弱い文明

「弱い文明」HPと連動するブログです。 by レイランダー

アウトテイク・フラグメンツ─1

2011年07月19日 | 原発 3.11 フクシマ
 時々ミュージシャンが、「アウトテイク集」というようなモノを出す。ネタに困ったミュージシャンが、レコード会社との契約上なんらかのアルバムを出さなきゃいけなくて、録りためてあるボツ作品のうち比較的まともなものをかき集めて一枚の作品にしてしまう、なんていうケースが一つ。でも時として、どのアルバムにもコンセプト上当てはまらないから収録は見送られたけど、それ自身力を持った作品なので、ある程度傾向が似たものと合わせて、後日別のコンセプトの元にまとめた、という積極的なケースも。
 文章でも似たようなことがあって、たとえばこのブログでは、各エントリーごとにそれなりにまとまった「論説」っぽいものを書くことが多いけど、どこに書いていいか・どうまとめていいかわからない断片的なきれっぱしというのも日頃メモしている。特に3.11以降、そういう断片がどんどん溜まっていって、その大部分は「これ今さら書いてもな・・・」という感じで、賞味期限が切れて廃棄されていくんだけど、なかで時々「これって大事じゃね?たぶん・・・」というネタもある。
 そういうわけで、とても一つのコンセプトの元にまとめる、という綺麗な形にはならないけれど、
・3.11以来、気がついたこと、考えたこと
・とりとめなく、リンクする記事もあまりなく、単に自分の考えたこと
・ニュース性は乏しいが、賞味期限が切れたというわけではない話など
・よくわからないが、黙っているより書いてネットに投げ込んでしまうのがいいんじゃないかと思うこと
──
などなどを、選びながら書いてみると、何か意味があるかもしれない、と。おそらく、どこまでは意味があって、どこからは意味がない──みたいな境い目ギリギリを意識すること自体に意味があるのかも。



 思い返してみた。
 自分は今まで、明らかに原発に反対していながら、しかし同時に自分の知らないメリットというものが、原子力関係の各分野においてちょぼちょぼずつあるのだろう、と漠然と考えていた。大部分は、専門家にしかわからないような、科学研究の諸分野におけるメリットのことである。ただし、そんなメリットがいくつかあったとしても、総合的にはデメリットの方が大きいはずだからやめるべき、という考え方をしていた。
 3.11以来、あらためて原発のことを丹念に調べていくと、自分があると思い込んでいた「各分野におけるわずかずつのメリット」などというものすら、実はどこにもないのではないか、という疑いを持たざるをえなくなった。少なくとも、推進派・反対派を問わず「科学者」や「技術者」という人たちの話を聞いたり読んだりするなかに、「そりゃよかったことだね」と思える事柄が、結局一つも見つからないのだから。
 原発は本当に、原子力利権に群がる人たちにとって以外、メリットがなかった。すべては金と栄誉と惰性だった。それに気がつかなかった自分は、本当に甘かったと思う。

 たとえば京大の小出さんや今中さんたちは、将来の漠然とした核武装のオプションということが、国の原発推進の隠れた理由ではないか、と言う。これに賛成する見方の人も多い。だが一方で、防衛問題に詳しい一部の人からは、「日本の核武装」自体が防衛上のメリットは皆無(どころか、日本を孤立無援の窮地に追い込む暴挙)であり、現実味ゼロである、という指摘もある。日本の核武装論は、現実の国際関係を度外視した(というより無知そのものである)、「国家の威信」幻想の信者にとってのみ、通用する。
 それと対米従属右派の「あいまいな核武装論ちらつかせ」は、別である。本気で作る気はないけど、いつでも核爆弾作れますぜという「ちらつかせ」が、今の国際関係上有効だと信じている限りにおいて、原発はあった方がいいものだろう。
 ただ、それにしたってプルトニウムはもう有り余るほど作ってある。となると、結局「ちらつかせ」論者にとってすら、これ以上の原発「推進」は無意味なのではないか。
 やっぱり金か。金と惰性と、見かけの栄誉か。



 管直人の「脱原発宣言」をめぐって。これを「政局」問題の枠組みで語るしか能のないマスメディアの幼稚さ・有害さ。神保哲生と宮台真司のニュース・コメンタリー、まさにそうだよなあと思った。
 なぜ政治家に純粋な動機を求めるのか
(管首相会見の分析だけなら「NEWS Part1」のダウンロードでOK.無料放送中)
 特にここでの神保氏による管・むにゃむにゃ語の翻訳、「霞ヶ関文学」(笑)分析などを聞くと、一般のマスコミの「政治記事」が(あえて?…あえて、でもあろうなあ)何も伝えていないに等しいことがよくわかる。



「便乗」
 3.11以降、耳を傾けるべき人は誰で、そうでない人は誰か、前よりクリアになった気がする。メディアの上の言説で知るだけの人物においても、日常の人間関係のレベルでも。くだらんやつはやっぱりくだらんのだな、と思い知ることがたびたび。

 ある知人は事故から数週間経ち、高円寺のデモが行なわれ、同時に「風評被害」などという言葉がひとり歩きし始めた(もちろん、原発推進派や擁護派の役人やマスコミに背中を押されて歩き始めたのだけど)、その頃になって、「反原発派が(事故が起きたことで)ここぞとばかり便乗している」「反原発派の流す“デマ”が風評のもとになっている」等々、ネットでつぶやき始めた。
 もちろん徹底的に反論した。あなたは何を言っているのか。「便乗」?
 事故を起こす前にとめられなかった自分達の不甲斐なさに苛まれながら、今ここで盛り上がる気運に力を得て、新しい社会の構築のためにできる貢献をしようと前向きに考え、行動する人達がいる。それを、「事故が起こったからここぞとばかり便乗している」などと考える、いや考えるだけならまだしもネットで撒き散らすあなたこそ、メディアの垂れ流す表層的な情報に「便乗」して、事故がもたらす閉塞感の憂さを晴らそうと、別の岸にいる人々に八つ当たりしているんじゃないか?
 この人に、反原発派がどんな“デマ”を流したというのか、具体的に教えてくれと二度、三度に渡り頼んだが、具体的な回答は結局なかった。だから、わかっただろう、風評というのはこうやって生れるんだと告げたら、彼はさらにあられもなく逆上した。
 20代や30代の若手ならともかく、自分と同年代の、人の親にしてこの有様。正直、関係が切れても何も差し支えない、と気がついている自分がいる。彼の子供たちが、心配といえば心配だが・・・。

 革命後、貯金箱と日曜日の晴着はどうなるか
 などと日がな一日、問うている人びと──
 かれらにはもう大して言うことはないのだと

  ベルナルド・ブレヒト「仏陀火宅説話」(長谷川四郎訳)より

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