかにする場」ではありません。

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
「刑事裁判とは、検察、すなわち行政権力を裁く場である」というのは近代裁判の大前提なのですが、これもまた日本人のよく理解できていないところです。
日本人というのは、裁判を「真実を明らかにする場」と考えています。裁判にかければ、どんな悪事も暴かれて、真実が満天下に暴露されると純情にも信じています。
しかし、それは近代裁判では通用しない。そもそも近代裁判では「真実の探求」なんて、本来の目的ではないのです。極論すれば、真実なんてどうだっていい。事件の真相など、知る必要はない!
小室直樹著「痛快!憲法学」(集英社インターナショナル) より引用
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

検事のことを attorney といいますが、これはつまり(国家[行政]権力の)代理人という意味です。余談ですが対する弁護士もattorney で、こちらは被疑者の代理人。
つまり、刑事裁判とは、国家[行政]権力 vs被疑者ということになり、国家権力の代理人たる検察官が被害者を代弁するものではないのです。
リーガル・マインド(近代的法意識)を欠いた日本人には、これが理解できませんから、「近代裁判」とは名ばかりの「お白州」になっているというのが現状で、志布志やら氷見の事件はあからさまだった(捜査側は自白さえとれれば有罪判決が貰える「お白州」だということを熟知しているからこそあのような捜査手段を採る)ので余りに有名ですが、御殿場事件、東住吉事件、エトセトラ、エトセトラ、いつまでたっても冤罪というものがなくならないのです。

たいへん失礼いたしました。
返信する
しまさんコメントありがとうございます (d_d-)
2009-03-26 12:53:04
自分で読みかえしても読みにくい
表現の粗いをお読みいただきコメントまで頂戴し
ありがとうございます。

確かにブログ巡廻してみると(マスコミの扱いの割に意外と少ないですね)死刑派が多いですね…。私は隣人に子を殺された立場としてならその後の態度でさらに傷つけられ,絶対死刑ですけど,第三者なら,被告の考えていることが全く理解できなくても,ちょっとはその身になって考えることができるはずなんですよね。

>「刑事裁判とは、検察、すなわち行政権力を裁く場である」というのは近代裁判の大前提
初耳でした。勉強になります。

市民感覚と罪の認定や量刑とずれがある判決の
報道を見るだに,裁判は法が実情に有っているか
否かを見せつけるものだという印象を持つことが
よくありましたが,それに近いものがあるかもしれませんね。

検察と弁護人の話については,民事の原告側についた人は明らかに「弁護」人ではない。もっといい表現はないんだろうかと思っていましたが,検事と同じですか。attorneyは米国的表現のようで prosecutorというと日本語のニュアンスに近くなるようですね。

それにしてもこの事件,最初警察は事件扱いせず捜査が遅れ,いざ動きだせば検察も証言頼みの心もとない訴え。裁判官も,本気なのかあえてなのかわかりませんが「お白洲」的な判決を下さざるを得なかったという感じですね。

返信する
「三権分立」と「裁判所」 (しま)
2009-03-26 21:36:43
いえいえ、こちらこそ、ご丁寧なお返事有難うございます。

民事のおはなしが出ましたので…。
加害者が刑事罰を受けたからといって、民事で被害者への賠償を免れることはできないですよね。
だから、民事と刑事は原則として別で、被害者は民事で訴える以外ありません。

戦国時代に上杉景勝の家臣で直江山城守兼続という武将のはなしをご存じでしょうか?
兼続の家臣が無礼討ちで殺してしまった下人の遺族に対し、「賠償金を渡すので申し訳ないが勘弁してやってくれ」との申し出に、「賠償金では済まない、何としても死者を還してくれ!」との強硬な遺族の要求に兼続がどうしたのかという有名な故事なのですが、最近の「厳罰だ!死刑だ!」の風潮にどうしてもそのはなしが頭に浮かんできてしまうのです。

死んだ者は還らない。それは確かにそうですが、そうすると残るは復讐しかありません。
たしかに、被害者はお気の毒だと小生も同情もします。しかし乍ら加害者を片っ端から死刑にすれば、それで済む問題なのでしょうか?


「刑事裁判とは、検察、すなわち行政権力を裁く場である」
以下、ご説明いたします。
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
第5章 デモクラシーとはなにか
―はたして「国民主権」が守られているか
(2)日本の三権分立は死んだ
◎主権者たる国民が絶対者
 近代デモクラシーにおいて、国民の主権は絶対的なものとなった。何者もそれを侵すことはできず、その行使は完全に国民の自由となった。
 これに異を唱える日本人はいないだろう。しかし、それが目もくらむほど恐ろしいことだと自覚している日本人は何人いるだろうか。政治学の泰斗・丸山眞男は「神が宇宙において何事をもなし得るがごとく、〝絶対者〟は、その主権国家内においては、何事をもなし得る」と言った。(215ページ)

◎なぜ権力を三つに分割したか
(略)
 あまりにも強大な絶対権力を三つに裂く。このアイディアは、英国の歴史を通じて序々に実現され、モンテスキューは『法の精神』において、これを定式化した。ご存じ、三権分立の思想である。近代国家の権力は、あまりにも強大である。人民に何をするか分かったものではない。そこで、人民の権利を強大な国家権力から守るために、これを、立法、行政、司法の三権に分け、たがいに牽制させて、バランスをとらせる。これ、所謂「三権のチェックス・アンド・バランシズ」のメカニズムである。これぞ、法と正義の存立条件である。(218ページ)

◎行政権力から人民を守るのが司法権力
 前章で述べたごとく、近代国家は、いかなる怪獣よりも恐ろしい暴力装置である。この認識がないとデモクラシーはスタートしない。この凄絶な国家権力から、いかにして人民の権利を守るか。これが、デモクラシーの目的である。主テーマである。
 この目的のために、絶対的な国家権力を、立法、行政、司法と三つに分断して、お互いに、相互牽制、チェックス・アンド・バランシズさせることにしたのだった。
 この際、人民を国家権力から守るための「チェックス・アンド・バランシズ」のポイントは何か。司法権力による行政権力の抑止である。
 三権といっても、すぐれて機動性に富み、最も人民の権利を侵犯しやすいのは行政権力である。政府の権力である。行政権力こそ、まさにゴジラよりもキングコングよりも、いかなる怪獣よりも恐ろしいリヴァイアサンの牙である。いかなるギャングよりもマフィアよりも狂暴な、政治権力が人民につきつけた刃の切先である。
「行政権力はとてつもなく恐ろしい」――これが、デモクラシー(近代リベラル・デモクラシー)の公理である。この、とてつもなく恐ろしい行政権力に、二重にも三重にも、幾重にも歯止めをかける。これぞ、デモクラシーのダイナミズムである。
 この種々の歯止めは、政治権力(三権)の内部にもあるし、外部にもある。外部にあるものとしてとくに重要なものとしては、ジャーナリズム、その他(陪審制、オンブズマン制度など)多くのものがある。
 政治権力の中にあって人民の権利を行政権力から守るために、決定的に重要な役割を演ずるもの。それが司法権力である。司法は、行政から国民を守る壁。これが、デモクラシーの基本構図である。ここに司法とは、裁判(所)である。このように、裁判の主機能は、行政権力から人民(国民)の権利を守ることにある。(256~257ページ)

第6章 暗黒裁判だった角栄裁判
―江戸時代のままの日本人の法意識こそ問題
(1)「手続き」こそデモクラシー裁判の要諦
◎誰が裁判官の機能を代替しているか
(略)
 行政官僚たる検事が、裁判所の機能を簒奪する。こうなったが最後、デモクラシーはコロリと死ぬ。裁判所こそ、行政権力の恣意から人民(国民)の権利を守る城塞だからである。これがデモクラシーの公理。(263ページ)

◎裁判官は被告の味方であるべし
 ところが、このデモクラシーの公理をほとんどの日本人は知らない。マスコミも知らない。検事も知らない。弁護士も知らない。裁判官も知らない。誰も知らない。大多数の日本人は、デモクラシーの初歩の入門手続きを知らない。そこまで言いきってしまっても、中らずと雖も遠からず。いや、ピタリと中っているのではないか。
 デモクラシー裁判であるかないか。そのための判定条件を一言で言えと言われたら何と答えますか。正解は、刑事裁判において、裁判官が被告の味方であること。これです。もちろん、裁判官は公正でなければならない。しかし、中立であってはならないのである。行政権力である原告(検事)から被告(の権利)を守る。これがデモクラシー諸国における裁判官の役割である。(263~264ページ)
小室直樹著「田中角栄の遺言―官僚栄えて国滅ぶ」(クレスト社)より引用
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

つまり、司法試験に合格した検事、判事のごときも「三権分立」さえも理解していない中学生のレベルの学力しか持ち合わせていないとしか考えられない、誠にもってそのようなお寒い状況なのです。
権力性悪説だからこそ、「三権分立」も「裁判所」も必要なのです。

長々と失礼いたしました。
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