映画「俺は、君のためにこそ死ににいく」を観ました。
製作総指揮・脚本が石原慎太郎ということで、特攻をかなり美化しているのではないかという予想もあったようですが、さて。
結論からいうと、非常にバランスがとれた内容です。
軍上層部が「特攻」作戦を決定するところから始まるわけですが、その際、隊員の決定はは「志願」という名目の「命令」であると断言。
隊員や女学生たちの純粋な精神はしっかりと表現しつつ、作戦に疑問を持つ隊員や怖がる隊員、悲しむ家族、誇りであると称える家族など様々に描かれています。
隊員たちに親しまれている食堂のおばちゃん、トメさんが、明日出撃するという若者たちを笑顔で気持ちよく送り出す、その努力と愛情がよく伝わってきました。
それと特筆すべきは特撮シーン。
実物大の戦闘機・隼は、当時の設計図から作ったというだけあって、なかなかリアル。プロペラを回転させ滑走していく場面が勇ましい。
出撃・戦闘シーンは、ミニチュアとCGがうまく調和しているようで、違和感なし。
せっかくいいドラマなのに、特撮がチャチで興ざめする、なんてことは全くありませんでした。
特技監督は沸田洋氏。さすがです。
それにしても、ここ数年の日本映画ばかり観てます。
現在のハリウッド映画、全く魅力を感じません。
次は「しゃべれどもしゃべれども」「憑神」あたりかな。
製作総指揮・脚本が石原慎太郎ということで、特攻をかなり美化しているのではないかという予想もあったようですが、さて。
結論からいうと、非常にバランスがとれた内容です。
軍上層部が「特攻」作戦を決定するところから始まるわけですが、その際、隊員の決定はは「志願」という名目の「命令」であると断言。
隊員や女学生たちの純粋な精神はしっかりと表現しつつ、作戦に疑問を持つ隊員や怖がる隊員、悲しむ家族、誇りであると称える家族など様々に描かれています。
隊員たちに親しまれている食堂のおばちゃん、トメさんが、明日出撃するという若者たちを笑顔で気持ちよく送り出す、その努力と愛情がよく伝わってきました。
それと特筆すべきは特撮シーン。
実物大の戦闘機・隼は、当時の設計図から作ったというだけあって、なかなかリアル。プロペラを回転させ滑走していく場面が勇ましい。
出撃・戦闘シーンは、ミニチュアとCGがうまく調和しているようで、違和感なし。
せっかくいいドラマなのに、特撮がチャチで興ざめする、なんてことは全くありませんでした。
特技監督は沸田洋氏。さすがです。
それにしても、ここ数年の日本映画ばかり観てます。
現在のハリウッド映画、全く魅力を感じません。
次は「しゃべれどもしゃべれども」「憑神」あたりかな。
戦争がいけないということと、戦前の日本人の生き方がいけないということをごっちゃにしているのが戦後のような気がするんですね、僕は。
人間のひたむきな純粋さがしたたかな人間によって利用されるのは戦前も戦後もほとんど変わらないのに。
ただ、戦争を別として、「自分の為だけに生きる」ことがふと最近淋しく不安に感じることがあります。
「誰かの為、何かの為に生きたい。そうしたものの為に自分の命を燃やし尽くしたい」
それを見つけたいのに見つからないから、アニメやドラマで燃えているキャラを見つけては、自分も熱くなっています(笑)
燃やし尽くせるだけのものに巡り合うことさえ困難なのが「平和」というものなのだろうか・・?と。
「燃えたい」のに、本気で「燃える」ということが「切ない」ということを潜在的に知っているから、自分らは長生きだけを考えてしまうのだと思います・・・。
石原慎太郎は、僕は意外と本音と建前の人だと感じていますので、いざとなったら逃げるヘタレ野郎な気がしています。
スパルタと言いながら、息子たちには七光り光線を浴びせまくる張子の獅子ぶりに、なんであんな人がまた都知事になるんだろうと首を傾げました。
慎太郎は『あらいぐまラスカル』をまず鑑賞したほうがいい。
切ないから・・・(苦笑)
結局、当時の軍上層部の極端に行き過ぎた精神論なんですよね。
国内外に日本人の心意気を見せ付けるという。
映画を見た人の中には、この意味がわからないという人も多いようですが、まあ、仕方ないですね。
これが正しいわけではないし。
「時代」なんだと思います。
以後、企業や営業の新人研修や、奇妙な宗教団体の洗脳ゼミなどでも似たようなことをよくやっているように思います。
自分を磨くとか男を磨くとかいうものが非合理的な益のない無意味な精進という行動に耐え、自分の精神力を極限までに晒した先に光が見えてくる!みたいな・・・
これは、純粋な人間、真面目な人間ほどハマリやすいことなんだと思うのです。
現に私も嫌いじゃないですし(笑)
昔、寺山修司が、「意味が無い意味が無いと言いますけど、意味が無いと言うのはもう無意味という意味になっている」と言っていましたが、それを民族的宗教観に照らし合わせたとき、「武士道とは、死ぬことと見つけたり」に結びつくのだと思います。
いかに死ぬか?=いかに生きるか?
しかし現代は、たいした「生」がないのに自分の「死」にだけ妙な意味をつけたがる傾向が高いと思うのです。
ビートたけしも言ってましたが、「国の為になんか死ねません!とか平気で言う。お前なんか国の為に死ねたらたいしたもんだって。うんこみたいな生しかない奴が、死にだけ妙な価値をつけたがる・・うんこみたいな生にはうんこみたいな死しかないのに」(笑)
奉仕の死が天国で神に救われるというある意味見返りを期待したものではなく、「死」というものが、「生きた証」を遺すことにのみ名誉がある、価値のある「生」だとする
、それが信じられた時代だから「生きる」ことを大事にできた・・というのかな・・・。
私は個人的には憧れはしても、なかなか怖いことだとも思います。
意味がわからない・・・?のは、それほど生きることの意味がわからなくなっているからで、生きることを本当に大事にしていないから、すぐに死そのものから目をそらしてしまう現代の風潮そのものだと思います。
生きることも死ぬことも、ゲームやアニメや、フェイクの中の話でしか意味が通じず、自分のリアルな実感として生きること死ぬことの痛みや喜びの手ごたえを見出せないのだと思います。
明日、確実に死ぬこと。死に向かって生きているということを、自分の力で見つけ出すということはまず、なかなか困難なわけですし、それが出来るのは現代ではヤクザか死刑囚くらいだと思います。
「はい、明日お前特攻ね!」と今日言われたら、自分ならどうするんだろう・・・?
数時間後、確実に死ぬ自分の命に向き合ったとき、はじめて本当に「生きている」ことに気がつくのだと思うのです。