15年前、オヤジが90歳で亡くなり、自分も目標90歳と掲げてブログを始めた。
古希を過ぎて2年目に入りその目標まであと20年を切ってしまい我が身の総点検をしてみた。
小学校入学までは小児喘息に悩まされ、「幼稚園」に行くこともできず、都営アパートの4階の窓から見かける園児たちが羨ましかった。
鉄筋コンクリートの団地が体に良くないということから、転地療養として隣接県に移住したのが小学校入学直前だった。
当初は喘息の発作が心配で、休み時間に満足に全力で走りまわることはできなかった。
それゆえ、運動会は少しも楽しい思い出がない。
しかし最後の学年になり徐々に体が田舎(?)の空気になじんできたのか、50m走を全力で走り切り、担任の教師に初めて褒められたことが今でも思い出す。
その後は、中学・高校と風邪一つ引かず病欠したことはなかった。
大学に入った年の夏の頃だと思うのだが、ある測量事務所のアルバイトで先輩たちと出張測量として千葉県某所に行った。
宿泊した宿でその晩何を食べたのかは覚えていなかったが、自宅に戻った翌日の晩に経験したことがないような腹痛に襲われた。
翌日、地元のかかりつけの老医師の医院で診察を受けた。
医師の見立ては「お腹を冷やしたのだろう、今夜温めてゆっくり寝なさい」だった。
翌朝起きて靴下を履こうとしたが下腹部が腫れて屈めないと父親に訴え、車で市内の総合病院に連れて行ってもらった。
そして検査の結果が、「虫垂炎だが放置され温められてしまった」と緊急手術を受けた。
のちに聞いた話では下腹部に膿がたまっている状態で腹膜炎と診断され初めての3週間の入院を経験した。
内臓系の入院はこの時が初めてでその後は経験がない。
高校、大学、社会人とサッカーを続け、30代後半には地元の中高年のサッカークラブに「若手」として活躍した。
ある時、雑草の生えているグランドで練習前の準備運動の最中に右膝に違和感を感じたのだがそのまま練習に入った。
その後走るたびに膝が痛んだが、加齢による痛みを持っている中高年の仲間が多かったのであまり気にはせずに放置してしまった。
40歳の時についに地元の整形外科を訪れいろいろと調べてもらった結果、「右膝半月板裂傷」で3週間の入院となってしまった。
今なら「MRI」画像で膝の中身を確認できるのだが、当時はまだ少なかった「関節鏡」で膝に小さな穴をあけそこから内部を確認しながら、切れかかった半月板を膝の中で繋げるという縫合手術を受けた。
下半身麻酔のためベッドで横になりながら、カラー映像で自分の膝の中を初めて見た瞬間であった。
しかしその晩、麻酔が切れた後の激痛は今でも忘れない
50代直前に後輩の結婚式に招待され、しこたま高級日本酒を飲み、帰宅途中で左足を道路の側溝に踏み外してしまい、その結果「蜂窩織炎」という感染症で今度は1か月半の入院を経験した。
最初は左足首の痛みから始まり、その後痛さと熱感に我慢できず地元の外科に緊急入院した。
しかしそこの院長は原因がわからず、毎日抗生物質の点滴だけであった。
ある日、職場の上司が見舞いに来てくれた時に、腫れあがった左足首を見て、「こんな町医者じゃなくて大きな病院に移れ」とアドバイスされ、妻の運転で晩にその病院から逃げるように退院した。
その翌日、大学病院に行き、整形外科に無事入院したのだが、細菌が左手首まで襲い効果的な治療方法がなく毎日左足首と左手首を冷やすだけであった。
退院後は、左手首に小さな動脈瘤ができてしまい、市立病院の「血管外科」で切除手術をした。
それから7年後に左手の握力が極端に弱まり、さらに左足が思うように前に出ないという現象に見舞われ、今度は地元の「半月板縫合手術」を行った整形外科を訪れ、MRIにより脊柱管狭窄症と診断され、温存治療と称してしばらくは首の「牽引」に通った。
しかし一向に効果が表れず左半身が危うくなったので、紹介状を書いてもらいMRI画像を持参して7年前にお世話になった大学病院を再度訪れた。
外来の若い医師が、脊柱管が圧迫されていて、そこから出ている神経が左半身麻痺の原因になっており、その圧迫の理由が、頚椎の外側の靭帯が固くなっていることが原因であると診断された。
それは「後縦靱帯骨化症(OPLL)と呼ばれる難病の一つで、難病にも2種類あるそうで、「原因が不明」な病と原因は明確ながらも効果的なな治療法がないものがあり、これは靭帯が「骨化」になる原因不明な難病であった。
やはり当初は温存療法とかで薬物療法として消炎鎮痛剤、筋弛緩剤等の内服などを処方されていたが、埒が明かずとうとう頸椎手術ということになり、「首の後方からおこなう椎弓形成術(神経の通り道を広げる手術)」を約4時間ほどかけて実施され、これも3週間の入院生活を余儀なくされた。
ここまでは、主に「整形外科」での入院のため、食事制限はなく、毎日の楽しみは3度の食事と、妻の差し入れであった。
そして昨年7月末にはまたもや深酒して酔って駅の階段の最後のステップを踏み外してホームに直撃。頬骨骨折で全治6か月の負傷となり、全身麻酔で瞼の下と口内の上を切開し、切断された頬骨を接合する手術を行い数日間、やはり同じ大学病院に入院した。
担当は今までの「整形外科」ではなく、初めての「形成外科」であった。
骨や関節、筋肉や神経系からなる運動器の機能的改善を重要視して治療を行うのが整形外科なのだが、先天的・後天的に身体表面に生じた見た目の良くない状態およびそれに伴う機能的障害の改善を目的として治療を行うのが形成外科というらしい。
少なくとも頬骨が骨折していても見た目はわからなかったが、時間の経過とともに頬が陥没したりとかして顔がゆがんでしまう場合は、形成外科が担当するらしく、「形成外科で行う手術については極力目立たずに治るように場所を選んで皮膚切開を行い、丁寧な手術操作・縫合処置を心がけて行います。」と説明されている。
確かに切開個所も下瞼とか口の中などで手術後にはほとんど目立たないが、狭い箇所に複数の器具が挿入され他ことにより、術後の顔面の痺れはなかなか退かずすでに術後7が月目を迎えようとしている。
まさに「満身創痍」の身なのだが、まだまだ天命全うには時間があるので、今日はこれから術後4回目の検査で最後の通院としたいと願っている。