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48高松塚古墳の謎は解ける

2017-03-18 00:39:12 | 48高松塚古墳の謎を解く

高市皇子の薨去と謀反事件

ヨミガエリを拒否された大王・高市皇子

高松塚古墳が発掘された時、その埋葬の様子が問題になりました。

石室は狭いのですが、壁画があり、それが大きな話題となったので、その為に他の事実が目立たなくなってしまいましたが、当時、被葬者は「何か罰を受けるような、事件に巻き込まれた人」であるとされていました。

わたしの記憶が確かであれば、遺体の様相が問題だったと思います。頭蓋骨がなかった…首の骨は有ったので斬首ではないと。この話題はいつの間にか消えたようですが、問題が解決されたのではありません。

埋葬当時から頭蓋骨が抜き取られていた(小さな骨、甲状軟骨・舌骨などは残る)のでしょうか? それとも、埋葬後何らかの事情で陵墓に手が入ったのでしょうか、長屋王事件の後とかに。被葬者は筋骨の発育のいい壮年男性で、7世紀末に死亡。

梅原氏は「人骨に頭蓋骨がない・鞘のみで、大刀の刀身が抜かれている・日月像と玄武の顔が削られていた」これは、呪いの封印で、被葬者のヨミガエリを阻止したのだという。 ですから、軽皇子(文武帝)の立太子に異議を申し立てた弓削皇子が被葬者と、梅原氏は主張されました。高市皇子だと言ったのは原田大六氏だけです。

わたしは、ずっと草壁皇子だと思っていました。それは、治田神社(岡宮跡・草壁皇子が育った)と、高松塚石室と、岡宮天皇陵が直線で結ばれるからでした。所縁の宮と改葬前の墓とを結び、尚かつ耳成山の真南に位置するのは、草壁皇子の墓以外には考えられないと思っていました。数年前に、ブログにもそう書きました。

(治田神社と岡宮天皇陵を結ぶラインは、高松塚古墳の石室の上を通ります)

しかし、出土した歯の鑑定が壮年男性となったので考え直したのです。では、「後皇子尊」と尊称で呼ばれた高市皇子以外にないと結論しました。高市皇子ならヨミガエリを阻止された大王(天武朝に皇統が移ることを阻止した)だったと十分考えられます。(では、文武天皇の血統は天武朝ではなかったということになりますが、ここでは触れません)だからこそ後世に、耳成山と高松塚古墳の間に文武陵を築造したのです。そして、岡宮天皇陵(草壁皇子の陵)も束明神古墳に改葬した、と考えます。

(高松塚の真北に、中尾山古墳=文武天皇陵が耳成山と高松塚古墳の間に入る)

(岡宮天皇陵ではなく、束明神古墳が草壁皇子の墓という。写真は復元された石室)

そうなると、高市皇子の死は再検証しなければなりません。なぜ、あの時期に薨去しなければならなかったのかを。しかも、謀反事件には共通点がありそうです。

 謀反事件には共通点がある

有間皇子の場合

658年 中大兄皇子の息子の建王没(5月)斉明天皇も嘆きました。

半年後に、有間子に謀反の疑い(11月)有間皇子没

蘇我系女子が生んだ建王の死で、中大兄は後継者を亡くしたことになった。大友皇子は後継者となれなかったから、中大兄は後年「不改常典」を考えた。嫡子の皇位継承の法則を大友皇子で実現するため、「改めべからざる常の法」を持ちだすことになったと思われるのです。 

高市皇子の場合

太政大臣という最高位についていたが、文武天皇の元服が近くなった。

696年 高市皇子没(7月)絶妙のタイミングに薨去したとは…

半年後に、697年 軽皇子立太子(2月)が立太子され、

半年後に、軽皇子(文武天皇)即位(8月)

軽皇子の立太子と即位が滞りなく行われるには、高市皇子の存在が邪魔だったとしか考えられない。高市皇子がいては文武天皇(藤原氏側)が即位できない可能性があった。

 ③氷高内親王の即位の場合??

714年 首皇太子元服(14歳)*藤原氏は次の年の即位を考えていた?

715年 長皇子(6月)穂積皇子(7月)志貴皇子(8月)没 *三人の皇子が!

     氷高内親王即位(9月)*元明天皇の熟慮の結果

独身だった氷高皇女(元正天皇)には身分が高すぎて嫁ぎ先がなかった(?)か、藤原氏としては、皇位継承者を拡散するつもりはなかったので結婚は避けた。藤原氏は、首皇子(文武天皇の子・聖武天皇)を元服させ、即位準備は十分に整っていたが、元明天皇は娘の氷高皇女を即位させた。それは何故か? このことは後に触れましょう。

長屋王の場合

727年 藤原光明子の産んだ基王が生まれてひと月で立太子

728年 基皇太子一歳で没(9月) *藤原氏には大打撃

半年後に、729年 長屋王、謀反の密告で自刃(2月)

聖武天皇と光明子の間に生まれた基王は生後すぐに立太子されたが、一歳ほどで死没。藤原氏側はすぐさま長屋王家の滅亡を図ったという、将に陰謀だった。 

壬申の乱後の謀反事件は、 壬申の乱のいびつさから引き出された

壬申の乱が天武朝に大きく入り込み、その亀裂に入り込んだ藤原氏が様々な策を講じて律令政治を掌握し、後の横暴につながっていくと思うのです…

天武天皇の謀反事件とも思われる壬申の乱が、結果として天武朝の王子が次々に命を絶たれていくという展開につながる大きな要因だと思うのです。万葉集を読むかぎり。

 7世紀の天武朝の謀反事件で、忘れてはならない事件がありました。

朱鳥元年の大津皇子謀反事件です。ここで、大津皇子が死を賜ったことが、結果的に天武朝の滅亡へと展開していくのですからね。天武帝の寵愛を一身に受けた大津を死なせたことが、天武帝の後宮をバラバラにしたのです。大津を殺して、他の誰を天武帝の後継者にするのだ? その責任は高市皇子にもありました、大津皇子を断罪したのですから。

大津皇子の死後三年、皇太子草壁皇子が薨去します。即位せず、皇太子のままでしたが、その死の顛末は何も語られていませんが、大津事件が影を落としていたことは十分に考えられます。日並皇子尊(ひなみしのみこのみこと)とは、死後に贈られる諡号ではないかと言われています。すると、皇太子という地位も死後に与えられたのかも知れません。死後に天皇の称号を与えられた皇子もいますから、考えられないことではありません。

人麻呂は挽歌を献じましたね、草壁皇子にも高市皇子にも。ですが、大津皇子の挽歌は詠まなかったようです。しかし、大津皇子の臨死の歌も姉の大伯皇女の歌もきちんと集めました。謀反発覚の前後を万葉集に残したのは何故でしょうか。答はひとつ、重要な皇位継承者であった大津皇子を忘れてはならなかったし、その死を心から傷み鎮魂の意思があったからです。他に考えられません。

また明日


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