■カニバリズム
カニバリズム(cannibalism)
人間が人間の肉を食べる行動、あるいは習慣をいう。食人、食人俗、人肉嗜食ともいう。
1557年にブラジルで行われたカニバリズムを描いた絵画 文化人類学における「食人俗」は社会的・制度的に認められた慣習や風習を指す。
一時的な飢餓による緊急避難的な食人や精神異常による食人はカニバリズムには含まず、アントロポファジーに分類される。
また、生物学では種内捕食(いわゆる「共食い」)全般を指す。
▼語源
スペイン語の「カニバル(Canibal)」に由来する。「Canib-」はカリブ族のことを指しており、16世紀頃のスペイン人航海士達の間では、西インド諸島に住むカリブ族が人肉を食べる(人食い人種)と信じられていた。
そのためこの言葉には「西洋(キリスト教)の倫理観から外れた蛮族による食人の風習」=「食人嗜好」を示す意味合いが強い。
発音が似ているため、日本ではしばしば謝肉祭を表す「カーニバル (carnival)」と混同されるが、こちらは中世ラテン語の「carnelevarium(「肉」を表す「carn-」と、「取り去る」を意味する「levare」が合わさったもの)を語源に持つ。
「食人」、「人食い」という意味としては、ギリシア語の「アンスロポファギア(ανθρωποφαγία)」に由来する「アントロポファジー(anthropophagy、「人間」を意味する「anthropo-」と、「食べる」を意味する「-phagy」の合成語)」が忠実な語である。
▼分類
習慣としてのカニバリズムは、大きく以下の2種類に大別される。
・社会的行為としてのカニバリズム
・社会的行為ではない(=単純に人肉を食す意味合いでの)カニバリズム
文化人類学による説明
特定の社会では、対象の肉を摂取することにより、自らに特別な効果や力、または栄誉が得られると信じられている場合がある。
しばしばその社会の宗教観、特にトーテミズムと密接に関係しており、食文化というよりも文化人類学・民俗学に属する議題である。自分の仲間を食べる族内食人と、自分達の敵を食べる族外食人に大別される。
族内食人の場合には、死者への愛着から魂を受け継ぐという儀式的意味合いがあると指摘される。すなわち、親族や知人たちが死者を食べることにより、魂や肉体を分割して受け継ぐことができるという考えである。
すべての肉体を土葬・火葬にしてしまうと、現世に何も残らなくなるため、これを惜しんでの行いと見ることができる。日本に残る「骨噛み」は、このような意味合いを含む風習と考えられる。
なお人身供養と考えるか、葬制の一部と見るのかによって意味合いが変わってくるが、ニューギニア島の一部族に流行していたクールー病と呼ばれるプリオン病は、族内食人が原因でプリオンが増加したことが判明している。
族外食人の場合には、復讐のような憎悪の感情が込められると指摘される。また族内食人同様、被食者の力を自身に取り込もうとする意図も指摘される。代表例は各国で見られる戦場における人肉食である(兵糧の補給という合理的見地から行われた場合を除く)。
ヨーロッパ人の探検隊が先住民族に捕らえられて食される逸話もこれに相当する。何もこれは未開地域の話ではなく、例えばジョン・ジョンスンは、妻を殺したインディアンに復讐した際、その肝臓を食べたという話が広まり、レバー・イーティング(肝臓食い)という渾名を付けられた。
実際には、インディアンをナイフで殺した時、刃先に付着していた肝臓の欠片を食べる「ふり」をしただけともされるが、いずれにせよ、殺した相手の肉を食らうという逸話は、復讐を完了したことを象徴的に示しているとされた。
戦争によるカニバリズムは、首長制の集団のような比較的小規模な条件では高まり、国家と呼べる規模まで成長すると逆に禁止、縮小される傾向がある。
マーヴィン・ハリスは、戦争によるカニバリズムを許すと相手の降伏が望めなくなり、戦争後の統治や収奪が困難になるデメリットが大きいために、国家レベルの社会では戦争によるカニバリズムを禁止したとしている。
なお、タンパク質の供給源が不足しているあるいは過去に不足していた地域では、人肉食の風習を持つ傾向が高いという説がある。実際に、人肉食が広い範囲で見られた上述のニューギニア島は、他の地域と比べて家畜の伝播が遅く、それを補うような大型野生動物も生息していなかった。
こういった地域での族外食人には、もとは社会的意図がなかった可能性が示唆される。
薬用としての人肉食
死者の血肉が強壮剤や媚薬になるとする考えも欧州はじめ世界中に見られ、これは族内食人の一環として説明する研究者もいる。
人間のミイラには防腐処理剤に瀝青・ハーブ・スパイスが用いられ一種の漢方薬として不老不死や滋養強壮の薬効があると信じられていて、主に粉末としたものが薬として飲用され、日本にも薬として輸出されていた。
また中国や日本では肝臓、胆嚢、脳を薬として摂取していた(例:刀剣の試し斬り役山田浅右衛門の人胆丸)。
現在でも胎盤は健康や美容のために食されたり、医薬品として加工される。
ジャック・アタリやレヴィ=ストロース、鷲田小彌太らは、臓器移植(他者の臓器を取り出して別人の体に移植する行為)はカニバリズムのカテゴリーに含まれると主張している。
臓器移植は経口摂取ではないものの、他人の体の一部を取り込む行為にはある種の不気味さを感じる人もあり、例えば吉本隆明は『私は臓器を提供しない』の中で、臓器移植には「人食いのイメージが強い」と記している。
緊急事態下での人肉食
飢饉、戦争、食料不足による人肉食も世界各地に見られる。 生存のために他の人間の死体を食べた事例は、
・1816年 メデューズ号遭難事故
テオドール・ジェリコーによる絵画「メデューズ号の筏」で広く知られた。
・1845年 ジョン・フランクリン探検隊遭難事故(フランクリン遠征)
・1846年 ドナー隊遭難事故
・1884年 ミニョネット号事件
・1918年 デュマル遭難事故
アメリカ合衆国の貨物船が落雷による爆発沈没のため、複数の救命艇に避難するも、乗員数に極端な偏りが生じた。
・1921-1922年 ロシア飢饉
・1931-1932年 ホロドモール スターリン治下のソ連で引き起こされた人工的な飢饉(飢饉輸出)。
・1943年 ひかりごけ事件
・1972年 ウルグアイ空軍機571便遭難事故
緊急事態下を生き延びる手段としての人肉食は、食のタブーを超えて古今東西でしばしば見られる。
近年の著名な例としては、1972年のウルグアイ空軍機571便遭難事故が挙げられ、遭難した乗客らは、死亡した他の乗客の遺体を食べることで、救助されるまでの72日間を生き延びた。
『アンデスの聖餐』、『生存者』やこれを原作にした『生きてこそ』の映画で知られる。このような事例は厳密にはカニバリズムには含まれない。
他の例として、1846年のアメリカにおいて、東部からカリフォルニアを目指して出発した開拓民の一行であった西部開拓者のキャラバン・ドナー隊が旅程の遅れのためにシエラ・ネバダ山脈での越冬を余儀なくされ、山中トラッキー湖畔において遭難した際は、発覚までに隊の中で死亡者を食べるという緊急避難措置が行われていた。さらに悪天候や当時の救助技術により完了するまでに長期間、数回に分けての救助となった。
そんな折、最後の被救出者は、先の救出作業の際に渡されていた牛の干し肉があったにもかかわらず、共に残った婦人の肉を食べていた。
これは緊急避難が人肉嗜食に転じた典型例である。彼はその婦人の殺害を疑われたが、証拠不十分で放免された。
栄養学的に見た人肉食
人肉の栄養価は、旧石器時代の人々が食べていた他の動物と比較して高くないことが2017年4月6日に『サイエンティフィック・リポーツ』で発表された。
論文著者であるブライトン大学のジェームズ・コールは「ほかの動物に比べて、ヒトは栄養学的に優れた食品ではありません」と語っており、コールの推定値によると、イノシシやビーバーの筋肉は1kgあたり4000kcalあるが、現代人の筋肉は1300kcalしかないという。
この研究によって、コールは2018年のイグノーベル栄養学賞を受賞した。
人肉嗜食
人肉嗜食とは、特殊な心理状態での殺人に時折見られる人肉捕食等のことで、緊急性がなく、かつ社会的な裏づけ(必要性)のない行為である。
多くは猟奇殺人に伴う死体損壊として現れる。文明社会では、直接殺人を犯さずとも死体損壊等の罪に問われる内容であり、それ以前に、倫理的な面からも容認されない行為(タブー)である食のタブーとされる。
カニバリズムは、しばしば性的な幻想をもって受け止められることが多い。連続殺人者として知られるアルバート・フィッシュ、ジェフリー・ダーマー、フリッツ・ハールマン、アンドレイ・チカチーロは、殺人と並行して人肉を食べた。性的なものをベースにしつつ、より「食人」を重視したカール・グロスマン(英語版)、ニコライ・デュマガリエフは犠牲者も多数となった。
パリ人肉事件の犯人の佐川一政は自著の中で、女生徒の肉の味を「まったり」と「おいしい」と記述し、また被害者に憎しみはなく憧れの対象であり、事件時の精神状態は性的幻想の中にあったと記述している。
1978年には、日本で手首ラーメン事件、1989年には東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件が発生している。 2001年にはドイツに住むアルミン・マイヴェスが、カニバリズムを扱うインターネット上のサイトで自分に食べてもらいたい男性を募集し、それに応じてきた男性を殺害し、遺体を食べている。
2007年には、フランス北部ルーアンの刑務所で35歳の男性受刑者が、別の男性受刑者を殺害し、肉体の一部(肋骨の肉)を監房に備え付けられていたキッチンやストーブで調理して食べたとされる事件が起きている。
同年にホセ・ルイス・カルバが食人を行った。2012年にはマイアミゾンビ事件が発生した。
近年はロシアの若年層に人肉嗜食が頻発しており、2008年には、悪魔崇拝を標榜する少年少女8名が同年代の4名を殺害してその肉を食する事件が、2009年には、メタルバンドを組むユーリ・モジノフら青年2人がファンの少女を殺害してその肉や内臓を食する事件が起きている。
いずれも犯行動機は要領を得ず、「悪魔から逃げたかった」「酩酊して腹が減っていた」と不可解な供述に終始している。
🍥日本の食人風習について
南方熊楠による論考がある。
縄文時代後期の大森貝塚において、住民の墓地とは別に貝殻捨て場で獣畜と同様に細かく砕いた人骨が発見されていることから、食人行為が行われていたと推測される。
また綏靖天皇が七人の人々を食べたという史料の記述をはじめとして、酒呑童子説話中の源頼光一行や、安達ヶ原の鬼婆の家に立ち寄った旅人、肝取り地蔵といった説話に古代日本におけるカニバリズムの存在が散見される。
『遠野物語拾遺』第二九六話と第二九九話には、遠野で5月5日に薄餅(すすきもち)を、7月7日に筋太の素麺を食べる習慣の由来として、死んだ愛妻の肉と筋を食べた男の話が記録されている。
また、中国にある割股の話は、日本にも類話が見える。
『信長公記』には、鳥取城が羽柴秀吉に兵糧攻めされた際、城兵たちは草木や牛馬を食べ尽くした末、城を脱走しようとして織田軍に銃撃されて死んだ人間を食い争ったとある。
随筆『新著聞集』では、江戸時代の元禄年間に増上寺の僧が、葬儀にあたって死者の剃髪をした際、誤って頭皮をわずかに削り、過ちを隠すためにそれを自分の口に含んだところ、非常に美味に感じられ、以来、頻繁に墓地に出かけては墓を掘り起こして死肉を貪り食ったという話が収められている。
確実な記録には、江戸四大飢饉の時に人肉を食べたというものがある。また天明の大飢饉の際には天明4年(1784年)に弘前で人食いがあったと橘南谿が『東遊記』で記している。
戊辰戦争の折には旧幕府側総指揮官の松平正質が敵兵の頬肉をあぶって酒の肴にしたといい、また薩摩藩兵が死体から肝臓を取り胆煮を食したという。
▼薬食としての人肉食
「日本の獣肉食の歴史」も参照 人間の内臓が、民間薬として食されていたという記録がある。
江戸時代、処刑された罪人の死体を日本刀で試し斬りすることを職とした山田浅右衛門は、死体から採取した肝臓を軒先に吊るして乾燥させ、人胆丸という薬に加工して販売したとされる。
当時の人胆丸は正当な薬剤であり、山田家は人胆丸の売却で大名に匹敵する財力を持っていたと言われている[45]。 明治3年(1870年)4月15日付けで、明治政府が「刑余ノ骸ヲ以テ刀剣ヲ試ミ及人胆霊天蓋等密売ヲ厳禁ス」と、人肝・霊天蓋(脳髄)・陰茎の密売を厳禁する弁官布告を行っている。
しかし闇売買は依然続いたらしく、『東京日日新聞』でたびたび事件として立件、報道されている。作家の長谷川時雨は『旧聞日本橋』で明治中期の話として「肺病には死人の水-火葬した人の、骨壺の底にたまった水を飲ませるといいんだが…これは脳みその焼いたのだよ」と、「霊薬」の包みを見せられて真っ青になった体験を記している。
1902年(明治35年)に発生した臀肉事件は、ハンセン病の治療目的で、被害者の臀部の肉を材料としたスープが作られている。
中沢啓治の自伝的漫画『はだしのゲン』には、日本への原子爆弾投下直後から、被災地では「人骨を粉末状にしたものが放射線障害に効く」という迷信が信じられていたという描写がある。
昭和40年代までは、日本各地で、「万病に効く」という伝承を信じて、土葬された遺体を掘り起こして肝臓を摘出し、黒焼きにして高価で販売したり、病人に食べさせ、のちに逮捕されていたことが新聞で報道されている。
このように人間の内臓が薬として利用されていたことについては、未だ明らかにされてはいないが、曲直瀬玄朔は医学書『日用食性』の中で、獣肉を羹、煮物、膾、干し肉として食すれば様々な病気を治すと解説しており、肉食が薬事とみなされていたことを示しているし、また漢方においては、熊の胆は胆石、胆嚢炎、胃潰瘍の鎮痛、鎮静に著効があると言われ、金と同程度の価値がある高価な薬品だった。
江戸中期の古方派医師後藤艮山は、熊胆丸を処方して手広く売り出したと言われる。
また中国からこのような薬学的な考えが伝わったともされる。
▼葬儀としての人肉食
1938年(昭和13年)、伊波普猷は当時那覇他で見られていた葬儀の際に会葬人への豚肉料理を提供する習慣の起源ではないかと、ある民間伝承を参考のために書き記している。
葬儀の場面でお骨を食べる社会文化的儀礼または風習としての「骨噛み」を行ってきた地域も存在する。
長寿を全うした死者や人々に尊敬されていた人物が被食対象となっていることから、死者の生命力や生前の能力にあやかろうとする素朴な感情が根底にあるとみられる。
最愛の配偶者の遺骨をかむことは、強い哀惜の念からと思われ、これらは素朴な感情表出として受け止められている。
俳優の勝新太郎は父の死に際して、その遺骨を「愛情」ゆえに食したと、本人が証言している。いわゆる「闇の社会」では骨噛みの特殊な習俗が継承されているとの推測もある。
戦時中の人肉食
太平洋戦争中の南洋戦線(インパール・ニューギニア・フィリピン・ガダルカナル)において、日本軍では兵站が慢性的に途絶したことで大規模な飢餓が頻繁に起こり、死者の肉を食べるという事態が各地で発生した。
グアム島では敗走中のある陸軍上等兵が逃避行を共にしていた日本人の民間人親子を殺害してその肉を食べるという事件が発生。事件の目撃者がアメリカ軍にこのことを密告したため、上等兵は戦犯として逮捕され、アメリカ軍により処刑された。
1944年12月にニューギニア戦線の第18軍司令部は「友軍兵の屍肉を食すことを罰する」と布告し、これに反して餓死者を食べた4名が銃殺されたという。
また、ミンダナオ島では1946年から1947年にかけて残留日本兵が現地人を捕食したとの証言があり、マニラ公文書館に記録されている。
なお、連合軍兵士に対する人肉食もあったとされるが、多くが飢餓による緊急避難を考慮され、戦犯として裁かれることはなかった。
一方で、処刑したアメリカ軍捕虜の肉を酒宴に供したとされる小笠原事件(父島事件)では、関係者がBC級戦犯として処刑されている。
罪状には人肉食は含まれず、捕虜殺害と死体損壊として審理された。
ただし、当時現場に立ち会っており、この事件が弁護士活動の原点になったという、元日弁連会長の土屋公献は事件について証言し、人肉食の事実は無かったとして事件の内容について語気鋭く否定している。
1944年真冬の知床岬(ペキンノ鼻)では、難破した陸軍徴用船で「ひかりごけ事件」が発生した。食料が殆どない極限状態に置かれた船長が、死亡した船員の遺体を食べて生存した。
武田泰淳の小説『ひかりごけ』や映画化作品で知られる。
1945年には人肉を獣肉として他者にふるまったとの疑念が切っ掛けになったとされるチェルボン島抗日蜂起が発生した。
〔ウィキペディアより引用〕