弱い文明

「弱い文明」HPと連動するブログです。 by レイランダー

アウトテイク・フラグメンツ─3

2011年07月23日 | 原発 3.11 フクシマ
 またアウトテイク集。アップ・トゥ・デイトな内容は(一番目のやつは例外)期待しないでください。



 【緊急集会】許すな!東電温存と損害賠償の上限設定 機構法案を廃案に!!
 http://e-shift.org/?p=951
 もう日もないし、なかなか平日に行ける人は社会人の人は限られてしまうのだけど、学生の方などでも、どんどんこうした集会に参加してほしい。今までの政治的な催しに比べれば、はるかに多様な、そして若い人たちがたくさん参加するようになっているけれど、まだまだ、これからだと思う。

 今さらだけど、(知らない人のために)こちらも参考に。東京では今日土曜から、7.23~9.10までのぶっとおしデモも始まった。
 脱原発系イベントカレンダー



 雑誌やスポーツ新聞の見出しのつけ方には問題が多い。

 たとえば、結構前、京大の小出裕章助教が「1号機の炉心燃料はメルトダウンして圧力容器を貫通し、格納容器も突き破っている可能性が高い。今はその下の土にめり込んでるんじゃないか。それだと循環冷却なんてもう意味がないから、とっとと他の対策に移行するべきだろう」と分析・提言したことを、(紙媒体ではないけれど)現代ビジネスという講談社系のネットマガジンでは、主にその小出分析を反映させたと思われる形で、こんな見出しをつけていた。

「メルトアウト「核燃料」地下水直撃の恐怖! メルトスルーを超える最悪の事態 東電はこの可能性を隠していないか! 」
 http://gendai.ismedia.jp/articles/-/11152

 しかし小出氏はこんな恐怖を煽るような調子で物を言っていない。深刻な事態だとしても、「こういう危険がある・だからこういう作業をするべきだ」と淡々と述べているだけだ。なんでそれが「」付きのまがまがしい調子に書き換えられなければいけないのか。
 キオスクに束になって置かれるスポーツ紙、週刊誌、その週刊誌の電車内の中折広告などで、毎日毎日くり返し目にするのもこうした調子の煽り文句だ。一方では、故・高木仁三郎氏を「反原発のカリスマ」などと伝説化して持ち上げ、今は小出氏にその称号をくっつけようとする。アイドル藤波心には「反原発のジャンヌ・ダルク」とか。
 「そんなの今に始まったことではない(原発問題に限ったことではない)」とか、「中身は意外としっかりした記事もある」という意見もあるだろう。
 書いている側は、そうしたインパクトのある書き方、わかりやすいキャッチフレーズみたいなものがあった方が、民衆にとってわかりやすく、興味をもってもらいやすい、という言い訳をするのだろうか。僕にはただ、「その方が売れる」と思ってるから、としか思えないが。
 それも含めて、まさに今さら、なのだ。マスコミとはいつもそんなもんだ、と軽く流してしまいたくもなる。だけど、まだなのか、こんな事態になっても、まだいつもの調子をやるのか、という、「やっぱりか」という思いと「まさか」という正反対の思いとが、ぐちゃぐちゃに錯綜している…。

 僕一人の思いなどこの際どうでもいい。問題は、ひょっとしたら世間の人たち、特に脱原発・反原発に懐疑的な一般の人たちというのは、こうした新聞・雑誌の記事の上っ面だけ見て、「またあいつらは不安を煽っている」「だから脱原発の言論は信用できない」と思ってしまうことがあるのではないか、ということだ。 
 それを今頃偉そうに言っている自分にしても間が抜けているのだが──何しろ事故以来マスコミに対する嫌悪感が激し過ぎて、逆に簡単なことに気がつくのが遅れた、という面があるのだけど──原発推進・擁護の立場ではない(乗り換えた)マスコミの記事のこういった報道の煽り調子、それと隣り合わせの底の浅さというのは、結果として、推進・擁護のマスコミと同じくらいの有害性があるのではないかと、個人的に疑っているところがある。
 いい記事が出たら誉める、皆に広める、ということが大事なのはもちろんだ。だけど、そのための前提としても、何が「悪い」記事なのかということを掘り下げておく必要がある。



 3.11以来、自分の中の調子が、何か狂ってしまった。そう感じる人は、たくさんいるだろう。というか、何も変わらない、という人がいるというほうが、信じられない。小さな子どもとか、病気など、何らかの事情で外界から遮断されているような人を除いて。
 友人・知人、誰に会っても、何かしら変調をきたしているところがある。特に知的な人、感性が鋭い人ほど、そういう自分を自覚してもいる。それで、それ自体が一つの心の重荷になってしまっている人もいたりして、気の毒だ。
 僕の場合、影響は少ない。元から調子っぱずれな人格のせいだろう。狂っているのがベーシック、みたいな人間なので、この状況でも、特に変調をきたしていない。そんなもの、参考にはできないかも知れないが、そんなやつもいる、と心の片隅で知っていてもらえば、少しは違うんじゃないだろうか。
 ただ、苛立ちは前より大きい。それは変調の内には入らない。ただ、自爆テロをやる人の気持ちが、前より少し余計にわかるようになった。あ、問題発言かな。まあいいや。


■「日本は資源が少ない国」

 5月に、ドイツ緑の党の連邦議員、ジルビア・コッティング・ウールという人が来日して、岩上安身氏のインタビューを受けていた。その内容、特に以下の点にうならされた。
○「自然と共生する」日本精神に照らせば、日本こそが自然エネルギー先進国になっているべきだった。なぜ原子力のような正反対のものの推進に向かって行ったのか、理解できない。
日本はドイツより、自然エネルギーのポテンシャルを(資源・技術とも)持っている

 二言目には「日本は資源の少ない国だ」と、我々は教え込まれてきた。だが自然エネルギーという観点からすると、日本はむしろ資源に恵まれた方の国である。化石燃料や工業原料に恵まれていなかっただけである。
 鉄鉱石など、金属の原料には恵まれていないが、代わりに広大な森林と河川を有し、良質な木材資源に恵まれている。平地面積には恵まれていないが、気候条件としては農耕可能な地域の割合は多い方だし、言うまでもなく四方を海に囲まれていることから、圧倒的な海産資源に恵まれている。
 発電源の話でいうと、「風力・太陽光・バイオマス」が自然エネルギー御三家と言われるらしいが、日本の場合それらに加えて地熱、そして「波力」「潮力」も見込める。内陸の国では、やりたくでもできない発電だ。
 こうした恵まれたものを大事にしながら慎重に発展の道を探ることなく、急速な西洋文明化を錦の御旗にひた走ってしまったことのツケが、我々に21世紀に至ってもまだこんな「敗戦」を突きつけ、袋小路に追い込もうとしている。それなのに、「もっと!もっと!」と叫んでいる者たちがまだいる。それが老人の場合、つける薬がない。

 明治の頃には、「和魂洋才」などという言葉で日本流の近代化を摸索する動きもあったが、その内実は本邦と西洋の「おいしいとこ取り」、しかもどちらかといえば為政者の階級にとって都合のいい「おいしいとこ取り」でしかなかった。我々はいまだにその時代からの「ねじれ」を引きずっている。
 本当の「和魂洋才」に着手すべき時代は今だ。「敗戦」をチャンスに変えることができれば、我々はそれをようやくに「敗戦という過去」にできるだろう。でなければ負け戦を引っ張り続けるだけで、終戦に至らないんだろう。

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