弱い文明

「弱い文明」HPと連動するブログです。 by レイランダー

喧嘩上等、動乱上等

2007年06月20日 | Weblog
 最近頭の中がいろんな関心に沿ってとっちらかってしまい、うまく文章にまとめづらいのだが、中心にある思いとして、この国がある種の「動乱」に向かっているという感じを僕は持っている。

 目下の最大のヤマ場としての参院選がある。相次ぐスキャンダルのせいで(議員になっていること自体がスキャンダルであるような閣僚もいるが)、支持率を大幅に下げている現政権(それでもゼロではないのが不思議だ)、そこから推定して、自公が大きく議席を減らすという予測が支配的だが、果たしてどうだろうか。今の国内のお怒りモードは、参院選まで持つだろうか。
 確かに年金問題は、観念論では騙しおおせるものではない。他の教育問題や外交問題では騙される国民も、痛みが自分を直撃するこの問題においては、大いに危機感と与党への不信感を募らせる結果になっているようだ。その意味で、今がチャンスだ。
 しかし裏を返せば、その問題に一定の救済措置を施すなり対案を示すなどさえできれば、相変わらず多数の従順な「経済成長」教の信者たちは、政権運営のノウハウと無責任な「安心」醸成に長けた現与党が無難、という選択をしてしまうのではないか。胸が悪くなるような予想だが、ないとは言えない。
 また、今度の参院選で大きく票を割り込んでも、次の衆院選までに年金などの社会保障問題を表面的にでもクリアできれば、再び支持を盛り返すことも考えられる。もちろん、それらの対案が的を得たものなら、与党案であれ野党案であれ歓迎していいはずだが、見かけの「安心」を取り繕うだけで中身のないものであった時に、それを多数の国民が見破れるかどうか、非常に心もとないのはここに至る現状から明らかだろう。

 そんな先のことをクヨクヨ言っていてもしょうがない、まずは参院選で勝たねば!という気持ちは僕だって持っている。だが、参院選の結果だけでこの国の大きく歪んだ有様が改善されるわけではないし、小さな勝利に浮かれていると、より悪い方向に進む可能性だってあると思う。
 1993年の自民「下野」と社会党・日本新党などによる連立与党の成立、その後の自社連立と左派「再編成」~事実上の左派「没落」の過程を知っている人なら、その前段階として土井たか子の社会党が参院選で大勝利した当時のこともおぼえているだろう。あの頃、自民党が「ネオ・ジミ」のごとく復活して、ここまで醜く、民主主義を愚弄できるまでに増長するとは、誰が予想しただろう?(僕自身は、今後この国は「穏健な左派」と「穏健な右派」の間を行ったり来たりしてなんとなく進むんだろーなー、くらいに考えていた。全然違ったということに気づいたのは、やっと小泉以降だ。)
 決して僕は、この参院選に賭ける対抗勢力の努力に水をさしたいわけでない。自分らの力を卑下する必要もないが、「彼ら」の力を見くびってもいけない、というだけだ。「彼ら」は受けた屈辱の埋め合わせは必ずしようとするだろうし、その力もある。その力は結局、こちらの抵抗する力より常に歴史的に大きい。そう思っていて間違いない。今「彼ら」の背後には世界唯一の超大国がある。

 そういうことだから、この国の問題を、この国の問題としてだけ考えていてはやはりいけないのだろう。僕らは問題を、同種の問題に直面している他の国の人たちと共有していかなければならない。他の国の人たちの取り組みに学ばなくてはならない。そうした姿勢の必要性が、かつてなく重みを増しているのが昨今である、とも言える。
 というのは、日本は大戦後の世界の中で、新しい経済発展ゲームのルールを見事にマスターし、アジアでほぼ唯一勝ち組に名乗りを上げた国だ。だからこそ、洗脳の度合いもきつい。表面的におだやかに見える国民性など、洗脳からの脱却という面ではプラスになるわけではない。ここから脱却するには、ある種の「動乱」は避けられない。それこそ「痛みをともなう」からだ。
 どんな「動乱」になるのかはわからない。武器を使っての内戦というのだけはないとしても、かなりな「神経戦」を覚悟すべきなのかも知れない。時には味方と思っていた人達の間ですら、熾烈なぶつかり合いが生じるかも知れない。でもそれは、決してネガティヴなことではないだろう。

 言ってることがとっちらかってきたが、憲法の問題も同じくくりの中で考えておきたい。
 最近僕は、結局「改憲」勢力というものが現にある以上、国民投票は避けられない、一度は買わなきゃならない喧嘩なんだと思うようになった。もちろん与党の「国民投票法案」は問題点が多いし、そもそも改憲派の大半が主張するような意味での「改憲の必要性」には、見栄や欲得はあっても理知的な根拠がない、という基本的認識は変わらない。だが、その認識の正当性を明らかにするためにも、改憲勢力が売ってくる喧嘩を今は買わねばならない。なぜなら今や「彼ら」は無視できるような少数ではない、力関係として互角なのだから、「喧嘩はしたくありません」ではもはや通らない。こういう現実になってしまったのも、ある意味自分たちの責任なのだ。バカがのさばっているのは、自分らがボケだったからだ。だから売られた喧嘩はせっせと買う責任がある、と。
 また、日本国憲法が制定された当初、それは国民の圧倒的な支持を受けたけれど、それが自分達のものであるという実感から遠い国民が世代として多数になってしまったのは、改憲派の陰謀でも何でもなく、時の流れである。能動的に選び直すことによって、もう一度自分達の憲法にすることができれば、それに越したことはない。
 ただ、喧嘩のルールはフェアであってくれなければ困る。だからこそ国民投票法案の問題点には噛みつき続けるべきだし、改憲派を有利にするようなメディアのミスリードやフレームアップは、断固として「晒し」続けるべきだ。
 また喧嘩の争点はできるだけ明白な、中身のあるものにしていかなければならない。でなければ喧嘩する甲斐がない。どれだけ改憲派を怒らせ、血圧を高くさせることができるかによって、「中身」の有無を判定できるだろう。そうした中身が、戦前ノスタルジーに毒された一部の年寄りはともかく、考える能力を破壊されていない多数の(特に若い)人達に、理として飲み込めないはずはないと思う。
 改憲の必要性という「現実感覚」がいかに非現実的かを多くの人に認知させるということも含めて、今度の参院選もその喧嘩の一部になればいい。僕にはその結果より、その過程を通じて、人々に「これから動乱期を迎えるんだな」~「上等だ!」というような覚悟と政治的な覚醒が起きることの方を期待している。選挙結果が「勝ち」だろうと「負け」だろうと、その先どうなるんだバカヤロウ!という怨念の蓄積の方が気になるというか(その意味では「当選したとしてもこれまでのような“政治”手法には頼らない」と明言している天木直人氏には注目している)。
 裏を返せば、「動乱」を起こすエネルギーさえ尽きたようなら、もうこの社会は救いがないと思う。


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