柿本朝臣人麻呂が歌に込めたメッセージ
宮廷歌人とされる柿本人麻呂の歌は八十八首(長歌19・短歌69)、人麻呂歌集の歌は、三百六十九首(長歌2・短歌332・旋頭歌35)、人麻呂の歌の中(短3)
柿本朝臣人麻呂が詠んだ歌は、計 四百六十首
このように多くの歌の中に、柿本人麻呂はどんなメッセージを込めたのでしょう。舎人皇子に献じた歌を読んでみましょう。
おや、ちょっと意味深な歌になっていますね。万葉集には叙景歌はないそうです。まして、人麻呂がただの風景を詠んだとは思えませんから、何かの事情や出来事を詠んだとすると、変な空気が漂っています。霧とか雲などは、霊魂とか人の思いとかが顕れたものだと古代の人は考えました。多武峰の山霧は藤原鎌足の霊魂なのでしょうね。すると、藤原氏側は舎人皇子を邪魔だと考えていたのですね。
舎人皇子の父は天武天皇ですし、母は新田部皇女(天智天皇の娘)ですから、高貴な出自の皇子となります。まだ幼い軽皇子には大きなライバルだったようですね。
その皇子に、人麻呂が献じた歌なのです。
この歌の通りの中身であれば、人麻呂は舎人皇子の成長を願い、その身の安全を危惧していたことになりますね。舎人皇子も十分に承知して、歌を返したと云うことでしょうか。1704・1075・1076と、三首は並べて置いてあるのです。
舎人皇子は、天武五年(676)の生まれです。人麻呂が活躍した持統朝では、藤原氏が力を発揮し始めていました。草壁皇子も、天武天皇が愛した大津皇子も既にこの世の人ではありません。草壁皇子の忘れ形見の軽皇子(文武天皇)は、天武一二年(683)の生まれで、舎人皇子より八歳ほど年下でした。藤原氏としても焦ったことでしょう。舎人皇子が成人していくほどに、不穏な空気が漂ったということでしょうか。
鎌足が眠るという多武峰の談山神社の今年の春の写真です。不比等と定恵がここに鎌足の亡骸を移して祀ったと云います。ですから、多武の峯といえば、藤原氏・天智天皇の忠臣である鎌足を意味したのです。
では、舎人皇子に献じた歌を読むかぎり、人麻呂は藤原氏に対して心を許していなかったと云うことになりますね。ここは、重要ですね。
人麻呂は天智天皇を偲ぶ歌を作りましたから、天武天皇に対して気持ちに温度差があるのかと思いましたが、その皇子に対しては深い愛情を感じていたのでしょうか。
他の皇子に対してどんな歌を読んだのか、気になるところですね。
それは、今度。
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