治りかけの風邪と専門外の論文を相手にした仕事の締め切りのため、断片的に聞き流していた「ザ・シネマハスラー」でちょっと興味を持ち、気分転換も兼ねてシングルマンを観に行ってきた。
先に書いておくと、本編が始まってすぐ僕は変なトラップ(製作側が意図したものではない)にひっかかってしまい、また、情報発信側と周波数がうまく合わないような状況で観終わってしまった。だから帰宅後「ザ・シネマハスラー」を聴き直したのだが、僕とは対照的に、宇多丸氏はうまく映画からのメッセージをキャッチして、とてもいい批評をしていた。僕が実際に批評対象の映画を観たうえで聴いた「ハスラー」としては一番に近いものかもしれない。だから僕はもう一回観に行くべきかもしれない。
さて、僕が最初にひっかかったトラップとは、音と画質のことで、バルト9の責任ではないかもしれないが、まず映画の内容に不釣合いなほど音が大きく感じた。これは僕の体調のせいかもしれない。そして画質だが、最初から1960年代の風景とその頃の映画の雰囲気があまりにも忠実に再現されていたために(厳密にはどこまでそうかは知りません)、何と言うか「古い画質の映画を観るモード」に入ってしまったのだ。だから話が進むにつれて微妙に変化してゆく画面のタッチを無意識に無視して観てしまったのだ。ついでに主人公が身につける物や、自宅の様子もあまりにフィットしすぎていて、お約束のようにある“綻び”がなく、つまるところ演出的には感情面でひっかかりやすいフックが少ないトラップにひっかかった形となった。これは僕のセンスの問題かも知れないが、多分監督の好みの問題も少しはあると思う。
音と画質の件はさておき、僕がうまくこの映画のメッセージをキャッチできなかったのは、まず孤独に関する経験のし方の違いだと思う。僕はセクシャル・マイノリティではない(潜在的にはどうか知らないけれど)が、この種の孤独感は非常によく理解できるし、多分いつの時代にも実は少なくない人たちがそれぞれの形で味わってきたことなのだろうと思う。ただ、この映画の主人公はそれでも16年間だったか、それを埋める幸福を分かち合うことができた(もちろん、だからこそ喪失感も大きいのはわかっている。多分。)。しかし世の中には、いつまでかわからないが、既に若くないにも関わらず、昔からそしてこの先も一人で厳しい戦いをしてゆくしかないと観念する性質の何かを抱えた人もいるのだ。
で、より普遍的な形式で考えた喪失の物語としての本作品のストーリーを追ってゆくと、やはり普遍的な救済、つまり世の中を赦し受け入れ、もしかしたら少しとんちんかんで、完全に満たされることはないけれど、それでも全くのひとりではないことを感じられる様々な「好意(うつくしいもの)」に時々支えられながら何とかやってゆこうと主人公は最後に決める。だからこの映画の終わりは、主人公にとって残念と考えるか、救われたあとでまあよかったじゃないかと考えるか意見の分かれるところだろう。特にキスをして歩み去ってゆくパートナーを見る主人公から感じ取れるのは孤独と絶望か、無常か、スタイルか、それとも他の何か?
僕は、(ふくろうではなく)小鳥かうさぎのように終わってるなあと何となく思った。
先に書いておくと、本編が始まってすぐ僕は変なトラップ(製作側が意図したものではない)にひっかかってしまい、また、情報発信側と周波数がうまく合わないような状況で観終わってしまった。だから帰宅後「ザ・シネマハスラー」を聴き直したのだが、僕とは対照的に、宇多丸氏はうまく映画からのメッセージをキャッチして、とてもいい批評をしていた。僕が実際に批評対象の映画を観たうえで聴いた「ハスラー」としては一番に近いものかもしれない。だから僕はもう一回観に行くべきかもしれない。
さて、僕が最初にひっかかったトラップとは、音と画質のことで、バルト9の責任ではないかもしれないが、まず映画の内容に不釣合いなほど音が大きく感じた。これは僕の体調のせいかもしれない。そして画質だが、最初から1960年代の風景とその頃の映画の雰囲気があまりにも忠実に再現されていたために(厳密にはどこまでそうかは知りません)、何と言うか「古い画質の映画を観るモード」に入ってしまったのだ。だから話が進むにつれて微妙に変化してゆく画面のタッチを無意識に無視して観てしまったのだ。ついでに主人公が身につける物や、自宅の様子もあまりにフィットしすぎていて、お約束のようにある“綻び”がなく、つまるところ演出的には感情面でひっかかりやすいフックが少ないトラップにひっかかった形となった。これは僕のセンスの問題かも知れないが、多分監督の好みの問題も少しはあると思う。
音と画質の件はさておき、僕がうまくこの映画のメッセージをキャッチできなかったのは、まず孤独に関する経験のし方の違いだと思う。僕はセクシャル・マイノリティではない(潜在的にはどうか知らないけれど)が、この種の孤独感は非常によく理解できるし、多分いつの時代にも実は少なくない人たちがそれぞれの形で味わってきたことなのだろうと思う。ただ、この映画の主人公はそれでも16年間だったか、それを埋める幸福を分かち合うことができた(もちろん、だからこそ喪失感も大きいのはわかっている。多分。)。しかし世の中には、いつまでかわからないが、既に若くないにも関わらず、昔からそしてこの先も一人で厳しい戦いをしてゆくしかないと観念する性質の何かを抱えた人もいるのだ。
で、より普遍的な形式で考えた喪失の物語としての本作品のストーリーを追ってゆくと、やはり普遍的な救済、つまり世の中を赦し受け入れ、もしかしたら少しとんちんかんで、完全に満たされることはないけれど、それでも全くのひとりではないことを感じられる様々な「好意(うつくしいもの)」に時々支えられながら何とかやってゆこうと主人公は最後に決める。だからこの映画の終わりは、主人公にとって残念と考えるか、救われたあとでまあよかったじゃないかと考えるか意見の分かれるところだろう。特にキスをして歩み去ってゆくパートナーを見る主人公から感じ取れるのは孤独と絶望か、無常か、スタイルか、それとも他の何か?
僕は、(ふくろうではなく)小鳥かうさぎのように終わってるなあと何となく思った。
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