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CTNRX的事件File. ♯004−B

2023-06-13 21:00:00 | 千思万考

■オウム真理教という怪物

 《沿革

 鍼灸院から超能力・ヨーガ教室へ 1978年、石井知子と結婚し、千葉県船橋市の新居に「松本鍼灸院」を開院し、タウン情報誌の広告で「中国で学んだ松本智津夫の中国式漢方総合治療室」と称し腰痛、ムチウチ、肩こり、頭痛で悩む方、「美しく痩せたい方」を募集した。
 なお、「あん摩マツサージ指圧師、はり師、きゆう師等に関する法律」では医業の広告や医業類似行為も規制されており、虚偽誇大広告は禁止されている。
 既にこの頃、予備校時代からのブレーンが若者を勧誘して「世直しの集会」を開き、鍼灸師は「仮の姿」と語っていた。
 同年9月には診察室兼漢方薬局の「亜細亜堂」を開業し、耳つぼに鍼を打って痩せる施術をしたり、こんにゃく、ミカンの粉末をダイエット食品として販売した。
 鍼灸師の長兄もミカンの皮を「体内を浄化する薬」として1回2万円で販売しており、麻原はこれを真似たともいう。
 1980年7月、保険料の不正請求が発覚し、670万円の返還を要求され、亜細亜堂を閉鎖したあと、8月に阿含宗に入信した。
 1981年2月、船橋市高根台に「BMA薬局」(BMAはブッダ・メシア・アソシエーションの略)開局。
 さらに無許可の漢方薬やダイエット薬品を製造する「天恵の会」では4千万円を売り上げたが、1982年6月、詐欺被害の訴えによって薬事法違反で逮捕、20万円の罰金刑を受ける。

 逮捕後、ヨーガ・スートラを研究。
 のちに麻原は、この頃、気学、四柱推命、奇門遁甲などの中国運命学、特に仙道を修行し、気を体内に循環させ尾骶骨付近に眠っている霊的エネルギーを一気に頭頂に突き抜消させる大周天を習得し、さらに幽体離脱、手当て療法などの超能力を身につけたという。
 1982年には、経営塾などをやっていた西山祥雲に弟子入りし「彰晃」の名をもらい「松本彰晃」を名乗る。

 1983年(昭和58年)夏(28歳)、阿含宗脱会。東京都渋谷区桜丘に、サイコロジー(心理学)・カイロプラクティック・仙道・ヨーガ・東洋医学・漢方などの塾「鳳凰慶林館」を開設、塾生は女性に限定されており、ダイエット美容や健康法が中心だった。
 松本はこの時「麻原彰晃」と名乗り始める。
 1984年(昭和59年)2月、「鳳凰慶林館」からヨーガ教室「オウムの会」へと鞍替えした。
 同年5月28日にはオウム株式会社を設立。
 この時、長兄に「教祖になってくれないか」と依頼している。
 この頃、麻原は平和健食も設立し、薬品「貴妃」を販売した。
 1984年6月には飯田エリ子の紹介で、麻原が販売する健康食品のモデルとして、石井久子が訪れる。
 当時は超能力の獲得を目指すアットホームで明るいヨガ教室だった。
 オカルト雑誌の『月刊ムー』が、オウムの会を取材、写真付きの記事を掲載した。
 麻原はこれらオカルト雑誌に空中浮揚の瞬間と称する写真を掲載したり、ヒヒイロカネについての記事を書いた。1985年9月、週刊プレイボーイ記者にヨーガによる解脱で核戦争による人類滅亡を乗り越えるのが会の趣旨であると述べる。
 雑誌『トワイライトゾーン』1985年10月号では、2006年までに核戦争が起こり、核戦争は浄化の手段であるとし、選りすぐったレベルの高い遺伝子だけを伝えるとし、「仏教的・民主主義的な国、完璧な超能力者たちの国」、理想郷シャンバラを確立するために神になる修行をしたと答えた。

 1985年12月にヒマラヤの完成者マニクラチューからインドへ来いとの啓示があり、1986年(昭和61年)1月、麻原はインドを訪問し、スワミ・アガンダナンダやパイロット・ババ(Pilot Baba)等と会う。
 1986年3月に仙道、仏教、密教、ヨーガの集大成として書籍「ザ・超能力秘密の開発法」を刊行した。
 1986年4月、オウムの会をオウム神仙の会と改称した。
 5月、精進湖キャンプ場での修行で、麻原は杉本繁郎ら弟子数人に対し、「今の国家を転覆させる」、
 明治維新も数人から始まった、将来はフリーメイソンと戦うことになる、と語った。
 1986年5月から6月にかけてヒマラヤに行き「最終解脱」したとし、同時期に雑誌『トワイライトゾーン』に「解脱への道」の連載を開始した。
 麻原は「1986年夏、ヒマラヤで最終解脱した」と宣伝したが、インドのヒマチャル・プラデシュ州マナリ現地の僧侶たちは、「そんな話は聞いたことがない」という。
 麻原の最終解脱に疑いを持った弟子達がやめた。
 井上嘉浩には「渋谷で最終解脱した」と答えている。
 また、麻原は説法で「最終解脱」の先に「最終完全解脱」があるが「それは達成できなかった」と述べている。
 1991年頃、雑誌スパの質問に対して、麻原は「だって、仏陀が大勢現れて祝福してくれたんですよ」と述べるだけだった。
 1986年8月の丹沢セミナーでパイロットババを招待した。
 しかし、麻原は、ババが水中サマディをせず女と金を要求したと不満で、のちの講話でババは嘘つきだと非難した。
 この丹沢セミナーに参加していた元ラジニーシコミューン日本支部にいた信者に対し、麻原はサンガ(出家)制度を作ってくれないかと依頼した。
 信者は、渋々引き受けた。
 最初の出家者は石井久子だった。
同年秋、横浜市内の一軒家での共同生活が始まり、杉本や新実らのメンバーはそれぞれアルバイトなどで120万円を稼ぎ、教団へ布施した。
 同時期、在家信者の修行コースの料金も大きく値上げされ、「このぐらい出さなきゃ、解脱なんてできないんだ」と麻原は説明した。
 1987年(昭和62)1月4日の丹沢セミナーで、密教修行者が魚を焼いて食べた事について、これは不殺生だが、その魚の魂を高い世界へ上昇させるポアであり功徳だ、チベット密教では盗賊を殺すことも功徳となるとし、「グルがやれと言ったことすべてをやることができる状態、例えばそれは殺人も含めてだ、これも功徳に変わる」「グルがそれを殺せと言うときは、例えば相手はもう死ぬ時期に来てる。そして、弟子に殺させることによって、その相手をポアさせるというね、一番いい時期に殺させるわけだね。」とすでに説いていた。

 オウム真理教の成立

 1987年(昭和62年)6月、東京都渋谷区において、従前の「オウム神仙の会」を改称し、宗教団体「オウム真理教」が設立された。「真理教」の名前は石井久子以外には「いかにも新興宗教」と不評であったが、麻原は救済のためと譲らなかった。
宗教化後は多額の献金を要求するようになり、会員の三分の一が脱会した。
7月には、解脱者を3万人出せば、そのサットヴァのエネルギーによって核兵器が無意味になり、真理は一つになると説法した。
 8月に刊行した書籍「イニシエーション」では「1993年までに世界各国に二つ以上の支部ができなかったら、1999年から2003年までに確実に核戦争が起きる」と予言し、「核戦争を回避するためには、オウムの教えを世界に広めていかなければならない」と教団による人類の救済を説いた。
 1987年11月にはニューヨーク支部を設立。
 1988年元旦に刊行した著書『マハ一ヤーナ・スー卜ラ 大乗ヨーガ経典』で麻原は、「現代の人間は、まあ大体地獄か、餓鬼か、動物かに生まれ変わる(略)なぜかというと、まず殺生をしますね。盗みもします。邪淫もしますし、嘘もつく。酒は飲むと。これはもう救済の方法がない」と現代社会に対しきわめて否定的な見方をした。
 1987年7月に入信した在家信徒は、太陽電池をエネルギーとし、学校、病院などのある村の建設計画を持っており、既に土地を取得したことをオウムに話すと、1988年教団はそのアイデアを流用して日本シャンバラ化計画を打ち立て、ロータス・ビレッジ構想を発表した。
 その後、知らない内に土地、山林、工場、会社が石井久子名義になっていたため、脱会した上で訴訟となった。1996年4月、和歌山地裁は登記取消を認め、元信徒は勝訴した。

 1988年(昭和63年)頃、麻原はチベット亡命政府の日本代表であったペマ・ギャルポに接触し、ダラムサラに紹介され、訪問前に10万ドルを、その後、150万ドル以上をダラムサラに対し寄付した。
 3月に麻原はカギュ派のカル・リンポチェ師を訪問する。
 同師は麻原に「体験は解脱ではない」と戒めるかのように語りながら、「ヴァジラヤーナ(金剛乗)」の教えには、他に手段が無ければ、大きな悪を働こうとしている人を殺すことを肯定する場合があるとも話した。
 この時以来、麻原は「ヴァジラヤーナ」という言葉を盛んに使い始めた。
 7月6日にはダライ・ラマ14世と会っている。麻原側はダライ・ラマ14世が日本の仏教は本来の姿を見失ってしまっているから、君が本当の宗教を広めなさいと告げたとしてオウム真理教の宣伝に大いに活用した。
 帰国直後の7月21日に麻原は、ヴァジラヤーナは救済を成功させる道で、「グルのためには殺生ですらしなければならない」と語った。
 8月に富士山総本部道場の落成記念イベントに招待されたカル・リンポチェ師は、麻原を称賛し、「あなた方のグルに奉仕し、そして彼がするようにといったことは何でもするようにしなさい」と説法し、自分をミラレパに、麻原をカギュ派を拡大したガンポパに例えた。
 カル・リンポチェ師の称賛によって、多くの信者は麻原への帰依を強め、宗教学者中沢新一もオウム肯定の根拠とした。

 信者死亡事件から信者のボアへ

 1988年(昭和63年)9月22日、在家信者死亡事件が発生。被害者信者の遺体はドラム缶に入れられ護摩壇で焼かれたが、麻原はその場に立ち会い、「いよいよこれはヴァジラヤーナに入れというシヴァ神からの示唆だな」とつぶやいた。
 10月頃、富士宮市人穴に総本部道場が建設された、麻原は10月に、ヴァジラヤーナ(金剛乗)のプロセスに入ってきたとし、自己を空っぽにしてグルへの絶対的な帰依を説き、「凡夫の救済、地獄化した人間の救済は不可能かもしれない(略)新しい種、霊性の高い種を残すことが私の役割だ。」と説き、11月に麻原は遠藤誠一に、国家が宗教弾圧しようと警察がきたらどうすると問い、「本署ごとポアしちゃえばいいんだよ」と述べている。
 1989年1月、麻原は「資本主義と社会主義をつぶして宗教的な国を作る。オウム信徒以外は生き残らない」と幹部に語った。
 前年9月に起きた信者死亡事件の隠蔽をするため1989年2月10日に男性信者殺害事件を起こした。
 事件直後の説教では仏陀の前生の話として、ある悪人が船に乗った300人の貿易商の財産を奪おうとしていたが、仏陀(の前生)はこの悪人のカルマが悪かったのでポア(殺害)した、つまり、高い世界に転生させる為の殺害であると説教して正当化した。
 また、殺害を実行した新実智光が動揺しているのを知った麻原は、救済するための悪行・殺生で地獄に行くことは本望であるというヴァジラヤーナの詞章を毎日唱えさせた。

 宗教法人認可

 1989年(平成元年)3月1日、教団は宗教法人に適用される税制優遇(布施などが非課税になる)や社会的認知を得ようとして宗教法人規則認証申請書を東京都に提出した。
 しかし、信者の家族からの苦情により、都は受理を保留した。
 4月24日に教団は東京都庁に押しかけ、抗議した。
 翌4月25日、麻原は「真理が権力に潰されるような事態になるとするならば、君たちは真理のために戦うか」と問うと、信者全員が「戦う」と答え、麻原は「日本そのものがオウム真理教に、仏陀の国に変わる日は近い」と説いた。
 4月29日には富士山総本部で「例えば国家的な弾圧が真理に対して向けられると。その時に自己の肉体が投げ出せるかと。真理を弾圧する国家にとって真理は当然邪法だろうから悪人呼ばわりされるだろう。その上に身体が傷つき、あるいは生命を捨てなきゃなんないかもしれないと。それに対して平気で捨てると。これが身体を供養するタントラの道と。」と説いた。
 同年5月25日に認証申請が受理された。
 さらに教団は同年6月1日に鈴木俊一東京都知事を相手取り同認証申請についての不作為の違法確認訴訟を提起した[1]。8月16日には政治団体真理党の設立届を提出した。
 8月25日、東京都からの交付を受けて宗教法人認可を受けた。1989年9月24日には世田谷道場で麻原は、ヴァジラヤーナの教えでは成就者が悪業を積んだ者を殺して天界へ上昇させることは、高い世界へ生まれ変わらせるための善行、立派なポア、功徳となると説いた。

 
 サンデー毎日スクープと坂本弁護士一家殺害事件

 サンデー毎日は、1989年10月15日号で「オウム真理教の狂気」連載をスタートし、7週間にわたって告発報道を始めた。
 第一弾発売日の10月2日、麻原らは編集部に押し掛けたが、交渉決裂した。
 牧太郎編集長の自宅近辺にはビラが貼り出され、電話攻撃や、街宣車が来た。
 毎日新聞社本社ビル内のトイレに一斉に同様のビラを貼った。
 オウムに批判的な報道をしたテレビ朝日「こんにちは2時」や文化放送などにも「ヤラセ、ウソ、偏見報道の責任をとれ」と担当者の実名、自宅住所、電話番号が書かれたビラをまいた。
 さらに教団は、サンデー毎日で証言した元信者の自宅にも押しかけ、記者を装ってドアを開けさせて車に連行し、「証言は事実に反する」という文書に署名させた。
 この書面をもって教団が抗議すると、フジテレビとテレビ朝日は訂正放送に応じた。
 10月11日放送のテレビ朝日「こんにちは2時」の「大島渚の熱血!!生トーク」では、子供を出演させない約束だったが、麻原は永岡弘行被害者の会会長の息子の永岡辰哉を女装させて登場させ、麻原は「オウムが監禁しているか、白黒はっきりさせたい」と述べた。
 動揺した永岡が発言しようとすると、司会の大島渚がそれを遮って、「(番組は)オウム真理教を叩く意図はない」と述べると、永岡の息子が父は嘘つきだと非難を開始し、オウムの素晴らしさを語った。
 麻原は400人の出家信者のうち、親子問題が起きているのは10組だけで、その親たちは嘘を吹聴していると述べた。
 麻原に制された永岡会長は、ほとんど発言の機会が与えられないまま、番組は終わった。
 こうして、教団は生放送を出演条件とし、事前の打ち合わせを無視し、番組を教団宣伝の場所に変えることに成功、マスコミはオウムの弁護手段として利用されるようになっていった。
 サンデー毎日のスクープでは、百万円で麻原の血液を飲ませる「血のイニシエーション」の根拠として、京都大学の研究が宣伝されていたが、京都大学はそのような研究は行われてい、結局教団は証拠となるデータを持ってこなかった。
 10月21日には、坂本弁護士の支援の下で「オウム真理教被害者の会」が結成された。
 10月25日には教団は毎日新聞社を名誉毀損による損害賠償請求訴訟を提起した。

 10月26日にはTBSワイドショー『3時にあいましょう』のスタッフが、坂本弁護士へのインタビューを放送前にオウム幹部に見せたTBSビデオ問題が起きていた(この事件は、TBS側は否定していたが、1996年3月になって認めた[95])。10月31日の交渉で、教団が「信教の自由だ」と主張すると、坂本弁護士は「人を不幸にする自由など許されない」と答えた。
 10月31日に発売されたサンデー毎日第五弾11月12日号では「肉食拒否の尊師がビフテキ弁当を売る欺瞞」では、霊感商法まがいの悪徳商法と報道した。
 11月1日、被害者の会は水中サマディや空中浮遊の公開実演を教団に要求した。
 麻原は、坂本弁護士がオウム告発のリーダーであるとみなし、11月2日深夜(11月3日未明)、教団幹部らに「もうヴァジラヤーナしかない」と坂本弁護士のポア(殺害)を指示した。
 11月4日午前3時頃、オウム幹部ら6人が坂本弁護士宅に侵入し、一家3人を殺害した。午前7時頃、一行が富士本部に到着すると、麻原と石井久子が出迎え、麻原は「よくやった、ごくろう」と上機嫌に述べた[99]。麻原から遺体の処分を指示された一行は、長野県大町市関電トンネル電気バス扇沢駅付近に1歳の長男の遺体を、翌5日新潟県大毛無山に弁護士の遺体を、翌6日妻の遺体を富山県僧ヶ岳中腹に埋めた。11月11日未明、麻原は帰ってきた一行に「三人殺したら死刑は間違いない。みんな同罪だ」と笑みを浮かべながら語った。
 一方、警察では、坂本弁護士宅に「プルシャ」が落ちていたため、オウム犯行説が広まるが、任意の失踪の可能性があるとされ事件性すら確定されなかった。横浜法律事務所も、マスコミも当初はオウムの名を出さなかったため、統一教会や創価学会関連の情報提供も多かった。 
警察は「坂本弁護士はサラ金で首が回らなくなっていた」というガセネタを流したりした。麻原はオウム叩きの背景には創価学会や内閣情報調査室やアメリカ、フジサンケイグループをバックとした団体が動いていると語り、このけがれきった世の中に対して二つのアプローチがあり、一つは選挙で議席をとって徳の政治に変える。もう一つは、武装して日本をひっくり返して真理でないものを潰して救済する、と述べた。
 11月30日のドイツのボンでの会見では、犯人は坂本弁護士の身内だと述べ、弁護士の親族らを激怒させた。
 その後もテレビで「被害者の会が犯人」と主張を繰り返した。
 信者への説法でも麻原は「彼が被害者の会に殺されたにしろ、誘拐されたにしろ、彼はこれ以上オウムに迷惑をかけないわけだから、彼のカルマのためにはいいことだ」と坂本弁護士の死を肯定した。

 帰国した麻原はワイドショーなどに次々と出演。フジテレビの「おはよう!ナイスデイ」では麻原一家の仲睦まじい姿を報じ、TBS「3時にあいましょう」は信者に教団の魅力を取材するなど、坂本弁護士事件とは関係のない教団の宣伝となっていった。
 宗教学者の中沢新一は雑誌SPA!同年12月6日号で麻原と意気投合し、週刊ポスト同年12月8日号で、麻原を高い意識状態を体験している宗教家であると絶賛した。
 サンデー毎日報道の「狂気」「反社会的」といった言葉も、麻原は中沢新一との対談を通じて、都合よく回収していった。
 オウムは、被害者の会は警察が指揮して結成した組織で、坂本弁護士一家事件は宗教弾圧であり、オウムこそ被害者であると主張した。
 被害者の会と接触したペマ・ギャルポは危機感を強め、チベット亡命政府に麻原と関係を持たないように助言した。
 ペマは麻原とテレビで共演し、「ダライ・ラマ法王は『すべての人々は仏陀になれる』といったのであり、麻原が仏陀だとはいってない」と述べると、怒った麻原は雑誌や本などでペマを非難した。

   〔ウィキペディアよら引用〕