いつからだろう。
もしかしたら、昔からそうだったかもしれない
例えば10年前の自分を思いだそうとすると、自分の思い出としてコーティングされた自分しか記憶にない。
別に10年前でなくても5年前の自分、1年前の自分と今の自分とを比較しようとしても、自分の記憶に確信がもてないために、『自分は昔と変わった』と自信を持って言い難いと感じる。
比較する対象が記憶ではないもの、例えばこのブログの中での文章の比較ならそれも可能かもしれない。
自分は成長しているだろうか?発展しているだろうか?
少なくとも、過去に盲信的に学んでいた偏った経営者思想、歴史観、自己啓発、人生観、倫理観などに対して疑問を抱き否定的な考え方も出来るようになったことは、一つのステップアップだったと思う。
もしかしたら、それは成長でも発展でもなく、適応しただけなのかもしれない。
カメレオンのように、背景が変われば体色を変える。
色を変化させたことで、それを成長と錯覚しているだけかもしれない。
久しぶりに会う人に『変わったね』とか『変わらないね』とか言われることにどう対応していいかわからない。
彼らは、僕の適応した姿をみてそういっているのか、成長した姿か…。
なんてことを、最初の2文から考えてしまった。
本当は別のことを書こうと思っていたのに…。
年寄りは、つい長話したくなるからいかんな。
年下に話すときも説教臭くてイヤになる。
もしかしたら、昔からそうだったかもしれない
例えば10年前の自分を思いだそうとすると、自分の思い出としてコーティングされた自分しか記憶にない。
別に10年前でなくても5年前の自分、1年前の自分と今の自分とを比較しようとしても、自分の記憶に確信がもてないために、『自分は昔と変わった』と自信を持って言い難いと感じる。
比較する対象が記憶ではないもの、例えばこのブログの中での文章の比較ならそれも可能かもしれない。
自分は成長しているだろうか?発展しているだろうか?
少なくとも、過去に盲信的に学んでいた偏った経営者思想、歴史観、自己啓発、人生観、倫理観などに対して疑問を抱き否定的な考え方も出来るようになったことは、一つのステップアップだったと思う。
もしかしたら、それは成長でも発展でもなく、適応しただけなのかもしれない。
カメレオンのように、背景が変われば体色を変える。
色を変化させたことで、それを成長と錯覚しているだけかもしれない。
久しぶりに会う人に『変わったね』とか『変わらないね』とか言われることにどう対応していいかわからない。
彼らは、僕の適応した姿をみてそういっているのか、成長した姿か…。
なんてことを、最初の2文から考えてしまった。
本当は別のことを書こうと思っていたのに…。
年寄りは、つい長話したくなるからいかんな。
年下に話すときも説教臭くてイヤになる。