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柿本朝臣人麻呂は天智天皇を大王とたたえた

2017-10-02 00:23:24 | 65柿本朝臣人麻呂のメッセージ

柿本朝臣人麻呂の登場

人麻呂の歌は、巻一の持統天皇の御製歌「春過ぎて夏来たるらし白妙の衣乾したり天の香具山」(28番歌)の次に置かれています。持統天皇の御代になって活躍した人のようですね。

しかも、29番歌の題詞には「近江の荒都を過ぎる時、柿本朝臣人麻呂の作る歌」とあり、作者名より前に状況や地名が書かれていますから、研究者の説によれば「これは公的な場で詠まれた歌」ということになります。人麻呂が公的な場で詠んだのは、滅びた王朝への鎮魂歌でした。

 

それにしても

 柿本朝臣人麻呂の「朝臣」は壬申の乱で活躍した臣下に与えられた姓(かばね)です。すると、柿本氏は天武天皇側で働いていたことになります。または、近江朝を裏切って天武天皇側に乗り換えたのか、です。

そんな天武朝側の臣下である柿本朝臣人麻呂が、滅ぼした近江朝を追慕し追悼しているのです。やや違和感があります。そして、近江朝こそ畝傍に即位した神々の皇統だと歌うのです。

では、人麻呂の歌を読んでみましょうね。

「玉だすき」の「たすき」は、「うなじ」に掛けることから「うね」にかかります。神祭りをする時、掛けるものが「玉だすき」なのでしょう。

神々しい畝火山を氏山とし、麓の橿原に王朝を開いた日知王の御代から 神として顕れられた神々のことごとくが、栂の木のように次々に天の下をお治めになられたのに、その倭を置き去りにして、青丹を均したような平山(ならやま)を越え、どのようにお思いになられたから、都より遠く離れた田舎であるのに、石走る淡海の国のささなみの大津宮で天の下をお治めになられたのであろうか。その天皇の神の命の大宮は此処だと聞くけれど、大殿は此処だと云うけれど、そこは春草が生い茂っている。春霞が立ち、霞んで見える大宮処を見ると悲しいのだ。

「空みつ倭国は畝傍山の王朝から始まり、その王朝は「日知り王」として倭を統治してきた」と、王朝の始まりを述べています。すると、畝傍を氏山とする一族が倭国のはじめの支配者だったと、人麻呂は認識していたのですね。

しかし、「天智天皇は、なぜか大和を捨て淡海の大津宮に遷都した」と、近江が田舎だったこと、人心が近江遷都をいぶかったことがわかります。

「その王朝は滅び、その宮殿跡は荒れ果てている」壬申の乱から二十年ほど経っていますから、草木は茂っていたでしょう。宮跡に住む人もいなかったのです。

この長歌を聴いていたのは、もちろん持統天皇です。詩歌の言葉の一つ一つが女帝を慰めたのでしょう。持統天皇は近江の都を十分に知っているのです。大宮も、大殿も、舟遊びの岸辺も、華やかな宴も、近江の穏やかな小波も、十分に知っていたと思います。

人麻呂は女帝に寄り添って近江朝を詠んだと私は思います。

ここでは、天武朝を詠んでいません。畝傍山の皇統を詠い、天智天皇を追慕しています。持統天皇の御代であれば、天武天皇崩御の後月日もたいして経っていないはずです。それでも、天武天皇ではなく天智天皇を懐かしみ、深く偲ぶ持統天皇。その心の内を人麻呂は知っていたのです。

 持統天皇がなぜ天智天皇を深く思っていたのか、以前も書きましたから、お分かりですよね。


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