op's weblog

文字通りのログ。経験したことや考えたことの断片のアーカイブ。

「空気」でけんか

2009年12月09日 10時11分57秒 | Weblog
COP15:合意草案、英紙が全文を報道 途上国反発、交渉に影響か - 毎日jp(毎日新聞)
国連気候変動枠組み条約第15回締約国会議(COP15)の議長国デンマークが作成した、ポスト京都議定書の政治合意に関する草案全文が8日、英紙ガーディアンのホームページ上で公開され、開幕したばかりのCOP15の会場で波紋を呼んでいる。

 公開されたのは11月27日付で全13ページの文書。COP15前に開かれた主要国だけの非公式会議に議長国が提示したと見られる。

しかし、途上国や環境NGOは強く反発している。中国の代表団は8日の記者会見で「工業化の過程にある途上国に頭打ちにする時期を設定するのは不公平だ」などと批判。環境NGO「FoEジャパン」の小野寺ゆうりさんは「報道で初めて文書を見た国もある。先進国と途上国の対立の中、議長国は橋渡しをしなければならないのに、中立性への疑問が生じた」と交渉への影響を懸念した。

日本の新聞のオンライン報道はこれぐらいだが、もっとえげつない話であることを、ニューズウィークのオンライン版が指摘している。

秘密文書で発覚、先進国の身勝手な陰謀 | ワールド | 最新記事 | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト
12月8日に英ガーディアン紙にリークされた「デンマーク文書」がそれで、デンマークとイギリス、アメリカを含む複数の国が作成した合意草案だ。温室効果ガスを規制する権限を富裕国に移すとともに、各国の排出量削減の調整役を果たしてきた国連に代えて、コスト意識の高い世界銀行の参加を提案している。

途上国にとって何より腹立たしいのは数字の部分だ。デンマーク文書は、貧困国が2050年までに1人当たりの温室効果ガス排出量を1・44トンに制限するよう求めている。その一方で、富裕国には1人当たり2・67トンを認めるという。

さらに、

COP15、中国が先進国の温室効果ガス削減目標を不十分と批判 :Reuters
中国の交渉責任者、Su Wei氏は、米国の削減目標を「注目に値しない」、欧州連合(EU)の削減目標を「不十分」としたほか、日本は実現不可能な前提条件を設定したと述べた。

 また、2012年までに先進国が途上国に対して行う見通しの年間100億ドルの資金提供について、焼け石に水だとして一蹴した。

さらに、日本が2020年までに90年比で25%削減するとの目標に「実現不可能な」前提条件を設けていると批判。

商売上、このゲームが早く一区切りついてほしい国と、なかったことにしてほしい国と、あと数年もめてほしい国があると。政治家も、科学者も、環境保護主義者も、ビジネス関係者も、主要プレイヤーが全てうさんくさすぎるのが難点ですが、そんなこととは(たぶん)関係なく自然は動いているわけで、「壁にとまった二匹のハエのどちらが早くとんでゆくかで賭けをする、酒場の山師たち」というジョークを思い出しました。

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「僕ちゃんにやらせろ!」と絶叫

2009年12月07日 22時01分28秒 | Weblog
「民主主義が一度もなかった国・日本」 (幻冬舎新書)読了。

福山さんはこの内容で納得したのだろうか?というのが最初の感想だった。

明確な主題を決め、ブレークダウンしたり、発展させてゆく感じではなく、残念ながら、宮台氏が喋りたいことを喋りたいだけ喋った以上でも以下でもないというのが全体的な印象だったこの本、次の感想は、

どんなセグメントに向けた本なのだろうか?

「ヤング・パーソンズ・ガイド」というには中途半端に小難しく、また、中盤以降時々出てくる、交渉や組織の意識改革等コミュニケーションのテクニック的なものなどは、実社会で経験をある程度積んでいない状態ではおそらく正しく理解できないだろう。一方、30代以降では逆に僕自身の経験上、コミュニケーションにおいて宮台氏よりエキスパタイズがある人が民間人でも(多分間違いなく官僚でも)たくさんいる。そして(コミュニケーション分野に限らず)戦術的な能力に長けた者達を啓発するにはこの本は無駄に複雑すぎ、肝心な部分への言及が不足している。折角現役閣僚の対談なのに、「よっしゃ、わかった。今はこういう状況だから、我々はこういう目標にこういう感じで行くんだな。(骨は拾ってくれるんだろうな?)じゃあ、あとは任せろ。」という気持ちにはならないだろう。その一方で「空気」で動く人たちにはこんな理屈っぽいばかりの本(話)は「届かない」。

ちなみに僕は日本人が駆け引き下手だとは思わない。ゲームのルールを知らないだけか、複数のゲームを同時にプレーしているため優先順位が下がってしまうためだ。日本には十分に頭の回転が早く、持久力があり、こういうことが得意な(好きな)人も多い。肝心なのは、新しいルールにより早く適応できる人材を、適切な部分にどんどん投入し、適応できない者が足を引っ張らないようにすることなのだ。

宮台氏はやはり仕入れた知識をひけらかしたい衝動を抑えきれないのだろうが、この本で取り上げたような、これから始めたり、進行中の“仕事”に用いる戦術の具体的な部分については、プロであれば絶対公にしないものだ。間違ったことを言っても、正しい(実際の当事者達が使うつもりだった)ことを言っても当事者達の足を引っ張ることになることがわかっているからだ。つまり福山氏のような立場の人間にとってそんなことを語られるのはうざったく、なまじ宮台氏が(特定層に)メジャーなインフルエンサーなため余計に迷惑なだけなのだ。

前書きという宣伝文句から期待したとおり、福山氏のフィードバックと学者による読み解きという内容にしてくれれば多分本当に充実した内容になったことだろう。

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要総合的なメンテナンスの継続

2009年12月02日 08時25分08秒 | Weblog
子供は多少汚い方が健康に育つ - スラッシュドット・ジャパン

という記事を見つけたが、僕のほうは脱ケミカル入浴を継続中。

いよいろ寒い季節になってきて、外出もなく、汗をかくような運動をしない日は、面倒になって風呂に入らないこともあったのだが、そうすると1日でも頭が結構臭うのが最近気になるようになった。まあ、毎日入浴して頭をしっかり流せばいいことなのだが、寒くなってからの方が抜け毛も増えたのだ。どうも気温の低下による、新陳代謝能力の低下をはじめとする体の機能低下を補う運動や食事といった対策の有無が体の変調につながるということに、人工的な匂いや皮膚の質感などの“偽装”がないだけに、より気がつきやすくなっているのではないだろうか。
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談合文化論

2009年12月01日 20時38分47秒 | Weblog
「談合文化論」(宮崎学著 祥伝社)読了。

題名だけ見ると、逆切れ的な談合賛美本かと思ってしまうが、(儀礼的な話ではなく、経済システムの特性としての)日本のビジネス文化の成り立ちについて分析・解説した、一種の日本経済史の解説書である。

よって、土木建設業界に代表される民間ビジネス(被支配層)と時代毎の権力者(支配者層)の関係の、戦国時代以降の歴史的な変遷についての解説がかなりの部分を占める。最初からきちんと読んでゆくことで得るものは多いが、サマリーが第13章の頭にあるので、それ以降著者が展開する論の裏づけを手っ取り早く頭に入れることもできる。

“自発的な標準コミュニティ”としてムラが誕生したこと。それは“権力者たち”が“支配”する国を、管理面の便宜上分割して出てきた統治の単位ではなく、対照的な出自であること。

権力者層は身分制度を守る限りという但し書きつきで、自治を行うムラに対して要求を行う形で統治してきた。だからその関係は完全に一方的なものではなく、絶対的な権力者層の弱い立場の百姓たちが従ってゆくというものではなかった。

ムラは、権力者が提示する“法”とは別により優先される“掟”を持っており、これは明文化されない暗黙の合意を含む。掟上判断がつかない揉め事は時間がかかっても徹底的に話し合って関係者が全て納得するようにし、これが談合のはじまりであった。

時代の権力者層が依頼し、褒美を与える形で土建業は成立してきた。臨時の人手を集めることができるポジションにいた者が口入れ屋になって人を集めるが、江戸時代に、擬似家族としての“組”の形をとることで安定した組織となった。

請負先の決定は、もともと、競争入札ではなく、指名入札もしくは特命随意契約で始まった。あくまで統治者対被統治者の関係なので、契約内容は命令とそれを遂行した結果いただける“恩恵的給付”からできており、
 それは一方で前近代的な人格依存関係‐人間同士の感情や精神態度を基盤にして結ばれる社会関係‐にもとづきながら、他方で近代的な物象的依存関係‐でもあるという関係なのである。これは、近代的な関係のなかにまだ前近代的要素が残っている、というようなものではなかった。新しい独特の社会関係なのだ。
 だから、前時代の残存物であれば、近代化が進めばばくなっていくものなのに、この関係は、社会の近代化が進んでも、形態が変わるだけで、ずっと存続してきたのである。(105ページ)

この支配者側のニーズに応える形で、明治以降も日本の近代産業、また「日本の資本主義」は成長してきた。
 明治維新後に、前近代の部分社会にあった自治、そこにあった掟の世界を上から解体して、近代の世界を強行的につくりだした日本は、戦後は、本来自己統治つまり自治である民主主義を、これまた部分社会すなわち掟の世界における自己統治の上にではなく、それとは切れたものとして外から理念としてもってきてふりまわしたのであった。それは、近代的な形で掟がふたたび創り出されることを阻んできたのだ。
 こうして薦められてきた日本の近代化によって、日本社会は、西洋の近代精神はみずからのものにならず、かといって伝来の日本精神は空洞化するという、虻蜂取らずの総仕上げに入っているのではないか。

高度経済成長が終わるまでうまくいっていた(らしい)、このスタイルについては、最近こんな記事も見つけた。
だから「指導者が優れているから、中国は高度に成長している」とは僕は思わない。そもそも高度成長期には、官僚主導の経済運営が適しているのは当たり前のことです。増え続ける富を分配するのは、強い権限を持った官僚が差配した方が効率的だからです。
(宋文洲です。北京で生活始めました:日経ビジネスオンライン)

グローバル化が進み、キャッチアップ型の経済成長が終わった今、官僚主導の経済モデルが通用しなくなった日本はどのような戦略をとるべきなのか?
では、どうしたらいいのか。
問題をすべて全体社会=国家に向けて統合し、そのうえでできるだけ平等に再分配していくという「集権平等」方式では、もううまくいかない。そうではなくて、部分社会=仲間集団が自律して問題に現場で取り組めるようにしていき、政府や自治体はそれを保障し支援するという「分権自治」方式に移行していかなければならないのだ。(267ページ)

結論は結構ポピュラーなものになっている。また、なんとなく世の中そっちの方へ行こうとしているようにも見える。だから問題は「総論賛成各論反対」の怒号の中でどうやってそれをスムーズに実現するかという部分なのだが、当然のごとく(笑)それについての具体的な提案はない。ただ、これは必ずしもアイデアがないわけではなく、ポジショントーク込みで、「ゴールに関する基本的なコンセンサスがきちんととれていれば、あとはそれぞれ頑張りましょう。」ということなのだろうな、と、僕は解釈している。

月並みな表現だが、やっぱりこれから数年は激動の時代なのだろうな。以前はもっと静かに時間をかけて腐ってゆき、あるときポトンと落ちるイメージでいたのだが。
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“ソロスの法則”ネット版

2009年12月01日 16時44分50秒 | Weblog
Google は非リア充にムチ打つようだ - スラッシュドット・ジャパン

という記事を見つけて、

クリスマスケーキ 一人用 - Google 検索

をクリックしてみたら、既に検索上位はこのネタ記事に関するものばかりで、「もしかして…」表示もなくなっていた。

金融市場も“検索市場”も(公営賭博も?)インフラは同じようなものなので、こういう現象が起きるということか。

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