
最近、CPHさんから、次のような山下町の番地に関するコメントをいただきました。 ≪旧居留地の110番から111番、162番から165番が欠番になっているという新たな謎≫ あらためてクリペの地図(慶応元年)を眺めてみると、たしかに110番、111番がありません。そして現代の地図上にも110番と111番はないようです。この番号は最初から欠番だったのでしょうかねぇ。 そんなことから中華街の中の番地の変遷をちょっと調べてみたら、ほかにも謎がたくさん出てきました。 下の地図は横浜明細全図(慶応4年)です。赤枠で囲った部分に注目してみましょう。 ここは現在の中華街大通り・南門通り・関帝廟通り・市場通りで囲まれた部分です。 そこに166番から173番までの地番がふられています。 ![]() きれいに並んでいることが分かりますよね。 次の地図は横浜明細之全図(明治3年)です。おかしなことが起きています。 166番が分割されて165と166になったのはいいとして、168番が136番に、169番が188番にされています。 ![]() 170~173には変化がありません。 次の地図は改正横浜分見地図(明治11年)です。なんだかすごいことになっています。 赤枠内の一帯で全面的に地番が変更されているのです。188番は明治3年のときと同じですが。 ![]() これはどうしたことなのでしょうか。 明治3年に188番が先行する形で赤枠内に入って来て、そこを基にして180番台、190番台を付けたように思えます。 そして追い出されたような形の166番~173番は青枠のところに移されています。 さらに170番台後半と180番台前半が、今の中区役所や高層マンションの建っている一画に出現しています。 いったいこれはなにを意味しているのでしょうかねぇ。 謎… ![]() |
地番はなく、居住家屋に番号をつける戸番制度だったと聞いています。
柳田國男が、土地に番号を付け始めたため、
それまであった小字や小名が無くなっていくと嘆いています。
通商条約の改正があるまで、
居留地内の土地の売買、私権設定はなかったので、
かなりの時期まで「戸番」が使われたため、
「地番」と混在していたのではと考えられます。
それにしても188番がヘンです。
188番だけが突然割り込んできています。
ここはジェラールの肉屋があった場所です。
なにか関係しているのかも・・・