前回に引き続き、アウトテイク集。それぞれの断片の脈絡は、ほとんどない。個人的なつぶやき以上のものではない断片も、たぶんある。
■
自明性を疑ったことのない国民。
自明性を揺るがす発言への敵視。
秩序ある国、日本は、このまま「秩序ある自滅」に向かっていくのだろうか。
■
民はこれに由らしむべし。これを知らしむべからず。
──論語より
本当のニュアンスは、現在の用法とは違うことに注意。
論語的ホームページ作成塾 より
つまり、元の意味は「人々を(為政者に)頼らせることはできても、(為政者の本意を)理解させるのは難しい」なのだけど、現代に至るまで後の「為政者」は、「どうせ言ったってわからないんだから、とにかく頼らせりゃいい」という、愚民政策の正当化に使っていると。
ただ、最近は間に挟まるマスコミや「わかりやすい」評論家のおかげで、「為政者の本意」を理解した気になって、その上で「自粛」したり「協力・団結」したり、つまりは体制に頼っている市民が多数派なので、上の孔子の言葉はますます複雑な位相に投げ込まれている、といえる。
■
「朝まで生テレビ」をきちんと観たことはほとんど、一度か二度しかない。観終わって、必ず後味が悪い、そういう番組は貴重だが、なくなっても別に惜しくない。
昔々、阪神・淡路大震災の後だったか、その「朝生」で原発の耐震性が話題になった時、「原発は街中のどの建物より安全だ。地震があったら原発に逃げ込むのがいい。僕ならそうする」と言ったやつがいた。ほんとだな?絶対そうしろよ!と僕は思った。
発言の主は、当時評論家、後に自民党、現新党改革の舛添要一。
■
今日、ブックオフに寄って新書コーナーで本を探していたら、SF作家・豊田有恒の「日本の原発技術が世界を変える」というスゲエー本を見つけて、こんな表現はネット厨みたいで嫌いだが、文字通り「吹いて」しまった。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4396112254/theworldtrasr-22/
小説も子供騙しでつまらなかったけど(学生時代に読んだ印象)、根っからそういうおっさんだったんだな。
しかし、このタイトルだけはある意味先見の明があったわけである。だって本当に、日本の原発技術が世界を「変えて」しまったのだから。
だがもちろんそれを買ったりはせず、前から読みたかった森達也/森巣博の「ご臨終メディア」という本を買った。
http://shinsho.shueisha.co.jp/kikan/0314-b/
■
原発廃止は何よりモラルの問題。
「事故を受け、誰だって胸を痛めている」と言うやつがいる。「誰だって」?「胸を痛めて」?
悲しみにモラルはない。廃止の意思表示以外にモラルはない。
たかだか世論調査で廃止の意思表示をすることに、どんなリスクがあるというのか?それすらできないやつに、俺はモラルを認めない。クソ、クソ、クソだ。
■
「大多数の人々は、心の底において、意識的・意図的に邪悪であるというよりも腐敗しているものであり[…]、こうした人々の心の原始的な単純さを考えると、小さな嘘より大きな嘘に簡単に騙されがちである。というのも大多数の人々は、小さな嘘は平気でつけるが、大きすぎる嘘は恥ずかしくて躊躇するからである」──アドルフ・ヒトラー
(出展:「アメリカの国家犯罪全書」、作品社)
■
結局、思想的に敗北している輩が何をやってもだめだ、式の考え方に俺は同調できない。人間誰しも悪いところ、いたらないところがあっても、とにかく動き出さなければならない瞬間というものがある。広く知見をもって、行動に伴う様々なリスクを意識して、それらをできるだけ排除しながら、できる限りいい結果を目指すべきなのは、市民運動であれその他の活動であれ、ごく当たり前のことだ。だがその見通しがきちんと立って、悪い反作用を誘い出さずに済むようになるまでは何もやってはならない、というのは完璧に間違いだ。
根本的に、俺という人間は、良い行いは良い人間にしかできない、という考えにまったく賛成できない。どんな極悪人だって、人を助けたり、役に立ったりできる。反対に、どんなに立派な、聖人のような人、天才的に頭脳明晰な人であっても、クソみたいなことをやっていたら、それはクソなのである。
行動にあたって、肝心なのは「人」ではない。その人の「考え」を採用するか否か、である。「人」を持ち上げるな。「人」に引きずられるな。みんなそれぞれの人生を頑張ってる、「人」とはそれだけのことだ。
思想的に立派な、行いの正しい善良な人間でなければ、正しいムーヴメントを起こせないというのなら、そんなムーヴメントに俺は参加したくない。俺は、だめなやつがだめなりに参加できる行動にしか興味はない。だめなやつに、それはダメとはいえないんだよとおためごかして、「いい人間」「優れた人間」になった気にさせて、その後でなければ進められない、そんな活動には興味がない。
その意味で、俺は「活動家」にはなりたくない。断じて。
■
自明性を疑ったことのない国民。
自明性を揺るがす発言への敵視。
秩序ある国、日本は、このまま「秩序ある自滅」に向かっていくのだろうか。
■
民はこれに由らしむべし。これを知らしむべからず。
──論語より
本当のニュアンスは、現在の用法とは違うことに注意。
論語的ホームページ作成塾 より
つまり、元の意味は「人々を(為政者に)頼らせることはできても、(為政者の本意を)理解させるのは難しい」なのだけど、現代に至るまで後の「為政者」は、「どうせ言ったってわからないんだから、とにかく頼らせりゃいい」という、愚民政策の正当化に使っていると。
ただ、最近は間に挟まるマスコミや「わかりやすい」評論家のおかげで、「為政者の本意」を理解した気になって、その上で「自粛」したり「協力・団結」したり、つまりは体制に頼っている市民が多数派なので、上の孔子の言葉はますます複雑な位相に投げ込まれている、といえる。
■
「朝まで生テレビ」をきちんと観たことはほとんど、一度か二度しかない。観終わって、必ず後味が悪い、そういう番組は貴重だが、なくなっても別に惜しくない。
昔々、阪神・淡路大震災の後だったか、その「朝生」で原発の耐震性が話題になった時、「原発は街中のどの建物より安全だ。地震があったら原発に逃げ込むのがいい。僕ならそうする」と言ったやつがいた。ほんとだな?絶対そうしろよ!と僕は思った。
発言の主は、当時評論家、後に自民党、現新党改革の舛添要一。
■
今日、ブックオフに寄って新書コーナーで本を探していたら、SF作家・豊田有恒の「日本の原発技術が世界を変える」というスゲエー本を見つけて、こんな表現はネット厨みたいで嫌いだが、文字通り「吹いて」しまった。
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4396112254/theworldtrasr-22/
小説も子供騙しでつまらなかったけど(学生時代に読んだ印象)、根っからそういうおっさんだったんだな。
しかし、このタイトルだけはある意味先見の明があったわけである。だって本当に、日本の原発技術が世界を「変えて」しまったのだから。
だがもちろんそれを買ったりはせず、前から読みたかった森達也/森巣博の「ご臨終メディア」という本を買った。
http://shinsho.shueisha.co.jp/kikan/0314-b/
■
原発廃止は何よりモラルの問題。
「事故を受け、誰だって胸を痛めている」と言うやつがいる。「誰だって」?「胸を痛めて」?
悲しみにモラルはない。廃止の意思表示以外にモラルはない。
たかだか世論調査で廃止の意思表示をすることに、どんなリスクがあるというのか?それすらできないやつに、俺はモラルを認めない。クソ、クソ、クソだ。
■
「大多数の人々は、心の底において、意識的・意図的に邪悪であるというよりも腐敗しているものであり[…]、こうした人々の心の原始的な単純さを考えると、小さな嘘より大きな嘘に簡単に騙されがちである。というのも大多数の人々は、小さな嘘は平気でつけるが、大きすぎる嘘は恥ずかしくて躊躇するからである」──アドルフ・ヒトラー
(出展:「アメリカの国家犯罪全書」、作品社)
■
結局、思想的に敗北している輩が何をやってもだめだ、式の考え方に俺は同調できない。人間誰しも悪いところ、いたらないところがあっても、とにかく動き出さなければならない瞬間というものがある。広く知見をもって、行動に伴う様々なリスクを意識して、それらをできるだけ排除しながら、できる限りいい結果を目指すべきなのは、市民運動であれその他の活動であれ、ごく当たり前のことだ。だがその見通しがきちんと立って、悪い反作用を誘い出さずに済むようになるまでは何もやってはならない、というのは完璧に間違いだ。
根本的に、俺という人間は、良い行いは良い人間にしかできない、という考えにまったく賛成できない。どんな極悪人だって、人を助けたり、役に立ったりできる。反対に、どんなに立派な、聖人のような人、天才的に頭脳明晰な人であっても、クソみたいなことをやっていたら、それはクソなのである。
行動にあたって、肝心なのは「人」ではない。その人の「考え」を採用するか否か、である。「人」を持ち上げるな。「人」に引きずられるな。みんなそれぞれの人生を頑張ってる、「人」とはそれだけのことだ。
思想的に立派な、行いの正しい善良な人間でなければ、正しいムーヴメントを起こせないというのなら、そんなムーヴメントに俺は参加したくない。俺は、だめなやつがだめなりに参加できる行動にしか興味はない。だめなやつに、それはダメとはいえないんだよとおためごかして、「いい人間」「優れた人間」になった気にさせて、その後でなければ進められない、そんな活動には興味がない。
その意味で、俺は「活動家」にはなりたくない。断じて。
福島と女川に限って言うと、老朽化云々より、ポイントは非常用電源が生きてたかどうか、みたいですね。
ともあれ、次の震災の際は最寄の原発へどうぞ。十中八九大丈夫だと、俺も思いますよ。俺は行かないけど。