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CTNRX的事件File. ♯004−F

2023-06-25 21:00:00 | 千思万考

■オウム真理教という怪物

 《運営体制

 教団の運営体制は、インドの宗教団体の東京支部で修行を積み、出家生活の経験もあった元信者によって多くが作られた。
 この元信者は、入信した1986年2月から、麻原の最終解脱宣言に疑念を抱いて1987年4月には脱会するまでの1年2か月程の在籍期間中に、密告・相互監視制度、出家制度、寄進制度など、教団の制度の多くを作った。
 このほか、信者の生活スケジュールの徹底管理制度や、外部の情報遮断、また成就者にはホーリーネームを授け、理系エリートには高額機器を揃えるなどの体制が構築されていった。

 サンガ(合宿・出家制度)

 この元信者のチームは、参加費用120万円のサンガという合宿制度を作り、これは後に全財産を「お布施」として寄進させる出家制度となった。
 このチームは「どこかに何かを残していれば、簡単にそこに逃げるから、すべてを処分して退路を断った方がいい」と全財産の寄進制度を提案した。
 信者に「修行を放棄しない」という誓約書を書かせる案も出された。
 実際に、出家信者には自分の遺産は全て教団に寄贈するという遺言状に署名捺印をさせた。
 また、肉親、友人等など現世における一切のかかわりを断つことも求められ、「親族とは絶縁する。(教団に)損害を与えた場合には一切の責任を取る。すべての財産は教団に寄贈する。葬儀等は麻原が執り行う。事故等で意識不明になったときはその処置、及び慰謝料や損害賠償もすべて麻原に任す。」という誓約書を書かされた。
 オウムでは解脱するには功徳を積むことが奨励され、この功徳は「オウムにとってプラスになる行い」という。功徳のベースは布施で、「マハーヤーナスートラ」(1988)では「第一は何かというと、財施だ。文字通り、お金を布施することです。この布施によって、あなた方は必ず来世でも真理に巡り会うことができるでしょう」、
 「修行の第一ステージはまず布施に始まる」と説かれた。
 1990年の石垣島セミナー後、教団本部は「新たに信徒を増やすのはどうでもいい、とにかく今いる信徒を出家させろ」「出家を拒否する者にはとにかくお布施をいっぱいさせろ」と支部に命じ、麻原も機関紙「マハーヤーナ」7月号の出家特集で、「本当に真理に巡り合い、真理を実践したい人は、社会的な条件はどうでもいいから、とにかく出家をして早く至福の生活をしていただきたい」と呼びかけた。
 1993年以降の信徒用決意では「私がこれまで所有してきたすべての財産は現世的な観念により、あるいは貪りの心によって、汚れた行為により得たものである。その悪行を滅し、偉大な功徳に変えるために、私は極限のお布施をするぞ。」という章句があった。

 ステージ制度(階級)

 修行の達成度、精神性の度合いを示すものとして「ステージ」制度があった。
 まず、教団の信者は在家信徒と出家修行者(サマナ、シッシャ)に分けられる。在家信者は通常の生活を行ないながら、支部道場に赴いて修行したり説法会に参加し、休暇期には集中セミナー等も開かれる。このほか名目上の信徒である「黒信徒」がいた。
 出家修行者のサマナ(シッシャ)には、さらに師、正悟師、正大師の各ステージが存在した。名称や編成は時期によって異なる。
 これらのステージに従って教団内での地位、役職等が定められた。

 尊師 :麻原(教祖)
 正報師:松本聡香(麻原の四女)
 正大師 :石井久子、新実智光
  岡崎一明(大乗のヨーガの成就者)
 大師 :上祐史浩、村井秀夫、
  松本知子(明香里/麻原の妻)、
  松本麗華(麻原の三女)
 正悟師(マハー・ムドラーの成就者)   遠藤誠一(正悟師長)、飯田エリ子、 
  杉本繁郎、早川紀代秀、土谷正実、  
  井上嘉浩、中川智正、豊田亨、
  林泰男、広瀬健一、横山真人、
  林郁夫、青山吉伸、岐部哲也
 師(クンダリニー・ヨーガの成就者)
 サマナ長
 サマナ

  オウムの修行の最終的な目標は、現実世界を越えた真実に到達することで、サマナらはその目標に到達するために、激しい修行を行った。
 現実世界を超えるためには、この世界の価値観を超越し観念を壊す必要がある。社会の価値観に重きを置かない点で、最初からオウムは「狂気」の思想を内包していた。当初はこの狂気の割合が低く社会性も帯びていたものが、バッシングなどや終末思想などにより次第に崩壊をはじめ、社会性が薄れていった。
 信者時代「大師」の肩書きを持っていた元信者によれば、「オウムでは、肝心なことは常に教祖が決めているんです。教祖が知らないなんていうことはありえない」と言っている。
 幹部であろうとも麻原の指示は絶対であり、オウム真理教附属医院の患者の入退院の判断すら麻原の指示を仰がねばできなかったという。
 さらに麻原含めた上司の指示は説明無しに従わなくてはならなかったため、信者はいつの間にか事件に関わっていたということが度々あった。
 公安調査庁は信者の証言を引用して「正悟師以上になると尊師のロボット」「形式上はピラミッド形組織だが基本的には尊師と信徒は1対1の関係」としている。
 信者の「入信の貢献度」は点数化されており、信徒Aが新たに信徒Bを入信させると60点、信徒Bが新たに信徒Cを入信させると(信徒Aに)15点、と一種のネズミ講方式だった。
 点数はバッジ、腕章、スカーフなどで外から分かるようになっており、「入信の貢献度」49000点以上は「菩薩」で、「極限修行」をすればこの「菩薩」は「必ず解脱できる」とされた。

 コーザルライン(密告制度)

 教団施設には「コーザルライン」という密告するための目安箱が置かれ、教団では信者同士が相互監視する密告社会が築かれた。
 信者の間では、「目が不自由な教祖は常に心眼で信者を見ているという潜在意識があった。心の中まで見透かされているという恐怖心が、知らないうちに信者たちを支配していた」と教義等を担当した元古参信者は指摘している。
 実際には、村井秀夫幹部が「お目付役」として信者の会話や生活態度を細かくチェックし、麻原に密かに報告していた。
 1987年夏に青年部のリーダー格だった信者が数人を連れて新団体を設立したことを麻原は「分派活動」とみなし、以降、信者の管理を厳しくし、信者間で電話番号を教えあうことや会話を禁止し、カルマが移るとしてお互いの持ち物に触ることも禁止され、やがて相互に監視しあう密告社会となったとも言われる。

 信徒用決意

 1993年秋以降、麻原は青山吉伸と石川公一を重視した。その青山と石川が作成した「信徒用決意」は5章あり、以下の3章が重要である。

 1) この世は三悪趣のデータに満ちている。従って、普通に生活することはそれだけで三悪趣に落ちる。なぜなら身において殺生し、偸盗をなし、邪淫をなし、口においては妄語・綺語・悪口・両舌をなし、心においては愛着・真理を否定する、邪悪心という三毒をなすからである。

 2) 三悪趣を脱し、解脱と悟りに向かうためには、今までの汚れた観念を捨て、グルへの絶対的な帰依を培うべきである。従って私は帰依するぞ。グルに帰依するぞ。徹底的にグルに帰依するぞ。私がこれまで所有してきたすべての財産は現世的な観念により、あるいは貪りの心によって、汚れた行為により得たものである。その悪行を滅し、偉大な功徳に変えるために、私は極限のお布施をするぞ。

 3) 世の中での善悪は観念であって正しくない。これは無智な人間が作り上げた観念である。よって観念を捨断するぞ。いかなる苦しみがあってもハードなカルマ落としを喜ぶぞ。「救済を成し遂げるためには手段を選ばないぞ」と「周りの縁ある人々を高い世界へポアするぞ」のフレーズがそれぞれ3回繰り返される。

 元幹部によれば、石川はサティアンの放送で信徒用決意を絶叫するように唱えていたと言う。

 《教団の活動

 日本シャンバラ化計画

 麻原は1987年、「日本シャンバラ化計画」を発表した。これによると、ゆくゆくは日本主要都市すべてに総本部を設置しそこから日本全土に布教活動をし、いずれは自給自足のオウムの村「ロータス・ビレッジ」を建設するというものだった。

 財務(布施の料金体系)

 1991年以前は、入会金が3万円、月会費が3000円で、入会時には入会金と半年分の会費、入会後のコース料金を全額前納する。

 ・ヨーガタントラコース:初級クラスは一回三時間(10回)で3万円、中級クラス(10回)は3万5000円、上級クラス(20回)は8万円。

 ・ビデオ、カセットテープによる通信講座:第一部・第二部、各7万円。

 ・深夜セミナー:一回6時間で6000円

 ・集中せセミナー:一泊7-8000円

 これらは単位制で、60単位とると、麻原からシャクティーパットを受けることができる。この時の布施は5万円以上。高弟から受けるシャクティーパットは30単位以上で、布施は3万円以上だった。
 他の瞑想法などのイニシエーションでも5万円以上の布施が必要。
 初期には出家時は120万円以上の布施が要求された。
 のち、全財産の布施が要求された。
 出家すると、まず「布施リストNo.1」を作成し、現金、預金(銀行名、口座番号、預金額、暗証番号を明記)、株、証券、切手、テレホンカード、オレンジカード、商品券など全ての金券、退職金、生命保険解約時の金額など「将来見込まれるお布施」、土地、家屋は評価額を記入し、奨学金の未返済額、クレジット負債などの借金は精算しないと出家できなかった。
 次いで「布施リストNo.2」を作成し、貴金属、電気製品、家具、衣類、台所用品など、価格の高い物品から書き出す。  その後、「たとえ、いかなることが起ころうとも、オウム真理教及び麻原彰晃尊師に、一切責任はない。すべて自己の意思によって修行の道に入り、すべての責任は自己にある」という誓約書、遺産は全て教団に寄贈し、葬儀は麻原によって行うとする遺言状、履歴書、戸籍謄本、住民登録の転出転入届け代理人選任者、国民年金保険料免除申請書、年金手帳、運転免許証のコピー、車検証、印鑑証明書などの提出が要求された。  
 信者の中には、親と共同の名義の土地家屋を売り、親を公団アパートに引っ越しさせた人もおり、出家後に相続した場合も教団に布施しなくてはならず、私物はバックと段ボール箱二つ分の衣類と修行用具のみが許された。
 こうした信者からの布施を原資として、後述する種々の事業を展開していった。 各修行、イニシエーション料金は以下のように設定されていた。 

 シャクティーパット 5万
 ミラクルポンド(1L)10万
 愛のイニシエーション10万
 解脱特別修法プルシャ10万
 小乗ツァンダリ30万
 大乗ツァンダリ50万
 血のイニシエーション:100万円
30名限定で、麻原の神聖血液20ccを飲む。
 法施(杖のイニシエーション)
 麻原の著書を大量に買い取り、流布させる布施。第一段階では15万円分の著書を買い取り、これが7つのステージに分かれており、最高ステージに行くまでに150万円。第二段階では1ステージあたり150万円分買い取り、例えば地のステージでは密教食の「丹」毎月1kgを1年分、水のステージではミラクルポンド(麻原の入った風呂の残り湯)を毎月1L1年分受け取ることができた。
 ほか、教団のチラシを買い取り、ばら撒く布施もあった。

 説法ビデオは1万円、ヒマラヤ・ヨーガ秘伝ビデオは10万円、音楽テープは1本1万〜3万円、甘露水1.5L二本で4千円。

 パーフェクトサルベーション(完全救済)イニシエーション(PSI)
 100万円から1000万円の布施が必要で、PSIイニシエーションだけで20億円が集まったという。

 大師によるヨガ指導:一時間1万円。

 運命鑑定:3万円。

 麻原に直接相談する。
「お伺い書」:2万円。
 この「お伺い書」は阿含宗のものを踏襲している。

 1989年元旦午前0時から48時間かけて行われた「尊師最後の特別イニシエーション」
 麻原のDNAを培養した飲料を飲む「愛のイニシエーション」などが行われ、布施は30万円以上。

 麻原のヒゲを煎じて飲む特別イニシエーション
 布施30万円(1987年10月〜)

 1989年1月6日から10泊11日の富士総本部の集中修行は布施22万円以上。

 日本シャンバラ化計画基金では布施一口1万円以上で、3口以上でチベット仏教解脱曼荼羅、6口以上で麻原の写真、10口以上で麻原と一緒に写真撮影、30口以上で大師が10時間以上つきっきりで指導、超純粋甘露水を一ヶ月当たり1.5Lを六ヶ月分郵送の特典がついた。
 なお、麻原は2000万円のベンツを教祖専用車とし、7000万円のクルーザーも所有していた。

 事業

 オウム真理教は、宗教活動のかたわら、多彩な事業を行っていた。業種は、コンピュータ事業、建設、不動産、出版、印刷、食品販売、飲食業、さらに家庭教師派遣、土木作業員などの人材派遣など多岐におよび、さながら総合商社の観を呈していた。数多くの法人を設立し、ワークと称して信者をほぼ無償で働かせていたため、利益率は高く、人件費がゼロなので、どんな事業でも成功した。
 出家すると、24時間をグルに捧げる生活で、睡眠時間は極端に少なく、起きている間は修行(ワーク)に捧げ、各会社での勤務は修行とされた。
 オウム十戒に「不綺語」があり、「お互いしゃべるな。しゃべると徳が減る」とし、サティアン内部での信者同士の会話は禁止され、黙々と仕事への専念が求められた。
 特に中心となっていたのはパソコンショップ『マハーポーシャ』の売り上げで、94年には月の収入が7-8億となり、1999年には年間70億円以上の売り上げがあり、純利益は20億円に迫る勢いであった(公安調査庁による)。
 出家信者200人がそこで働いていた。「PCの販売利益は尊師の利益になり、客も善業を積むことになる」「研修は修行」とされ、住み込みで一日20時間働く者もいた。
 イニシエーション等を「お金がない」と断ると教団が金を貸すという仕組みで、マハーポーシャ社員のほとんどは教団に借金があった。
 様々な業種に進出し集まった社員を教団に勧誘したり、オウム系企業グループ「太陽寂静同盟」を結成するという構想もあった。

   〔ウィキペディアより引用〕



 

CTNRX的事件File. ♯004−E

2023-06-24 21:00:00 | 千思万考

■オウム真理教という怪物

 《組織

 施設

 東京・全国支部

 ・東京総本部:港区南青山
  (1Fはマハーポーシャ事務所)

 ・世田谷道場(世田谷区赤堤
 ・杉並道場(杉並区下井草)
 ・支部 : 札幌、仙台、水戸、高崎、
  船橋、横浜、藤枝、松本、名古屋、  
  金沢、福井、京都、大阪、堺、
  和歌山、広島、高知、福岡、那覇、 
  ニューヨーク、ボン、スリランカ、  
  モスクワ

 富士山総本部周辺

 ・富士山総本部道場:富士宮市人穴。
  敷地面積は1万8千平方メートル。
  富士山総本部の麻原一家の部屋は、窓から富士山が眺望でき、インドの絨毯が敷かれ、ピアノ、テレビもあり、普通の信者のこどもが食べることのできないお菓子もあった。

 第1サティアン(89年11月当時は4階に麻原一家、金庫室、瞑想室、リビングルーム、会議室、浴室)
 ・第4サティアン(ビデオやアニメを製作) 独房。
  富士山総本部では懲罰用独房と修行用独房があった。

 懲罰用独房はコンテナで、窓はなく、畳は押すと水が滲み出て、茸が生えていたという。監禁された10歳の児童が通気口から外に助けを求めていると、通りかかった人が警察に通報し、これ以降、懲罰用独房はなくなった。
 スパイチェックでの質問を批判した別の信者は、独房に監禁後、薬物を投与されると、新実や中川、遠藤らが見回りに来たが、彼らは実験動物における薬物反応を見るようで、人体実験だったという。
 この信者は隙をみて脱走した。
 修行用独房は、「ポアの間」と呼ばれ、一畳の部屋で壁にビデオとオウムの本、ポータブルトイレがある。入ると5日間は出られず、説法ビデオが最大ボリュームで流され、ボリュームは調整できず、寝ても説法が聞こえた。
 持ち込めるのは毛布と甘露水の瓶だけで、食事は一日一回、顔を洗うことも歯磨きもできず、トイレは一日おきに交換されるので臭くてたまらなかったという。
 岡崎一明元幹部は、遺品にあった手記で「ポアの間」についても触れている。

 上九一色村・その他

 山梨県西八代郡上九一色村(現:南都留郡富士河口湖町)には第一〜第七上九があり、それぞれに施設があった。

 ・第一上九 第2サティアン
 (1階は倉庫、瞑想室、法皇官房事務室、テープ作成室。3階に尊師の部屋、ピアノ、サウナ、リビングルーム、第一・第二瞑想室、浴室)
 ・第3サティアン(物置)
 ・第5サティアン(印刷工場)

 ・第二上九 第6サティアン
 (1階は食品工場、子ども室、家族の部屋、瞑想室、配膳室、修法の部屋、風呂、サウナ。三階は幹部、信者の部屋、修行室、事務所、医務室)

 ・ヴィクトリー棟(詰所、コンテナ)

 ・第三上九 第7サティアン(サリンプラント)
 ・クシティカルバ棟(土谷正実の実験室)

 ・第四上九 第6サティアン(マハーポーシャのパソコン組立工場)
 ・第12サティアン(自動小銃、サリン噴霧車製造)
 
 ・第五上九 第9・第11サティアン(自動小銃)

 ・第六上九 第10サティアン
  出家信者の子弟の生活の場。
  自治省系緊急連絡網の配信センター。
 ・ジーヴァカ棟(CMI棟) - 遠藤誠一の実験室。

 ・第七上九 窓のない倉庫群 富士清流舎(山梨県南巨摩郡富沢町(現:同郡南部町) (自動小銃工場)

 《公称信徒数

 日本国内のみ。
 89年は出家者330,信徒4000人であったが、90年4月の石垣島セミナーで出家者が800人になった。
 1995年3月は出家1,400人、在家14,000人。
 ロシアの信者数は最大3万人から5万人に上った。

 信者の構成

 出家制度は1986年6月に始まった。
 最初期の出家者はオウム真理教以前の「オウム神仙の会」に出家しており、後に脱会した者もいたが、多くは教団幹部となった。「オウム神仙の会」以前のヨーガ教室鳳凰慶林館は女性を対象としており、
 オウム神仙の会も当初は女性ばかりであり、最初の男性として入会したのは大内利裕だった。
 以下、出家順。また、出家番号は管理番号ともいう。

 教団幹部には難関大学の卒業者も多く、教団の武装化を可能にした村井秀夫、土谷正実、遠藤誠一など理系幹部を多く抱えていた。また弁護士資格を持つ青山吉伸、公認会計士資格を持つ柴田俊郎、上田竜也、医師免許を持つ林郁夫や中川智正、芦田りら、佐々木正光、平田雅之、森昭文、小沢智、片平建一郎など社会的評価の高い国家資格を持つ者も多くいた。麻原の勧誘方針は「女は若くて美人、男は理系の高学歴」というものだった。
 他にも山形明、丸山美智麿など自衛隊員、建設会社出身で教団の不動産建設やロシアとの交渉を手がけた早川紀代秀、元暴力団員の中田清秀、松任谷由実のアルバム制作にも関わったことのあるデザイナーの岐部哲也、彰晃マーチなどを作曲したミュージシャンの石井紳一郎、盗聴技術を持っていた林泰男、元日劇ダンシングチームの鹿島とも子など幅広い層の信者を有していた。
 信者平均年齢は若いが、最高齢信者は88歳の女性だった。
 麻原の三女松本麗華は、マスメディアではオウム真理教出家者が高学歴のインテリばかりで構成されていたかのようなイメージで報道されたが、実際は一般社会に居場所を無くした構成員も多かったと語る。例えば、普通に生きていくことに疑問を生じたり、居場所が無かったりした人や、DV被害者、被虐待児、精神疾患、発達障害、パーソナリティ障害などの社会的弱者が少なからずいたという。
 以下に示すのは教団がオウム事件発覚後の1995年6月28日に行った出家修行者対象のアンケートデータである。

    〔ウィキペディアより引用〕



CTNRX的事件File. ♯004−D

2023-06-23 21:00:00 | 千思万考

■オウム真理教という怪物

 布施の強化と連続拉致監禁事件

 1994年、五仏の法則の「徳のためには他人の財産を盗むことは正しい」という教えに基づき、全財産を提供させる布施集めが激化した。
 布施を信者の親から出させる場合もあり、また「ハルマゲドンで銀行は倒産するから返済しなくて良くなる」と説いて銀行に借金させる場合もあった。
 この1994年頃には、全国各支部の担当者が「身ぐるみ剥ぎ取って丸裸にするぞ!」「徹底的にお布施させるぞ!」という決意の詞章を唱え、教団法務部は「国家に税金は払わないぞ!」と決意していた。
 資産家の信者で1億円の布施を出した事例もあった。
 1994年3月の宮崎県資産家拉致事件では、宮崎県小林市の旅館経営者は、オウムに入信した娘の次女と三女らに睡眠薬入りの茶を飲ませられた後、監禁された。
 布施を約束して解放された後、旅館経営者は次女らを告訴した(のち懲役2~3年の実刑判決)。
 その後も教団は1994年12月には鹿島とも子長女拉致監禁事件とピアニスト監禁事件、公証人役場事務長逮捕監禁致死事件などの連続拉致監禁事件を起こした。

 連続リンチ殺人と洗脳の強化

 過激化とともに社会との軋轢が増すにつれ、教団内部に警察などのスパイが潜んでいるとしきりに説かれ、信者同士が互いに監視しあい、密告するよう求められるようになる。
 麻原は信者に対して「教団の秘密を漏らした者は殺す」「家に逃げ帰ったら家族もろとも殺す」「警察に逃げても、警察を破壊してでも探し出して殺す」と脅迫していたという。
 教団内の締め付けも強くなり、男性信者逆さ吊り死亡事件(1993年6月)、薬剤師リンチ殺人事件(1994年1月)が発生した。 1994年7月10日の男性信者リンチ殺人事件では、水運び班の信者Tがイペリットを入れたとされた。
 拷問を受けながら信者Tは「自分は絶対に違います、麻原尊師は(神通力で)わかっているはずだから会わせてください」と懇願したが、スパイチェック(ポリグラフ検査)で陽性と出ていたため聞き入れられず、絞殺され、遺体はマイクロ波焼却装置で焼かれた。
 1994年から教団が密造した違法薬物のLSDや覚醒剤をつかったイニシエーションを在家信者に対して盛んに行われた。
 費用は100万円であったが、工面できない信者には大幅に割引され、5万円で受けた信者もいる。
 「キリスト」と呼ばれたLSD[189]を用いた「キリストのイニシエーション」は出家信者の殆どに当たる約1200人と在家信者約200〜300人が受けた。
 覚醒剤は「ブッダ」と呼んで、LSDと混ぜて「ルドラチャクリンのイニシエーション」として在家信者約1000人が受けた。
 また、林郁夫によって「ナルコ」という儀式が開発された。「ナルコ」は、チオペンタールという麻酔薬を使い、意識が朦朧としたところで麻原に対する忠誠心を聞き出すもので、麻原はしばしば挙動のおかしい信者を見つけると林にナルコの実施を命じた。林郁夫はさらに自白剤に用いられるチオペンタールナトリウムを投与後電気ショックを加える「ニューナルコ」を開発し、字が書けなくなったり記憶がなくなっている信者が見つかっている。
 洗脳は出家信者の子どもにも及び、PSIを装着させたり、LSDを飲ませたり、オウムの教義や陰謀史観に沿った教育をしたりしており、事件後に保護されたオウムの子どもたちが口を揃えて「ヒトラーは正しかった、今も生きている」などと語った。
 麻原本人は言葉巧みに若い女性信者を説得し、左道タントライニシエーションと称して性交を行っており、避妊も行っていなかったため妊娠・出産に至る女性も数多く現れた。

 サリン・VX等による連続テロ(ポア)事件

 1994年5月頃、オウムでも日本や米国のような省庁制、及び日本壊滅後のオウム国家の憲法草案を起草するよう青山吉伸に指示し、憲法草案「基本律」には、主権は「神聖法皇」である麻原に属し、国名は太陽寂静国とされた。
 1997年に年号を「真理」として、真理元年となるとした。
 1994年6月27日、東京都内のうまかろう安かろう亭で省庁制発足式が開かれた。 同日、オウムの土地取得を巡る裁判が行われていた長野県松本市において、裁判の延期と実験を兼ねてサリンによるテロを実行。死者8人、重軽傷者600人を出す惨事となる(松本サリン事件)。
 当初はオウムではなく第一通報者の河野義行が疑われ厳しい追及が行われるなど、後に捜査の杜撰さが指摘され、また報道被害も問題になった。教団は松本サリン事件はフリーメーソンやアメリカの仕業だと主張。
 1994年8月頃には早川が担当した皇居サリン散布計画のために、千代田区平河町に5箇所、中央区銀座に3箇所、港区赤坂に2箇所のテナントやマンションを借りていた。
 井上嘉浩によれば、目的は武力クーデターによる政権奪取で、皇居周辺の国家中枢の破壊を狙っていた。
 らさらに1994年夏に土谷正実が猛毒VXの合成に成功し、これを用いた連続襲撃を実行していった。同年9月に滝本太郎弁護士がVXで襲撃された。9月20日には江川紹子が毒ガスホスゲン攻撃を受けた。12月には脱会者を匿った駐車場経営者がVXで襲撃され、同月12日には信者の勧誘を断っていた大阪の会社員が公安のスパイと断定され、ジョギングを装った新実らから注射器によりVXを注入され、殺害された。1995年1月には被害者の会の永岡弘行がVXで襲撃された。麻原は「100人くらい変死すれば教団を非難する人がいなくなるだろう。1週間に1人ぐらいはノルマにしよう」「ポアしまくるしかない」などと語っていた。
 1995年(平成7年)1月1日、読売新聞が上九一色村のサティアン周辺でサリン残留物が検出されたことを報じた。教団は「上九一色村の肥料会社が教団を毒ガス攻撃していると虚偽の発表をするとともに、隠蔽工作に追われた。
 1月8日、教団ラジオで麻原は村井との対談を放送、1月から4月にかけて前哨戦が始まり、11月に宗教戦争(武力革命)が発生すると予測した。
 後に発見された井上ノートには、自衛隊(現役・退役)信者50人と信者特殊ゲリラ部隊200人が、資金援助している暴力団や過激派グループの協力を得て、完全防護服着用のゲリラ工作隊を結成し、首都を占拠し、新潟からは医師を装ったロシア軍特殊部隊が強襲揚陸艇で上陸、ゲリラ部隊と合流するなどの計画が記録されていた。
 また、この1月8日の放送で教団信者が神戸で地震があると予言。
 1月17日に阪神・淡路大震災が発生すると、教団は予言が的中したと宣伝した。

 震災直後の1月25日に出版された教団の雑誌「ヴァジラヤーナ・サッチャ」では、「人類を代表して正式に宣戦布告する」「人類を大量虐殺し、洗脳支配を計画している闇の世界政府に対して」「目覚めよ、日本人、立ち上がれ、世界人類、国連は我々の災いである。三百人委員会を超えよ!」と称した。
 同誌によれば、ユダヤ教の聖典タルムードでは非ユダヤ人は家畜・汚れた者で、その財産を奪い取って殺してもよく、ユダヤ人でも異教に改宗した者やトーラーを否定する者は殺さねばならない。
 また、太平洋戦争、ベトナム戦争、パナマ侵攻、湾岸戦争は軍需産業に仕組まれ、日本への原爆投下は、ロックフェラー、モルガン財閥[222]、デュポン家の利益のためだったと説いた。
 サイラス・ヴァンスやローマクラブらは戦争や飢餓による30億人の大量虐殺計画を実行している、と陰謀論を説いた。
 2月28日、目黒公証役場事務長だった男性を拉致監禁し、殺害した。
 この事件で教団信者松本剛の指紋が発見され、警視庁は全国教団施設の一斉捜査を決定した。 3月15日には霞ケ関駅で自動式噴霧器が発見された。これを受けて3月19日には機動隊員らが陸上自衛隊朝霞駐屯地で化学戦訓練を受けた。
 しかし教団は警察より早く動き、3月20日に地下鉄サリン事件を決行。13人の死者と6000人以上の負傷者が発生する大惨事となった。ナチスドイツによって開発されたサリンはその後、ソ連や米国で生産されながら実際に使用されなかったが、イラン・イラク戦争でイラクがクルド人を攻撃し、3200人〜5000人が死亡したハラブジャ事件に次ぐ事件となった。

 麻原逮捕から教団の休眠まで

 1995年3月22日には、教団本部施設への一斉捜索が行なわれた。衰弱状態の信者50人以上が見つかった。
 翌3月23日に滋賀県安土町で逮捕された信者の車からは、教団の兵器開発データが入ったMOディスクが発見され、教団の武装化を裏付けた。
 教団弁護士青山吉伸は「令状呈示のメモ及び録音で時間を稼ぎ、私服警察官に対しては警察手帳の呈示を求める」「水際で相手を嫌にさせて、捜索意欲をなくさせる」「排除等の暴行に及んで来たらビデオで記録化する」など警察対応策を出しており、どこの現場でも「捜索令状をじっくり読む」「立会人を多数要求する」という光景が見られた。
 上祐史浩らはテレビで潔白を主張した。村井秀夫の指示で4月から5月にかけて新宿駅青酸ガス事件、都庁爆弾事件を起こした。また、村井は4月23日に南青山総本部前にで刺殺された(村井秀夫刺殺事件)。 3月30日には警察庁長官狙撃事件が発生し、オウムの関与が疑われたが、2010年に公訴時効が到来した。同年4月19日には、教団とは無関係の模倣犯による横浜駅異臭事件が発生したが、異臭原因物質は不明。
 逮捕直前の95年5月中旬頃、麻原は「私の身に何が起きても決して動揺しないように」と尊師通達を出し、一部の弟子には「長くても3年以内に釈放される」と予言した。
 1995年5月16日、毒ガス検知のためのカナリアを入れた鳥かごを持つ捜査員を先頭に、上九一色村の教団施設の再捜索を開始。第6サティアン内の隠し部屋に現金960万円と共に潜んでいた麻原彰晃こと松本智津夫(当時40歳)が逮捕された。
 また、PSI(ヘッドギア)をつけさせられた子供たちを含む信者が確保された。
 教団は村岡達子代表代行と長老部を中心として活動を継続していたが、1995年(平成7年)10月30日東京地裁から宗教法人法上の解散命令を受けた(1996年1月確定)。
 1996年(平成8年)3月28日、東京地裁が破産法に基き教団に破産宣告を下した(同年5月確定)。
 7月には危険団体として破壊活動防止法の適用を求める処分請求が公安調査庁より行われたが、1997年公安審査委員会により棄却された。
 これに先立ち、破防法適用を避けるため、安田好弘弁護士らの助言で、松本被告は教祖をやめ、殺人を肯定する教義だとされたタントラ・ヴァジラヤーナの教えを封印した。

 一方、教団は活動を継続し、「私たちまだオウムやってます」と挑発的な布教活動や、パソコン販売による資金調達などを行った。
 一連のオウム事件については「教団がやった証拠がない」とし、被害者に対する損害賠償にも応じなかった。インターネット上に 公式サイト を開設[240]、教団は被害者であるとする陰謀説を流布したり、ゲームやアニメの二次創作を掲載した。
 しかし、予言されたハルマゲドンもなかったことから、教団は1999年9月に「休眠宣言」をし、12月1日に代表代行 村岡達子が、「当時の教団関係者の一部が事件に関わっていたことは否定できない」と事件を認め、被害者に謝罪した。
 1999年末には無差別大量殺人行為を行った団体の規制に関する法律(オウム新法)が制定された。その後、Aleph、ひかりの輪、山田らの集団など後継教団が複数ある。

 刑事裁判と死刑執行

 逮捕後の取調で麻原は「目の見えない私がそんな事件をやれるでしょうか…」と語り、95年5月27日に取調室を出る際には「武士は言い訳しないものだ」と武士道のようなことを呟いた[247]。麻原は私選弁護人の横山昭二を解任し[248]、11月に東京地方裁判所は渡辺脩、安田好弘ほか12人の国選弁護団を選任した[238]。東京地検は、死者26人を数える一連の17事件の容疑で麻原彰晃こと松本智津夫を起訴した[249]。裁判は検察側立証だけで25年かかるとも予測され[250]、検察は裁判の迅速化を図るため、違法薬物密造の4事件について起訴を取り下げる異例の対応をとった[注釈 14]。同年末、麻原の「どうすれば、私の真実を明らかにできますか」との問いに、安田好弘弁護士は法廷での空中浮揚を提案、麻原は初公判に向けて修行を重ねたが、「エネルギーが看守に体を触られて消えてしまう」として浮揚できなかった[238]。麻原は弁護人との接見でスピッツの歌「空も飛べるはず」を歌うこともあった[251]。 1996年(平成8年)4月24日初公判[249]で、麻原は各事件の罪状認否について「いかなる不自由、不幸、苦しみに対して一切頓着しない、聖無頓着の意識。これ以上のことをここでお話しするつもりはありません」と述べただけだった[252]。麻原は「寝たきり老人になります」「私がやっていることはレジスタンス」と述べたり[79]、拘置所は洞窟に似ていて、絶好の瞑想の機会を得ていると述べた[253]。 10月4日の公判で、広瀬健一は、逮捕後も帰依心は揺るがなかったが、被害者の調書を読んでぐらついたと述べ、「(麻原は)本当は自分の力(無力)に気づいている」「直視して、真実を見極めてもらいたい」と述べた[254]。翌月、広瀬への反対尋問が始まると、「この裁判は異常」「ここは劇場じゃないか。死刑なら死刑でいい!」と麻原は発言し、退廷となった[255]。 岡崎が坂本事件での麻原の殺害(ポア)指示を証言すると、麻原は「完全に嘘だ」「裁判長を出せ」と大声で妨害、退廷となった[255]。早川も端本も坂本弁護士事件での麻原による殺害指示を証言した[255]。

 1996年10月18日第13回公判で、検察側証人としてリムジン謀議を証言した井上嘉浩被告への反対尋問を弁護団が開始すると、麻原は「アーナンダ(井上)は私の弟子であり、偉大な成就者である。このような人に反対尋問すると、尋問する者だけでなく、それを見聞きする者も害を受け、死ぬこともある。この事件についてはすべて私が背負うこととします。」と尋問中止を求めた[256]。安田弁護士は、麻原を説得、反対尋問を続けた[238]。しかし、反対尋問では、麻原の事件への関与がより印象づけられ、麻原は弁護団に不信感を強めた[257]。井上の7回の証言中、麻原は「地獄に落ちるぞ」「何のために村井が死んだか考えろ。お前が喋らなければそれで済んだじゃないか」などと繰り返し井上に聞こえるように囁いた[257]。この夜、拘置所に帰った麻原は「俺の弟子は…」「くそー」と泣き叫びながら、チーズを壁に投げつけたり、早朝まで独り言を言った[255][79]。10月21日早朝、「早く、精神病院に入れてくれ」と叫び、扉を足で蹴るなどしたため、保護房に収容された[255][79]。2日後、独居房に戻ったが、その翌日、「ここから出せ」と刑務官に頭から体当たりし、再び保護房に収容された[258]。11月には職員に「ここから出れるんですか?」と質問を繰り返した[79]。弁護団は接見を21回求めたが、麻原は14回拒否した[258]。接見で麻原は、鼻水や涙を流しながら錯乱していたり、反応も心もとなく、以降は、たまに言葉が通じたが、1997年以降は弁護団は麻原と意思疎通できなくなった[238]。

 1997年4月24日第34回公判で麻原は英語を交えてはぐらかすように意見陳述し、一連の事件では全て殺害を指示したことはなく、弟子たちが暴走してやったと、責任を弟子に転嫁し、無罪を主張した[259][260]。

 ★ 地下鉄サリン事件:弟子たちが起こしたもので、自分はサリン散布を止めたが、弟子に負けた。

 ★ 坂本堤弁護士一家殺害事件 :「非常に小さな罪で、しかも実行者が5人か3人の小事件であり、一人一人を対応するならば三年か四年の刑」で、自分は殺害指示していない。

 ★ 薬剤師リンチ殺人事件:元信者Oが別の信者の母親を性的に誘惑し、財産を乗っ取ろうとし、麻原をナイフで殺そうとしたので、弟子たちが殺した、殺害は指示していない。

 ★ 男性信者殺害事件:殺害を指示していない、新実も嘱託殺人(被害者からの依頼)だから無罪

 同年6月17日の林郁夫公判では、麻原は初めて証人として出廷したが、英語で小さな声で答えたり、宣誓書への指印を拒否した。
 林が「(石井久子が「麻原は間違っていた」と法廷で陳述したことを引いて)あなたの態度は、石井被告の心にも及ばない」と言うと、麻原は「いい加減にしろよ!お前のエネルギーは足から出ているのがわからないのか!」と言い、林は「まだそんなことを言っているんですか!そんな大きな声が出るなら、証言すればいい!」と捲し立てた。
 検察官が証言の意思を聞くと、麻原は「林自体、アメリカだから…」と呟くだけで、退廷となった。
 1998年5月、林郁夫、無期懲役判決(控訴せず確定)。同年10月23日、岡崎一明初の死刑判決(2005年確定)。 1999年9月22日豊田・廣瀬・杉本公判で、麻原は宣誓文を書いて宣誓手続きが終わった。
 「ボツリヌス菌はオウム真理教にはないです」、遠藤が大腸菌を培養していたが、「遠藤がオウム真理教、日本を統治したかったのかもしれませんね。私の奥さんを巻き込んで、88年か89年かな、遠藤と佐伯(岡崎)が肉体関係があって」、地下鉄サリン事件は井上が持ち込み、村井も否定的だったとし、「地下鉄サリン事件の話を聞いたことは、私はないです」。
 このほか、1985年か86年に麻原が行った空中浮遊は第三次世界大戦のきっかけとなっているとし、弁護人に脳波でその映像を送信したと称した。
 自分は徳川慶福、徳川慶喜の直系であり、天皇家直系の藤原で、統一教会の文鮮明と血縁関係にあり、韓国、朝鮮、イラン、ユダヤ各王の関係者が選挙の後押しをしたから、落選するはずがなかったと述べた。 同年9月30日、横山真人死刑判決(2007年確定)

 1999年11月10日豊田亨・杉本繁郎公判で、麻原は、前に大腸菌と言ったのは間違いで、ブドウ状球菌だとし、「私は宇宙全体を動かす生命になってますが、動かす脳が破壊されているから、動かせなくなっています」と言い、英語や小声で話した。
 杉本繁郎が直接尋問で「もういい加減目を覚まして、現実を見つめたらどうですか」と言うと、麻原は「もうちょっと、黙ってた方がいいと思うけど。石井とか知子とかに黙って、LSDを最初に使ったこと、わかってんだよ!」と答え、杉本は「結局何も答えられないんですか。最終解脱者の能力はどうしたんですか。(略)私はあなたを信じて、大馬鹿者だったと思っている。そういう気持ち、わかりますか!」と泣きながら発言した。
 その後、豊田亨が「何も言わないつもりでしたが、今日のあなたの態度を見て考えが変わりました。(略)質問にも答えないで。あなたの裁判を見ていると、流れるがまま、長引くまま、逃避しているとしか思えない」「地下鉄サリン事件は村井と井上が起こしたと言った。
 つまり止める力もないわけです」と述べると、麻原は沈黙した。
2000年6月6日、井上嘉浩に無期懲役判決(2004年控訴審で死刑判決、2010年死刑確定)。同年6月29日、林泰男に死刑判決(2008年確定)。同年7月17日、豊田亨と広瀬健一に死刑、杉本繁郎に無期懲役判決(いずれも2009年確定)。同年7月25日、端本悟に死刑判決(2007年確定)、同年7月28日、早川紀代秀に死刑判決(2009年確定)。2002年7月29日、新実智光死刑判決(2010年確定)。同年10月11日、遠藤誠一死刑判決(2011年確定)。

 同年2月27日、麻原彰晃に死刑判決。国選弁護団は即日控訴し、辞任した。
 この日、麻原は拘置所で「なぜなんだ、ちくしょう」と叫んだり、夜間に布団の中で「うん、うん」とうなったり、笑うなどした。
 新たに私選弁護人松井武と松下明夫の2人がついたが、麻原は長く面会拒否し、7月の初面会でも意思疎通ができなかった。
 10月、弁護人は、精神鑑定申立および1回目の公判停止の申立を行うが、 高裁は斥ける。
 2005年1月、控訴趣意書の提出期限が8月31日まで延長することが認められる。 
 7月、弁護人は医師の意見書を添付して2回目の公判停止の申立を行うが、高裁は斥ける。
 しかし、高裁は、弁護側が提出した医師の意見書を配慮し、精神鑑定の実施を伝えた。
 ところが、弁護側は、提出期限の2005年8月31日、控訴趣意書を持参したが、精神鑑定に関する申し入れが拒否されたとして提出しなかった。
 9月2日、高裁は控訴趣意書の即時提出を弁護団に要請した。
 9月、高裁は、精神科医西山詮医師に鑑定を依頼する。
 12月、高裁の裁判官が、麻原と面会する。
 他方、2006年(平成18年)1月-2月、弁護団は独自に鑑定を実施、野田正彰などの精神科医は麻原の訴訟能力を疑問視した。

 2006年2月20日に高裁に提出された西山鑑定書によれば、麻原の奇行については「自分の公判では不規則発言を繰り返すが、元弟子の公判での証言は多弁。立場によって使い分けて」おり、精神病の兆候ではなく、1997年7月以降は独房での独り言以外には言葉を発しなくなったが、2004年2月の死刑判決の後に錯乱したり、10月には野球の投球フォームをして「甲子園の優勝投手だ」と話したり、食事は介助を受けていないことから、「意思発動に偏りがあるのは不自然で、沈黙は裁判からの逃避願望で説明できる。黙秘で戦うのが96年以降の被告の決心」で、訴訟能力はあると結論づけた。
 高裁はこの鑑定書への意見書の提出を2006年3月15日までとした。
 弁護側は反論書を3月15日に提出、3月21日には高裁に3月28日に控訴趣意書を提出すると伝える。
 しかし高裁は、前日の3月27日に控訴棄却を決定。
 弁護人は、翌日に控訴趣意書を提出し、3月30日には控訴棄却に対する異議申立を行うが、高裁は棄却した。
 弁護側は、麻原の訴訟能力が無く、控訴趣意書の提出遅れは「やむを得ない事情」があったとして最高裁へ特別抗告を行ったが、2006年9月15日、最高裁は、西山鑑定書の信用性は十分で、原審の判断は正当で、弁護団は控訴趣意書を作成したと明言しながらも再三にわたる提出勧告に反し提出せず、弁護人と申立人(麻原)との意思疎通不能は遅延の正当な理由とはならない、と棄却した。
 これにより、控訴審が実施されないことが確定した。

 法学者白取祐司は、2006年3月28日に提出された控訴趣意書は準備不足で、被告人との意思疎通が困難でも、控訴審を開かせるべきだったと批判した。滝本太郎弁護士は、2005年8月に控訴趣意書を提出していれば2審は始まっていた、これはチキンゲームだったと述べる。
 二審弁護人らは、日弁連から「控訴趣意書を長期間提出せず、死刑という重大判決を確定させ、被告の裁判を受ける権利を失わせた」と懲戒(戒告)処分を受けた。
 弁護団は2010年と2013年に二度の再審請求を行ったが、最高裁が特別抗告を退け、再審を認めないことが確定した。
 2011年2月、麻原への帰依を続けていた土谷正実は、裁判で「国家権力の陰謀」が判明すると期待していたが、逆に麻原の嘘が暴露され、しかも麻原が証言しなかったことから「弟子を放置して逃げた」との思いが強まり、さらに、麻原は土谷の証言を理解し、裁判長の反応も気にしており、精神疾患の兆しはなく、「詐病に逃げた」と思うようになって、帰依心が崩れたとし、麻原には事件について正直に述べてほしい、と語った。
 オウム裁判は、地裁では7年10カ月をかけて257回の公判を行い、証人は522人召喚され、1258時間の尋問時間のうち1052時間を弁護側が占め、検察側証人に対しては詳細な反対尋問が行われ、さらに麻原には特別に12人の国選弁護人がつけられ、その費用は4億5200万円だった。
 2018年1月に一連のオウム裁判が終結した事に伴い、同年3月14日に確定死刑囚13人のうち一部の死刑囚がこれまで拘置されていた東京拘置所から、日本各地の死刑執行施設のある拘置所(札幌拘置支所を除く)へ分散する形で収容された。法務省側は「適切に処遇し、共犯分離を図るのが目的」と説明している[285]が、一連のオウム裁判が終了し証人として出廷することもなくなり、死刑囚の心理面への配慮と、東京拘置所側の負担軽減を図るためとみられた。
 これによりオウム事件確定死刑囚の死刑執行時期に対する関心が強くなった。

 2018年7月3日、上川陽子法務大臣はオウム裁判確定死刑囚のうち、麻原彰晃こと松本智津夫・早川紀代秀・井上嘉浩・新実智光・土谷正実・中川智正・遠藤誠一の死刑執行命令書に署名、同月6日に東京拘置所で松本・土谷・遠藤、大阪拘置所で井上・新実、広島拘置所で中川、福岡拘置所で早川に対しそれぞれ死刑が執行された。続く同月24日、上川法務大臣は残る確定死刑囚の宮前一明(旧姓:岡﨑)、横山真人、小池泰男(旧姓:林)、豊田亨、広瀬健一、端本悟の死刑執行命令書に署名、同月26日に東京拘置所で豊田・広瀬・端本、宮城刑務所で小池、名古屋拘置所で宮前・横山に対しそれぞれ死刑が執行された。これによりオウム裁判に関する確定死刑囚の処断が終了した。
 麻原らの死刑執行直後の週刊新潮2018年7月19日号では、これまで知られていなかった女性信者殺害事件が報じられたが、立件されないまま、時効となったと言ってこのように、明るみにならぬ事件などと言った未解決事件も未だ残っており、教団関係での行方不明者は50人を超える。
 前述通りその13人らがその2018年7月にようやく死刑執行されたことによりオウム事件は、刑事上では収束した。

    〔ウィキペディアより引用〕



 

教会の鐘&お寺の鐘 第3章

2023-06-22 21:00:00 | 編集後記/追記

 カルト教団

 歴史

 発祥

 カトリック教会などによる聖人崇敬(cult of saints)、キリスト教の聖人崇敬を行う教派では崇敬 (Cult) と礼拝・崇拝 (Adoration) は区別される、
 19世紀末にメラネシア各地で起こったカーゴカルト(cargo cult)といった用例もあるが、否定的・批判的なニュアンスは存在しない。

 20世紀初頭

 マックス・ヴェーバー(ドイツ社会学者)、エルンスト・トレルチ(ドイツのプロテスタント神学者)は、「The Social Teaching of the Christian Churches」 (ドイツ語版1912年、英語翻訳版1931年)において、「チャーチ=セクト類型」(church-sect typology)を提示し、カルト(ドイツ語でセクト:sekte)を次のように提唱した。
 「カルト」とは宗教団体の初期形態を指すとし、この段階では周辺からの迫害に遭うが市民権を得るにしたがってその迫害は減り、次第に正式な社会集団として認められるようになる。
 よって、まだ市民権を得ていない宗教団体を指す語であるとした。
 アメリカ合衆国においては、1920年頃より、アメリカ発祥のクリスチャン・サイエンスといった主要な宗教伝統に属さない、いわゆる新宗教を指して宗教社会学として、秘教的な教え、カリスマ的指導者への熱烈な崇拝、緩やかな信徒集団をもつ教団を示す概念として「カルト」が用いられるようになった。
 1930年代には、保守的なキリスト教聖職者が異端と見なしたキリスト教系団体を指して使用を始める。

 20世紀中頃

 1960年代にはヒッピーらが傾倒した、東洋系等のキリスト教以外の宗教を指し、用いられるようになる。
 1970年代の宗教学者らは、意図的に宗教集団の類型として使用した。
 ハワード・ベッカー(英語版)(アメリカ社会学者)は、1950年に「チャーチ=セクト類型」を見直し、非キリスト教的なスタイルを持つ新宗教を新たな類型としてセクトに含め、これを「カルト」と主張した。
 また、心霊術、占星術などの信者集団であり、小規模かつ緩やかな組織構成という特徴を持つとした。
 ジョン・ミルトン・インガー(英語版)(アメリカ社会学者)とハワード・P・ベッカー(英語版)(アメリカ社会学者)は、「カルト」とは「個人主義的忘我経験や精神的身体的な癒しを求める人々による緩やかな結合であり、既存の宗教伝統から逸脱する教えをもち、それゆえに周辺社会から不審視される」とした。
 ロドニー・スターク(英語版)(アメリカ宗教社会学者)とウイリアム・シムズ・ベインブリッジ(英語版) は、「セクト」を「信仰の再確立を目指して母教会から分離した集団」とし、「カルト」を「既存の伝統から逸脱する新しい教えのもとに形成される集団」とした。
 また、カルトの組織化達成度によって以下の3つの下位類型を設定した。

 1)「聴衆カルト」(「オーディエンスカルト」) 新しい神秘的なものについての情報をメディアを通して知り、関心を寄せる人々をメンバーとするもの。

 2)「来談者カルト」(「クライエントカルト」) 集団のカリスマ的中心人物を人々が訪ね、来談者(クライエント)となり、セミナーやセラピーに参加する。 「聴衆カルト」(「オーディエンスカルト」)よりは主催者と来談者との関係は密になっている。

 3)「カルト運動」 「聴衆カルト」や「来談者カルト」ではエンターテインメントや病気快癒といった一過的で実利的な効果が求められているにすぎないが、「魂の救い」といったようなすぐに確認できない事柄を持続的に保証するための組織化が必然となる。この保証を供給する人間組織こそが「宗教」であるとした。

 デイヴィッド・モバーグ(英語版)(アメリカ宗教社会学者)は、1971年に「教団のライフサイクル論」において、カルトもしくはセクトに該当する新団体の発祥から解体までの製品ライフサイクルは以下の5段階を経ると提唱した。

 1.萌芽的組織 - 社会不安を背景とし、カリスマ性のあるリーダーが登場し、集団(カルト、セクト)が出現する。
 2.公式的組織 - 集団の目標が成文化され、部外者との差異が強調される。

 3.最大能率段階 - 合理的組織が集団を導くようになる。この頃になると集団への部外者からの軽蔑も減り、逆に集団から部外者への敵意も消える。
 4.制度的段階 - 組織運営が官僚的になり、自分たちの特権の保持を目的とするようになる。礼拝なども形式的になり、集団の会員となる資格の基準も緩む。

 5.解体段階 - 組織に腐敗が蔓延し、組織運営の官僚的機構が会員のニーズに対応できないので、退会者が増える。
 一部のリーダーや会員が信仰復興の改革運動(再生運動)を起こして成功した場合は、新しいサイクルが始まるが、そうでなければ集団は解体に向かう。

 1970年代以降

 編集 1978年、米国からガイアナに移動した人民寺院信者の900人に及ぶ集団自殺は、米国で社会問題化し、マスメディアが、社会的に危険とみなされる宗教団体を指して報道で用いるようになる。これを機に 1979年、連邦議会や州による公聴会が開催された。
 同年には、国際カルト研究会(ICSA、旧:AFF)が設立された。
 宗教学の文脈では、1970年代後半 - 1980年代にかけて、アメリカを中心に議論が尽くされた結果、「宗教社会学的な教団類型というよりも、信者の奪回・脱会を支援する弁護士,
 ケースワーカー,元信者,信者の親族からなるアンチ・カルト集団によってターゲットとされた集団への総称的蔑称であり、特定集団に「レッテル貼り」として用いられる傾向があるという結論が得られている。
 宗教学者が、この語を、宗教社会学等の学問を根拠とする教団の分類としては用いることはない。

 指摘・論争

 現在、この言葉は宗教問題を指すとは限らず、宗教学者や神学者以外にも、臨床心理学、社会心理学、社会学等の観点により、反社会的な集団への入信から教化過程における多様な理論的な定義付けの試みがされ、「カルト論争」と呼ばれる。カルト論争は、各学問の前提条件やモデルが異なるという事情もあり、現在でも結論は得られていない。

 《宗教学者》

 カルト論研究を行う宗教学者の櫻井義秀は、マスメディアが消費するカルト論には否定的である。
 反カルト集団により「カルトによりマインドコントロールされた」と言う主張もコマーシャルと同様の手法であり、カルトと同様に反カルト集団が裁判の戦略として利用しているドグマであると主張している。
 また、言葉自体が統一教会信者の奪回・脱会を目的とした弁護士らからなる反カルト集団により、総称的蔑称として、ないしはレッテル貼りを意図して日本に紹介された概念である、
 特定団体を『カルト』であると言うことは、その団体が宗教的多様性を構成する一つの団体というよりも、一般市民に重大な危害を加える団体であるから、何らかの対処が必要だと主張することに等しいとする。
 反カルト集団により、裁判戦術の「対抗的ドグマ」として使用された際、まるで、あたかも最新の心理学ないしは宗教学の研究結果であるかのように、マスコミに紹介されたとしている。

 キリスト教学者の芦名定道は『一般的に日本人は、「特定の既成宗教を主体的に信仰している」とも言えず、むしろ何らかの宗教儀式(例えば、冠婚葬祭など)に参加しても「自分は、無宗教である!」と思っている人が多い。そのため直接的な体験よりも、主に『マスコミを介した間接的な情報によって構成された印象(刷り込み現象による影響)』で判断をする傾向にあると自著で述べている。
 マスコミの提供する情報は、それが「視聴率を獲得するため」という特性から、当然に該当する宗教団体側から見て「報道内容は、不適切だ!」と思われる事も多く、日本の宗教像全般に多大なマイナス・イメージを生じさせている。
 日本では『カルト』の用法が、『マスコミのセンセーショナルなイメージ』と共に広まったが、メディアは事件報道が主体であり、良いニュースはあまり流さないため、反社会的な団体ではない新宗教へのマイナスイメージが形成されたという指摘もある。

 宗教学者の浅見定雄(旧約聖書学者、東北学院大学名誉教授)によれば「「カルト」は厳密な学術用語としては放棄されています」「カルト問題は、宗教的問題と異なる社会問題だ」としている。

 宗教学者の島薗進は、米本和広が「カルトとは、ある人物あるいは組織の教えに絶対的な価値を置き、現代社会が共有する価値観 - 財産・教育・結婚・知る権利などの基本的な人権や家族の信頼関係といった道徳観 - を否定する宗教」と定義を示したことに対し、不適切であると批判しており、罪のない集団を「カルト」と名指すことにつながる危険性を指摘している。(ただし、以降、米本は、考えを変え、反カルト陣営の活動も問題視するようになる)

 2009年 - 2010年に、公安調査庁が、旧・オウム真理教以外で、社会通念からかけ離れた特異な活動をしている宗教団体を「特異集団」と位置づけて、情報収集を行っていた。

 《宗教団体》

 統一教会

 統一教会は、信者が脱退目的で拉致・監禁されることが相次いでいるとして、人権侵害であると抗議している。
 反カルト側の問題として、「親族による拉致監禁」により強制的な脱会カウンセリング受講、
 拉致監禁を契機として統一教会を脱会する「強制説得」を行う際に人権侵害が発生したという告発)、ディプログラミングの弊害(統一教会脱会時にPTSDを発症)、信教の自由への迫害(統一教会への信仰を理由とする侮辱、パワハラ、アカハラ)で訴訟となり、信徒側が勝訴した事例も複数存在している。

 神社本庁・日本会議

 2016年、LITERAは、週刊金曜日の同年5月27日号に掲載された反神社本庁・反日本会議派神職のインタビュー記事や安丸良夫の著書『神々の明治維新』を引用する形で以下のように主張した。

 ・(日本会議の"皇室と国民の「強い絆」が「伝統」だ"との主張に)江戸時代にはごく一部の知識階級を除き、「京都に天皇様がおられる」ということを庶民が知っていたか、はなはだ疑問だ。本来神社とは地域の平和と繁栄を祈るためのものであり、明治になって、日本という統一国家ができたので、その象徴として「天皇」を据えた。

 ・神社本庁が「本宗」として仰ぎたてた伊勢神宮は、明治になるまで一度も天皇が参拝したことはなく、とくに江戸時代に庶民のあいだでブームとなった伊勢参りは、皇室への信仰心によるものではなく、豊作を願ってのもので人気の“観光スポット”という意味合いが強かった。
 しかし、明治維新という軍事クーデターによって樹立した明治政府は、それまで民間の信仰であった神社神道を、天照大神を内宮に祀る伊勢神宮を頂点とする「国家神道」に組み替えた。
 この神話的ヒエラルキーのもと国民を「天皇の赤子」として支配しようとした。その結果が、「世界無比の神国日本」による侵略戦争の肯定・積極的推進であった。
 伊勢神宮と皇居の神殿を頂点とするあらたな祭祀体系は、一見すれば祭政一致という古代的風貌をもっているが、そにじつ、あらたに樹立されるべき近代的国家体制の担い手を求めて、国民の内面性を国家がからめとり、国家が設定する規範と秩序にむけて人々の内発性を調達しようとする壮大な企図の一部だった。
 そして、それは、復古という幻想を伴っていたとはいえ、民衆の精神生活の実態からみれば、なんらの復古でも伝統的なものでもなく、民衆の精神生活への尊大な無理解のうえに強行された、あらたな宗教体系の強制であったのだ。

 ひかりの輪

 オウム真理教後継組織アレフから分派したひかりの輪は、アレフは麻原崇拝のカルトであるが、ひかりの輪はそれとは異なると主張し、両団体を区別するよう主張している。

 エホバの証人

 エホバの証人は、「人間の指導者をあがめ,偶像視することが,今日のカルト教団の大きな特徴をなしています」と定義し、「エホバの証人の間にそれが見られないのは,このように聖書の教えに固く付き従っているからにほかなりません。
 エホバの証人は僧職者と平信徒を区別する考えを退けます。」としている

 創価学会

 フランス国民議会で、1995年に採択されたアラン・ジュスト報告書のリストに、統一協会やエホバの証人と共に、創価学会がカルト(セクト)として名前が掲載された。
 同議会で同リストを撤回する決議は現在もされておらず、同リストは現在も有効なままである。
 この「カルト宗教のトラブル対策」は、2000年5月に出版されたものだが、その後、2008年2月25日付のフランスの内務大臣通達では、1995年のセクト団体リストは使用しないとされている。
 2005年5月、当時のフランスの首相(ジャン・ピエール・ラファラン)が各閣僚と知事あてに発信した「セクトの逸脱対策に関する 2005年5月27日付通達」では「これまで行政当局の対策は、“この団体がセクトだ”というリストのみに基づいていたために、取締りと自由尊重のバランスを効果的に取ることができず、また法的根拠のしっかりとした対策もとれなかった。
 そこで、特定の団体をブラックリストに載せて危険視するのではなく、刑事犯および一般的な違法行為に相当するものを特定して処罰するために、信者の個人の自由を侵害する危険性をもつと思われる団体を監視することが決定された。」と掲載されている。
 先の2008年2月25日付のフランスの内務大臣通達には「この首相通達は、1995年のセクト団体リストは使用せず、事実に基づいた理論によって調査範囲を広げ、調査対象を既知の団体に限定しないよう、明確に強調している。」「頻繁に使用されている『セクト』という概念は、法的概念ではなく、事実に基づいた概念である。ゆえに、ここで重要なのは『公共秩序』なのである。」と言及されている。

 「Le Monde des Religions」2011年9月号の中でMIVILUDESのジョルジュ・フネック会長(当時)は、フランス創価学会運動体について、「MIVILUDESは、創価学会に関するセクト的行為の報告を五年以上前から受けていない。
 創価学会は、宗教活動と事業活動を分離しており、少なくともフランスにおいては問題組織ではない。」と述べている。  
 創価学会自身は、現在、創価学会はセクトとして取り扱われていないと主張をしているが、それに対し、FORUM21 通巻321号は以下の通り反論をしている。
 まず83年に行われた「ヴィヴィアン報告」について、創価学会の機関紙・創価新報(22年9月号)が報じたデルソル弁護士のインタビュー記事の「一人の脱会者による狂言を検証することなく鵜呑みにし、引用したものであり、のちにそれを無批判に取り上げたメディアも裁判で断罪された」とする指摘に対する反論である。 FORUM21 通巻321号によると、「83年の「ヴィヴィアン報告」のための調査時、創価学会(当時は破門前なので日蓮正宗フランスと呼称)については、一人の脱会者の話だけに依拠してしまった。
 内容は正しかったのだが、証言者がいい加減で後になって創価学会と和解して翻した」という。そのため「こんな大失態があったので、二度目の調査では創価学会については特に慎重を期した。」としており「その結果に基づいてフランス国会は創価学会を「セクト」とした。」と主張している。
 次に内務大臣が96年2月29日に 「セクト的運動の枠内で人と財産に対してなされた侵害」に対策を求める通達を出したことを紹介し、そこに「95年国会報告のセクトリストが添付されており、その中に創価学会がある。」ことを指摘している。
 さらに「MIVILUDESの03年報告書では、国会報告にリストアップされていないことを「正常の証」とすることを問題視する記述があったが、「リストから外せ」という動きについてもこんな記述をしている。
 《いずれにしろ、この国会の代表が作成したリストは、国会の代表によってしか修正できない。
 かくして、MIVILUDESは、「リストから外す」ことを求める運動に対してつねに三権分立という憲法の原則を喚起している》」と記している。

 加えて、FORUM21の発行人の名誉毀損裁判で創価学会側が証拠として提出した08年5月21日付のMIVILUDESルレ本部長(当時)の書簡に「《1995年のリストにつきましては、首相令に則り、国家関係機関はそれを援用することはまったくありませんが、三権分立の原則により、それを改正もしくは解消することは、同機関の権限ではありません》(創価学会側訳) 」(同機関とはMIVILUDESのこと )と記されていることを明示。
 「リストに拘泥・束縛されずに「危険性の基準」に基づいて対策を取るのだから「援用」はしない。
 そして「リストから外す」ことも、三権分立の上から行わないということ 」と訴えている。 さらに2022年8月25日付の「聖教新聞」に「08年と11年にも同国の政府機関は『創価学会には逸脱行為は認められない』と発表しているのです」とあるが「MIVILUDESはじめ、政府が公式に発表したことはない」と主張している。
 最後に、「セクトと子供」調査時のMIVILUDESルレ本部長の「セクト的組織は多くの分野にいます。 最近私達は創価学会の雑誌の中で小学校の教員が『師』からうけた教えを子供たちとのコミュニケーションの中で実践していると自画自賛するのを読みました。
 唖然としてしまいました」(報告書付録証言集)という証言を引用し、「唖然としたのは公務員の宗教的中立に反することだからである。あきらかに共和国の基本原則の侵害の違反であり、子供の囲い込みに通じる。
 この証言は、創価学会が常に警戒の対象となっているという何よりの証拠である」と批判している。さらに「2020年、MIVILUDESに創価学会について10件の通報があった。」としている。

     〔ウィキペディアより引用〕



教会の鐘&お寺の鐘 第2章

2023-06-21 21:00:00 | 編集後記/追記

 ■ カルト教団

 カルト(英: cult)

 「崇拝」「礼拝」を意味するラテン語 cultusから派生した言葉である。
 フランス語(仏: culte)
 宗教の宗旨別を意味し、学術用語としてはカリスマ的指導者を中心とする小規模で熱狂的な会員の集まりを指す。
 現在では、犯罪行為を犯すような反社会的な宗教団体を指して使用される。

 《概要

 米国で伝統的に異端的なキリスト教や新宗教に対して使われた言葉である。
 特に1978年に発生した人民寺院事件以降、反社会的な宗教団体に対して「カルト」という言葉がマスメディアで使われ、警戒が呼び掛けられた。
 日本では1990年頃にこの概念が導入されたが、メディアはこの用語に関して慎重な使い方をしている。
 精神科医のロバート・J・リフトンは、カルトの特徴として、崇拝の対象となるカリスマ的リーダーの存在、強制的説得と思考改革、リーダーによる一般会員の経済的・性的・心理的搾取の3つを挙げているほか、
 科学史家のマイケル・シャーマーは宗教団体に限定されない以下のカルトの定義を紹介した。

 ・集団の指導者に対する崇拝
 聖人あるいは神格に向けられるものとさして変わらない賛美。

 ・指導者の無謀性
 絶対に間違いを犯さないという確信。

 ・指導者の知識の広さ
 哲学的な事柄から日常の些細なことまで指導者の信条や口にすることはなんでも無条件に受けいれる。

 ・説得のテクニック
 新たな信徒を獲得し、現状の信仰心を補強するために、寛大なものから威圧的なものまで手段はさまざま。

 ・秘密の計画
 集団は絶対的な真理と道徳観を持ち、信仰の真の目的と計画が曖昧であり、新規入信者や一般大衆には明確に提示されていない。

 ・欺瞞
 入信者や信徒は、指導者や集団の中枢部に関してすべてを知らされるわけではなく、また大きな混乱を招くような不備や厄介事に発展しそうな事件、あるいは状況は隠蔽されている。

 ・金銭及び性的な利用
 金銭およびそのほかの資産を差し出すよう説得される。
 指導者には一人かそれ以上の信徒との性的関係が許されている。

 ・絶対的な真理
 さまざまなテーマにおいて、指導者、あるいは集団が見出した究極の知識に対する自信。

 ・絶対的な道徳観
 指導者、あるいは集団が確立した、組織の内外を問わず等しく当てはまる、思考および行動に関する善悪の基準への盲信。
 その道徳の基準にきちんとしたがえば、組織の一員としていられるが、そうでない者は破門されるか罰せられる。

 日本でカルトとみなされている宗教団体の数は多くない。
 1995年の地下鉄サリン事件や反対派へのVXガス襲撃事件等の凶悪犯罪を繰り返したオウム真理教は破壊的カルトとみなされている。
 旧統一教会(現・世界平和統一家庭連合)も祟りや因縁を騙り、壺や印鑑、多宝塔を詐欺的手法(霊感商法)で販売した信者が有罪判決を受けたり、教団の使用者責任・監督責任が裁判所で認定されたこと、性差別的な教義などからカルトとみなされている。
 その他にも、成田ミイラ化遺体事件を引き起こしたライフスペース、違法行為こそ行っていないがその特異な行動が注目されたパナウェーブ研究所、信者に対する性暴力が問題視された摂理(キリスト教福音宣教会)もカルトとみなされるほか、浄土真宗セクトの親鸞会や日蓮正宗派生の顕正会、自己啓発セミナーなども布教・教化方法に問題があるとされ、カルト視されることも少なくない。
 日本においては戦後、国家機関による特定集団をカルトと名指しする例は一切存在しなかったが、2022年12月9日の参院消費者問題特別委員会において、岸田内閣の河野太郎消費者担当相が「(旧統一教会は)カルトに該当する」と発言し、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)が、反社会的な集団である「カルト」に当たるとの認識が示した。
 政府は「社会的に問題がある団体」(岸田文雄首相)との説明にとどめている。

 また、カルトが行う勧誘やメンバーの支配の手法としてマインド・コントロールが合わせて論じられる。
 例えば、三菱総合研究所と大学生協はカルトによるマインド・コントロールを大学生活で注意すべき危険とし、大学生に向けて注意喚起を行っている。

 《カルトの分類

 ▼破壊的カルト



ジム・ジョーンズは人民寺院の指導者として知られる。

 破壊的カルトとは、一般にそのメンバーが故意にグループの他のメンバーや外部の人間を傷つけたり殺したりしたグループのことを指す。宗教的寛容を啓蒙するオンタリオ州の団体は、この用語の使用を「メンバーまたは一般大衆の間に生命の損失を引き起こした、
 または引き起こす可能性がある」宗教団体に特に限定している。
 反カルト団体である国際カルト研究協会の事務局長である心理学者のマイケル・ランゴンは破壊的カルトを「メンバーや勧誘を利用し、時には身体的・心理的に損害を与える高度に操作的な団体」として定義している。
 精神科医のジョン・ゴードン・クラークは、全体主義的な統治システムと金儲けの強調が破壊的なカルトの特徴であると主張している。
 『カルトと家族』で著者は破壊的カルトを精神病質症候群として定義するシャピロを引用し、その特徴は以下のようなものであると主張する。「行動や人格の変化、個人的アイデンティティの喪失、学業活動の停止、家族からの疎外、社会への無関心、カルト指導者による顕著な精神支配と奴隷化」である。
 ラトガース大学の社会学者ベンジャミン・ザブロッキの意見では、破壊的カルトはメンバーに対する虐待が生じるリスクが高く、それはメンバーがカリスマ的リーダーを崇拝し、リーダーが権力によって堕落することに一因があると述べている。
 バレットによれば、破壊的カルトに対してなされる最も多い告発は性的虐待であるという。神学者のクラネンボーグによれば、メンバーに標準治療を利用しないように指導するグループは危険である。
 これは身体的・心理的被害に及ぶこともある。

 一部の研究者は、破壊的カルトという用語の使い方を批判し、それは必ずしも自分自身や他者にとって本質的に有害ではないグループを表現するために使われていると主張している。
 ジョン・A・サリバは彼の著書の中で、この用語は過度に一般化されていると主張し、人民寺院を「破壊的カルトのパラダイム」として見ており、この用語は集団自殺を暗示していると考えている。

 ▼ドゥームズデー・カルト

 ドゥームズデー・カルトは終末論や千年王国を信じる集団を表すのに使われる表現であり、災害を予測する集団とそれを起こそうとする集団の両方を指すのに使われることがある。
 1950年代、アメリカの社会心理学者レオン・フェスティンガーと彼の同僚は、シーカーズと呼ばれる小さなUFO宗教のメンバーを数ヶ月間観察し、カリスマ的指導者からの予言が失敗する前と後のメンバーの会話を記録し、その研究を後に出版した。
 1980年代後半、ドゥームズデー・カルトはニュース報道の主要なトピックであり、一部の記者やコメンテーターは彼らを社会に対する深刻な脅威と捉えていた。
 フェスティンガーとリーケン、シャッターによる1997年の心理学研究は、人々が主流の運動で繰り返し意味を見出せなかった後に、激変的な世界観に転向することを発見した。
 人々はまた、多くの人が予言的に時代の終わり、つまり世界の終わりを示すと予測された世紀の変わり目のような世界的な出来事に意味を見出そうと努力する。
 古代マヤ暦は2012年で終わるが、人々の多くがこの年に地球を揺るがす壊滅的な災害が起こるだろうと予測した。

 《政治的カルト

 政治的カルトとは、政治活動やイデオロギーに主な関心を持つカルトである。
 政治的カルトと呼ばれるグループは、主に極左や極右の思想を流布し、ジャーナリストや学者から注目されている。
 デニス・トゥーリッシュとティム・ウォルフォースは、彼らがカルトとする米国と英国の約12の組織について述べている。
 別の記事でトゥーリッシュは、次のように述べている。

 『カルトという言葉は、本稿が説明しようとするように、濫用される言葉ではない。
 それは機能不全に陥った様々な組織で観察される特定の一連の慣行に対する略語表現にほかならない』

 1990年、ルーシー・パトリックは次のようにコメントしている。

 『我々は民主主義の中で生きているが、カルト的行動はリーダーの判断を疑おうとしないこと、部外者を軽んじること、反対意見を避ける傾向の中に現れている。
 成熟した人間には不適切な依存欲求があることを認識し、反権威主義的な教育を強化し、個人の自律性と自由な意見交換を奨励することによって、社会はカルトを克服できる』

 イランでは「ホメイニ教団」が「世俗宗教」へと発展していった。イランの作家であるアミール・タヘリによれば、ホメイニはイマームと呼ばれ、「十二イマーム派を十三人のカルトに」している。
 ホメイニの像は巨大な岩や山の斜面に刻まれ、祈りは彼の名で始まり、終わり、彼のファトワは彼の死後も有効である(シーア派の原則に反することである)。
 また「神、コーラン、ホメイニ」や「神は一つ、ホメイニは指導者」といったスローガンは、イランのヒズボラの鬨として用いられている。
 ホメイニの写真は今でも多くの官庁に飾られているが、1990年代後半には「ホメイニの崇拝は色あせていた」とも言われている。

 ▼ラルーシュ運動

 ラルーシュ運動は、リンドン・ラルーシュと彼の思想を推進する政治的・文化的ネットワークである。
 世界中の多くの組織や企業を巻き込み、キャンペーンや情報収集、書籍や定期刊行物の出版などを行っている。
 『ニューヨーク・タイムズ』紙はこの団体を「カルト的」であるとしている。
 この運動は1960年代の急進的左派の学生運動の中で発生した。
 1970年代から1980年代にかけて、アメリカでは何百人もの候補者が「ラルーシュ・プラットフォーム」に基づいて民主党の州予備選挙に立候補し、リンドン・ラルーシュは大統領候補として繰り返しキャンペーンを行った。
 しかし、ラルーシュ運動はしばしば極右とみなされる。
 1970年代から1980年代にかけての最盛期には、ラルーシュ運動は私的な諜報機関を発達させ、外国政府と接触した。

 ▼アイン・ランド協会

 アイン・ランドの信奉者は、彼女の生前は経済学者のマレー・ロスバードによって、その後はマイケル・シャーマーによってカルトと特徴づけられている。
 ランドを中心としたグループは「集団」と呼ばれたが、現在は消滅し、現在のランドの思想を発信する主なグループはアイン・ランド協会である。
 この集団は個人主義的な哲学を提唱していたが、ロスバードは「レーニン主義」的な組織であると主張している。

 ▼統一教会

 朝鮮半島北部出身の文鮮明によって設立された統一教会(統一運動としても知られる)は強い反共産主義の立場をとっている。
 1940年代、文は大日本帝国に対する朝鮮独立運動で共産主義者と協力した。しかし、朝鮮戦争(1950年-1953年)後は、反共主義を公言するようになる。
 文は民主主義と共産主義の間の冷戦を神と悪魔の最後の対立と見なし、その最前線として朝鮮半島の分断があるとした。
 統一運動はその創設後すぐに、蒋介石が1966年に中華民国(台湾)の台北で設立した世界自由民主連盟や、「ラジオ・フリー・アジア」を後援する国際パブリック・ディプロマシー組織である韓国文化自由財団などの反共組織の支援を開始した。
 1974年、統一教会は共和党のリチャード・ニクソン大統領を支持し、ウォーターゲート事件の後に彼のために結集し、ニクソンはそれに対して個人的に感謝した。
 1975年、文はソウルの汝矣島で北朝鮮の軍事侵略の可能性に対する政府主催の集会で、約100万の聴衆を前に演説した。 
 統一運動は、多くの人が第三次世界大戦と核によるホロコーストにつながる可能性があると述べたその反共主義的な活動のために、主流と新興の両方のメディアによって批判された。
 1977年、アメリカ合衆国下院の国際関係委員会国際機構小委員会は、韓国の情報機関であるKCIAがアメリカとの政治的影響力を得るためにこの運動を利用し、一部のメンバーが議会事務所でボランティアとして働いていたことを明らかにした。委員会はまた、ニクソンを支持する統一教会のキャンペーンに対するKCIAの影響の可能性を調査した。
 1980年、統一教会はニューヨークに拠点を置く反共産主義教育組織であるカウサ・インターナショナルを設立した。 
 1980年代には21カ国で活動していた。アメリカでは、福音派やキリスト原理主義の指導者のための教育会議[58]や、上院議員、ヒスパニック系アメリカ人、保守派活動家のためのセミナーや会議を後援した。

 1990年4月、文鮮明はソビエト連邦を訪問し、ミハイル・ゴルバチョフと会談した。文はソビエト連邦で進行中の政治的・経済的変革への支持を表明した。同時期に統一運動は旧共産圏の国にも拡大した。
 1994年、『ニューヨーク・タイムズ』紙は、統一教会の政治的影響力を認め、「アメリカにおける保守的な大義に外国の財産を注ぎ込んでいる神権勢力」であると記述した。
 1998年、エジプトの新聞『アル・アハム』は、文の「極右的傾向」を批判し、イスラエルの保守派の首相・ベンヤミン・ネタニヤフとの個人的関係を示唆している。
 統一教会はまた、『ワシントン・タイムズ』、『インサイト・オン・ザ・ニュース』、『ユナイテッド・プレス・インターナショナル』、『ニュースワールド・コミュニケーションズ・ネットワーク』を含むいくつかのニュースメディアを所有している。
 『ワシントン・タイムズ』のオピニオンエディターのチャールズ・ハートはワシントンDCで最も早い時期にドナルド・トランプを支持した人物の1人だった。 
 2018年にハートはトランプをロナルド・レーガン、マーチン・ルーサー・キング・ジュニア、マーガレット・サッチャー、ローマ法王のヨハネ・パウロ2世と並ぶ人物とみなし、「自由の偉大なチャンピオン」としている。
 2016年に『ワシントン・タイムズ』は特定のアメリカ合衆国大統領候補を支持しなかったが、2020年の再選に向けてトランプを支持した。

 ▼労働者革命党

 イギリスでジェリー・ヒーリーにより指導され、女優のヴァネッサ・レッドグレイヴに強く支持されていたトロツキー主義の政党である労働者革命党(WRP)は、トロツキスト運動に関わるグループ外の人物によって、1970年代から1980年代にかけてカルトであった、あるいはカルト的特徴を示す集団であったと説明されてきた。
 ウォルフォースとトゥーリッシュもそのようにみなしており[74]、元メンバーであるボブ・ピットも同団体を「カルト的特徴」を持っていると認めている。

 ▼グロイバー軍団

 グロイパー軍団は白人至上主義、キリスト教ナショナリズム、インセルの思想を吹き込まれたオルタナ右翼の派閥である。
 この運動のかつてのリーダーの複数は、ニック・フエンテスがそれをカルトのように指導していると非難し、フエンテスが支持者に絶対的な忠誠心を要求し、それを濫用していると批判している。
 フエンテスは「カルト的なメンタリティ」を持っていると賞賛し、自身の運動をカルトと「皮肉を込めて」認めている。
 グロイパー軍団は2021年の合衆国議会議事堂襲撃事件に参加したことでも知られる。

 《経済カルト

 心理学者のスティーブン・ハッサンは、アムウェイやタッパーウェアに代表される連鎖販売取引(マルチ商法、またはMLM)をカルトとみなしている。
 これらは短期間で大規模な利益を得られると謳うが、しばしば急激な投資を必要とし、大半の参加者は資産を失うことになる。MLMはカルトの勧誘に使われる戦術を応用して参加者を集める。
 「ラブ・ボミング」という戦術は、愛情を浴びせることで人を引き込もうとするもので、例えば、ビジネス経験のない女性に対しても「あなたはビジネスをするために生まれてきたのです」と言う。
 情報統制も経済カルトがよく使う手口であり、MLMは会員に対して、ソーシャルメディア上でMLMを批判する人間を「ブロック」するように指導する。
 参加者が勧誘時に謳われたような利益を得られていないことに気づいたとき、グループの上司は「成功しないのは努力が足りないからだ」と叱責する。
 また、参加者を辞めたいと申し出れば、罪悪感を抱くように非難される。
 このほかにも、MLMの勧誘はたびたびカルトが使うマインド・コントロールの手法と結びつけて論じられる。
 MLMはロビー活動に多額の資金を費やしており、また権威付けのために著名人や財界人に多額の講演料を払っている。
 例えば、元アメリカ合衆国大統領のドナルド・トランプはいくつかのMLMのグループに関与していた。

 《一夫多妻カルト(ポリガミーカルト)

 一夫多妻制を提唱し、実践するカルトは、少数派ではあるが古くから指摘されている。
 北米には約5万人のポリガミーカルトのメンバーがいると推定されている。
 しばしば、ポリガミーカルトは法的権威と主流の社会の両方から否定的に見られ、家庭内暴力や児童虐待の可能性に結びつけられ、関連する主流の教団に対する否定的な認識も加わって見られることもある。
 1830年代から、末日聖徒イエス・キリスト教会(LDS、またはモルモン教)の教会員は一夫多妻制、または複婚を実践していた。1890年、LDSの総裁であるウィルフォード・ウッドラフは、LDSが新たな複婚を行わないことを発表する宣言を発表した。
 反モルモン感情は薄れ、ユタ州の州権獲得への反対運動も弱まった。アメリカ合衆国上院のリード・スムートによる1904年の聞き取り調査では、LDSのメンバーが今だに一夫多妻を行っていることを記録し、教会に第二の宣言書を発行させ、再び新たな複婚の実行を中止させた。
 1910年までに、末日聖徒イエス・キリスト教会は新たな複婚を行った者を破門した。
 1890年の宣言の施行により、様々な分派が複婚の実践を続けるために末日聖徒イエス・キリスト教会から離脱した。
 そのようなグループはモルモン原理主義者として知られている。例えば、末日聖徒イエス・キリスト原理主義教会はしばしば一夫多妻制のカルトとして記述される。

 《人種差別的カルト

 クー・クラックス・クランの儀式(1915年) 社会学者・歴史家のオーランド・パターソンは、南北戦争後にアメリカ南部で発生したクー・クラックス・クランを異端のキリスト教カルトとし、またアフリカ系アメリカ人等への迫害を、人間の生贄の一形態として記述している。
 19世紀から20世紀初頭にかけて、ドイツとオーストリアにおけるアーリア人種至上主義カルトの存在はナチズムの台頭に強く影響を与えた。
 現代のアメリカにおけるホワイトパワー・スキンヘッドグループは、破壊的カルトとして特徴付けられるグループと同じ勧誘手法を用いる傾向にある。

 《テロリストカルト

 精神科医のピーター・A・オルソンは自身の著書の中で、オサマ・ビンラディンをジム・ジョーンズ、デヴィッド・コレシュ、麻原彰晃、マーシャル・アップルホワイト、リュック・ジュレ、ジョセフ・ディ・マンブロなど特定のカルト指導者と比較し、これらの個人のそれぞれが、自己愛性人格障害の9項目のうち少なくとも8項目に該当するとしている。
 カール・ゴールドバーグとバージニア・クレスポは自身の著書の中で、オサマ・ビンラディンを「破壊的カルトの指導者」として言及している。
 アメリカ心理学会(APA)の2002年の会合で、スティーブン・ハッサンはアルカイダが破壊的カルトの特徴を満たしていると述べ、次のように付け加えた。

 『私たちは破壊的なマインドコントロールのカルトについて知っていることを適用する必要があり、これは対テロ戦争における優先事項であるべきである。
 私たちは人々がどのように勧誘され、教化されるかという心理的側面を理解する必要があり、それによって勧誘を遅らせることができる。
 カルトの元メンバーのカウンセリングに協力し、そのうちの何人かをテロとの戦いに利用することも必要である』

 『タイムズ』に掲載されたアルカイダに関する記事の中で、ジャーナリストのメアリー・アン・シーガートはアルカイダが「古典的なカルト」に似ていると書いている。

 『アルカイダはカルトの公式な定義にすべて合致している。
 それはメンバーを教化し、閉鎖的で全体主義的な社会を形成し、自称メシア的でカリスマ的なリーダーを持ち、そして目的が手段を正当化すると信じている』

 アルカイダと同様に、ISILもさらに過激で純血主義的なイデオロギーを信奉している。
 その目的は、宗教指導者の解釈によるシャリーアによって支配される国家を作ることであり、彼らは健康な男性メンバーを洗脳して、教会やシーア派のモスクなど、計画的に選定された民間人を含む敵に対して、自動車爆弾などの装置を使って特攻するよう命じている。
 メンバーはこれを正当な行為、義務であるとさえ考えており、この政治的・軍事的行動の究極の目標は、最終的に集団のイスラム教の信念に従って世界の終わりをもたらし、彼らの敵のすべて(すなわち彼らの側にいない者)が全滅する終末論的最終決戦に参加する機会を持つことである。
 そのような試みは2017年に失敗に至ったが、生き残りの大部分がテロリズムに回帰した。

     〔ウィキペディアより引用〕