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CTNRX的事件File. ♯004−C

2023-06-14 21:00:00 | 千思万考

■オウム真理教という怪物

 衆議院選惨敗からポツリヌス菌テロ計画へ

 オウムは、真理党を結成して1990年2月の第39回衆議院議員総選挙へ集団立候補した。
 真理党は、徹底的な行政改革によって財源をひねり出して消費税廃止、ほか医療、教育改革、大統領制などを主張した。
 選挙活動の際には信者が麻原のお面等をかぶり、奇抜な活動が注目を浴びた。
 また教団が敵視した石原伸晃など他の候補者のポスターを剥がしたり、汚損した。
 選挙の結果は、最も得票の多かった麻原でさえ1,783票で惨敗だった。
 供託金5,000万円が没収され、
 脱会者が続出した。
 麻原は、選挙管理委員会が票を操作したと説き、「オウムは反社会・反国家である」と宣言した。

 1990年3月、生物兵器となるボツリヌス菌を採取するために北海道釧路市、阿寒湖、奥尻島の土を採取したが、採取できなかった。
 1990年3月11日、ワシントンのホロコースト記念博物館が建設されることについて「いよいよユダヤ人、フリーメーソンが表面に出てきた」とし、彼らの目的はオウムの崩壊であると説いた。
 週刊文春1990年3月29日号では、永岡弘行や江川紹子らがチベット亡命政府宗教文化庁次官カルマ・ゲーリックに面会すると、「ダライラマが、麻原に仏陀の素質があるなどと発言するわけがない」と答え、オウムが未成年から金をとったり、逃げた人を独房に監禁することに驚き、「仏教では未成年が出家する時には、両親の許可が必要だ」「麻原が道を踏み外したことも十分考えられる」と答えた、
 またこの取材で麻原がニューデリー最高級のホテルハイアット・リージェンシー・ホテルに宿泊していたことも判明しており、教団が「尊師は毛布一枚で畳の上に寝られるほど質素であられる」と信者に説明 していたこととの矛盾も指摘された。
 ゲーリックのコメントが報道されると、麻原は説法で、「カルマ君」(ゲーリックを指す)は手紙で、報道は99%嘘で、自尊心を持つ人なら、だれでも永岡氏らを訴えたと言っていたと報告した(ただし、このゲーリックの手紙は麻原の説法以外で確認されていない)。麻原は、聖者や修行者を誹謗した被害者の会やマスコミにはどういうカルマが返ってくるか、報道で脱会者がいるが、情報はわたしたちを苦しみの世界に叩き込むと述べた。
 オウムがダライ・ラマを悪用したという記事は、「マスコミ、被害者の会、江川紹子が仕組んだ捏造記事」で、教団はゲーリック報道などに関して江川紹子と出版社へ損害賠償請求訴訟を行なったが、判決では名誉毀損に当たらないとされた。

 遠藤がボツリヌス菌を入手すると、麻原は大量プラントの建設を指示し、ボツリヌス菌をトラックで日本全土に散布して、一気に大量ポアすると無差別テロ計画(オウム真理教の国家転覆計画)を宣言した。
 出家信者や麻原の家族は石垣島へ避難させ、在家信者のために4月に石垣島セミナーを開くことになった。
 「オースチン彗星(英語版)接近で日本は沈没するが、オウムに来れば救済される」と宣伝し、在家信者だけでなく家族まで参加させた。
 東京、大阪、福岡の信者ら参加者1270人が船でやってきた。
 麻原は幹部らに、オースチン彗星の再接近の時、偏西風でボツリヌス菌は日本に撒かれるが、石垣島は偏西風が通らない、抗体をイニシエーションで与えると称した。しかし村井秀夫、遠藤誠一らはボツリヌス菌の培養に失敗し、テロは実行されず、セミナーも中止となり、翌日25分の講話があっただけで帰路についた。
 帰りの船では「出家するのは今か、一ヶ月以内か、半年以内か」と聞かれ、答えた出家時期に応じて部屋割りされ、「出家しない」という選択肢はなかった。
 石垣島セミナーで入った資金は3億円とも数十億円とも言われ、教団蘇生に成功した。
 石垣島セミナー直後、麻原はボツリヌス菌によるテロを三度実行し、いずれも未遂に終わっている。
 1990年ゴールデンウィーク頃、2台の2トントラックから粉末状のボツリヌス菌を、皇居周辺、米国大使館、創価学会本部、立正佼成会本部、防衛庁、霞ヶ関、渋谷・新宿の繁華街などで噴霧した。
 しかし、被害不明によりテロは失敗した。5月中旬、二度目の噴霧も失敗した。
 異臭をわざわざ教えてくれたドライバーもいた。
 1990年7月頃、ボツリヌス菌の培養液を、荒川にポンプを使って流した。
 村井と新実は通りかかった警官に職務質問され、警官は液体のサンプルを持ち帰った。電話で報告を受けた麻原は叱責、ボツリヌス菌テロ計画は中止された。

 波野村と上九一色村の攻防

 1990年(平成2年)5月、日本シャンバラ化計画の一環として熊本県阿蘇郡波野村(現:阿蘇市)に15ヘクタールの土地を購入し「シャンバラ精舎」を建設するために進出する。進出の目的は、波野村を武装化の拠点とすることで、ヴァジラヤーナのための兵器として、生物兵器ボツリヌス菌とそれを散布するための風船爆弾や、毒ガスホスゲン製造が計画された。
 また1990年4月にはボツリヌス菌プラントを第一上九に建設した。教団はドライブインだった土地に対し5000万円を提示、しかし相場より高すぎるので県が警戒する恐れがあるとして3000万円で虚偽申告を行なった。
 その後、抵当権がついていたため地権者の負債1500万円を教団が支払う代わりに負担付贈与にすれば国土法届けは不要と、3500万円即金で支払われた。
 負担付贈与契約が5月24日に締結されると、即日に建設資材が搬入され、プレハブ建設に着手し、大型トラックが通るために村道は勝手に広げられた。
 人口2千人の村にオウム信徒450人が住民票を移したら、村が乗っ取られると不安に駆られた村民は6月に「波野村を守る会」を結成し、8月には信徒と村民のもみ合いでけが人も出た。
 7月に熊本県・大分県で死者行方不明14名の大水害が起きると、麻原は「悪業(カルマ)を清算させられた」と主張、村民は激怒した。
 この頃、教団は『南伝大蔵経』などパーリ語仏典の翻訳を開始した。
 波野村は信者300人の住民票を受理しなかったが、8月中旬に麻原とマハームドラー修行者全員は、移住を開始した。
 8月16日、県は教団が国土法届出をしなかったために県警に告発した。

 地権者に更に500万円の負債が判明したため、地権者が届け出をしようとすると、教団側は虚偽の借用書にサインさせたり、麻原本人が説得したが、地権者は負担付贈与でなく、売買だったと警察に打ち明けた。
 教団は豹変し、「5千万円返すなら土地は返すが、これまでの開発費用4〜5億円を賠償せよ」と迫り、9月5日に教団は地権者が証言を変えなければ14億円の損害賠償を求めるという内容証明郵便を送り、さらに売買差益の3500万円も教団が貸し付けたものとして返還を求めた。
 1990年9月にはホスゲン爆弾による無差別テロを計画した。
 強制捜査前日の1990年10月21日、教団は代々木公園で「守ろう!信教の自由」集会を開き、麻原は「(中東への自衛隊派遣に触れて)私が予言したように再軍備が始まった。国民を靖国神社に参拝させるような国家神道の道を歩ませるしか軍国主義はとれない。
 このような国家の意図からすれば、オウムは反国家的団体であることは間違いない。
 権力者にとってオウムは邪魔で、どうしてもつぶしたい宗教である」と演説した。
 10月22日、熊本県警と山梨県警が、波野村の土地売買に関する国土利用計画法違反、道路運送車両法違反などの容疑でオウム真理教の強制捜査を開始した。
 しかしオウムは熊本県警内の信者から情報を入手しており、武装化設備を隠蔽した。
 ワイドショーが始まる午後3時に麻原が報道陣の前で熊本地検に電話し、早川らの逮捕を実況した。
 一方、教団も江川紹子や信者の母親も小突き回され、写真をとった弁護士も腕を捻じ上げられフィルムを奪われた。
 強制捜査後、麻原は「戦前の状況とそっくり。まさに宗教弾圧」と批判した。
 1993年、波野村の住民票受理拒否をめぐる裁判で教団側が勝訴すると、1994年に波野村はオウムが5000万円で手に入れた土地を和解金9億2000万円で買い戻すことで合意した。

 一方、教団が波野村に先がけて土地を入手した山梨県上九一色村でも許可なく施設建設を進め、住民と衝突した。
 92年12月には、反対する住民に信者が「坂本弁護士のように(行方不明に)なってもいいのか」と脅した。
 上九一色村の住民によれば、教団は、住民が前の道路を通るたびにカメラを向けたり、畑の中にトラックを停めたり、深夜3時まで大音響で工事をやったりし、抗議に行くと「バカヤロー」「コノヤロー」「テメー」「帰れ」としか言わない有様だった。
 しかし、1992年5月に上九一色村は信者の転入届を受け入れ、山梨県富沢町でも和解が成立した。
 国土法違反事件の影響で、1991年(平成3年)〜1992年(平成4年)はホスゲンプラント計画や生物兵器開発などの教団武装化を中断、テレビや雑誌への出演や文化活動などに重点を置いた「マハーヤーナ」路線への転換を図った。

 ロシアへの進出と兵器開発

 ソ連8月クーデター発生直後の1991年、教団のロシア進出が始まった。
 ソ連崩壊後の1992年2月に来日したオレグ・ロボフロシア連邦安全保障会議書記は日本の政財界に資金援助を断られていたが、オウムは1000万ドル(約13億円)を援助した。
 1992年3月、教団は300人の信者を引き連れモスクワ訪問、ハズブラートフ最高会議議長やルツコイ副大統領と面会し、モスクワ国立大学、モスクワ国立工科大学、モスクワ工学物理学協会に物資を支援した。
 麻原は、ノーベル賞受賞物理学者でレーザー光線の研究者バーソフと接触、3月13日にはモスクワ物理工科大学で日本人初の講演会を開いて、同大学主任研究員やクルチャトフ研究所研究員にも信者を獲得した。
 麻原はモスクワ府主教にも面会し、ロシア正教教会に聖書用の紙8万ドル(1020万円)分を寄付した。6000人収容できるクレムリン大劇場でのオウムミュージカル「死と転生」は、大成功を収めた。
 1992年4月、ラジオ局マヤークと、年間80万ドルで一日2回、各25分の放送枠を獲得、テレビ局2×2でも毎週日曜日午前中の30分の放送枠を獲得した。
 4月1日にはラジオ番組「エウアンゲリオン・テス・バシレイアス」を開始、当初はテープを空輸し放送していたが、94年12月から衛星回線で生放送を開始し、英語とロシア語でも布教放送を行なった。
 また、教団は年間11000ドルというそれまでの25倍の契約料で専属オーケストラ「キーレーン」を結成した。
 麻原は92年4月の取材に対してロシア人は「共産主義を経験でき、本当の意味での自由を経験でき」たことは幸せだったとし、「共産主義者が仏教を理解できたら、素晴らしい国ができる」と答えている。
 92年7月には宗教法人として認可され、9月にモスクワ支部を開設した。
 同じ頃、日本では油圧シリンダー等を製作する年商40億のオカムラ鉄工の乗っ取りに成功し、オカムラ鉄工所のプラズマ切断機を参考に、マイクロ波を発生させて物を溶かすプラズマ兵器の製造を指示した。
 1992年秋、レーザーやプラズマ兵器の情報を集めていた村井、広瀬健一、渡部和実らがロシアを見学した。
 1992年、麻原は「またヴァジラヤーナを始めるぞ」と話し、1993年前後から再び麻原は教団武装化の「ヴァジラヤーナ」路線を再開。
 X線兵器、プラズマ兵器、UFO、核兵器、NBC兵器など教団の兵器の開発を進めた。

 1993年2月、インテグラル・ロケット・ラムジェットなどの兵器研究のために信者らはロシアに赴き、モスクワ軍事大学で自動小銃AK-74や迫撃砲を調査後、AK-74を一丁入手した。
 帰国後AK-74を模倣した自動小銃の製造に取り組んだ。

 1993年2月28日アメリカにおいて、新興宗教団体ブランチ・ダビディアンに対して州警察が強制捜査に入り、銃撃戦となった。
 膠着後、当局は4月19日に強行突入、ほとんどの信者は焼死し、81名の死者が出た(ウェーコ包囲)。
 麻原はブランチ・ダビディアンの次にオウムが襲撃されると説法で述べた。
 1993年4月10日、麻原はハルマゲドンで使われる兵器は、体の水元素にプラズマを発生させ、体を蒸発させるプラズマ兵器であり、既にアメリカは湾岸戦争でこれを使用し、イラク兵9万2000人が蒸発したと説いた。
 アメリカのプラズマ兵器は、人工衛星でプラズマを反射させるプラズマ反射衛星砲(『宇宙戦艦ヤマト』に登場)であるのに対して、ロシアの恒星反射砲は、3kmの鏡を宇宙空間に打ち上げて太陽エネルギーを地上に反射させるもので、第三次大戦では、人類が三分の二消滅する、という。
 1993年4月に核兵器の材料ウランを入手するためにオーストラリアの土地を購入、9月に採掘調査をしたが発見できなかった。
 1993年5月にはロシアで弾丸の製造法や火薬プラント、自動小銃の金属表面への窒化処理法について調査、窒化炉の図面等を入手、帰国後設計を始めた。

 1992年から遠藤誠一らが猛毒の炭疽菌やボツリヌス菌などの生物兵器の開発も再開した。
 1993年5月には亀戸道場内に大量培養施設を建設、6月と7月に屋上から炭疽菌を噴霧したが、菌が死滅しており、異臭騒ぎにとどまった(亀戸異臭事件)。
 その後,炭疽菌培養施設を第二上九に移転し、同年夏に東京都内で噴霧車から細菌を散布した。
 1993年8月、土谷正実らによって、化学兵器サリンの合成に成功した。
 麻原は、第7サティアンに70tのサリンを生成するプラントの建設を指示した(サリンプラント建設事件)。
 サリンをヘリコプターで散布しようとして信者を1993年9月にアメリカに派遣しヘリ免許を取得させた。
 麻原は、ロスチャイルド家とロックフェラー家が率いるフリーメイソンが米軍や公安やJCIAに命じて教団にサリンやイペリットを撒いているが、自分(麻原)が近代フリーメイソンを創り、アメリカ独立戦争も率いたのであり、際限のない欲望を肯定する物質主義となってしまった現在のフリーメーソン国家の米国とオウムは将来戦うことになる、と述べ、池田大作や滝本太郎など敵対者のサリン暗殺を試みた。
 1993年末から翌年にかけて毒ガス検知器、防毒マスク、防護服、細菌検知器、LSDの原料となる酒石酸エルゴタミンを購入した、
 これにより遠藤がLSDを製造し、キリストのイニシエーションで信者らに投与された。
 他にメスカリン、覚醒剤密造に成功し、PCP、ブフォテニン、マクロマリン、コカインの一部も完成した。
 1993年12月にはモスクワ郊外に66万平方メートルの土地を入手し、道場、病院、学校、住居、工場などの「ロータスビレッジ」を計画した。
 オウムは、ロシアに7つの支部を作り、ロシアの信者数は最大5万人に上った。  1994年(平成6年)2月、麻原は信者と中国へ旅行し、自分の前生とする朱元璋ゆかりの地を巡った。
 旅の途中、ホテルで信者に対し、「1997年、私は日本の王になる。
 2003年までに世界の大部分はオウム真理教の勢力になる。」と予言し、「真理に仇なす者はできるだけ早く殺さなければならない」と説いた。
 帰国直後の2月27日、麻原は、「このままでは真理の根が途絶えてしまう。サリンを東京に70tぶちまくしかない」と説いた。
 翌2月28日、AK-74自動小銃1000丁の製造を指示(95年1月試作品完成)、自衛隊を取り込むための調査を指示した。

 3月10日、麻原は「警察官全員をポアするしかない」「ゲリラで警察を全滅させよう」と語った。
 翌3月11日、麻原は闇組織やそれと連動する公安が毒ガスをオウムに対し噴霧し続けてきたと述べ、信徒は立ち上がり、周りの無明に満ちた魂を真理に引き入れ、この日本を、この地球を救う必要があると説き、「もともと私は修行者であり、じっと耐え、いままで国家に対する対決の姿勢を示したことはない。
 しかし、示さなければ私と私の弟子たちは滅んでしまう」と対国家戦争に言及した。3月中旬には沖縄で自衛隊出身や武道経験のある出家信者十数名に軍事訓練キャンプをさせ、そこから選抜した約10名をロシアに派遣し、ロシア軍特殊部隊スペツナズ指導の厳しい軍事訓練を受けさせた。
 この中には平田信も含まれていた。
 オウムはロシア軍基地で、自動小銃、機関銃、対戦車ロケット弾の実射などの軍事訓練を信者らに行なった。
 また軍用ヘリコプターミル17を購入、1994年5月に横浜港に搬入されたほか、ミグ29戦闘機、T-72戦車300両、魚雷艇、潜水艦などの購入計画もあったほか、映画のエキストラと称し募集したホームレスを「白い愛の戦士」部隊として編成し、山間部の施設で訓練を施した。

   〔ウィキペディアより引用〕