エッセイ -日々雑感-

つれづれなるままにひくらしこころにうつりゆくよしなしことをそこはかとなくかきつくればあやしゅうこそものぐるほしけれ

蓮のうてなで極楽浄土

2016年09月25日 | 雑感

                

 先週小学校の同窓会に行ったが、この歳になれば、“今後のわが身”がよく話題になる。

T、「オレは無駄な延命治療などしないという遺書を書いて、子供たちから確認印をとっている」  これはいい。

Oが云う。「みな、墓を買ったと思っているかもしれんが、あれは借りているだけで、世話する者がいなくなったら取っ払われる」

当然だ。さんざん例をみてきた。

 かつて、ある墓地に行って驚いたことがある。

ずらっと墓に紙が貼りつけられていて、“○年○月○日までに持主の届け出がなければ、撤去する”旨のことが書かれていた。

張り紙つきの墓の数は相当なもので、これを全部撤去してまた貸出すとなれば、由緒ある有名寺だけに大儲けだ。

 

ここから、私にとって少々うっとうしい話になる。

私の父が30年ほど前に亡くなった時に、京都東の方のある寺に墓を作った。父は鹿児島の寒村出身で、村営墓地に一族の墓があり、全部で59体、そのほとんどが土葬だ。そもそも墓地全体が小さく、大雨が降ればいまにも崩れそうな饅頭型の高台にある。

母はここに父の分骨をしたが、私にとっては極めて迷惑な話だ。

 いま一人身の従兄がなんとか世話をしてくれているが、将来、長男だった父の子である私(私も長男)の方に村からなにか云ってくる可能性がある。59体のご先祖様の圧力はおそろしい。

 というわけで、私は自前の墓そのものに否定的だ。

だから、入るなら東山霊園の古墳のような多人数の墓に入りたい。

そして一部は散骨だ。

 ところが、家内は、

“東山霊園などに入れてあげない。第一、骨など持って帰らない、全部焼き場に寄付してあげる、とすまして言う。

でも一つくらいは持って帰って、きれいな袋を作ってそこに入れて大切にするわ”。

 

私の勝手にはならないということらしく、この問題については決着がついていない。

ところで、ここから話が変わる。

 

死んでしまったら、生前どんなに頑張ったとしても、どうにもならない。

 大徳寺は大燈国師が鎌倉末期に開創した寺で、国師が遷化する時に“墓はいらない”と云ったので、弟子たちは仕方なく方丈(居室)の右裏手に小さな別棟を建てて、国師の像を安置した。

小さいと言っても結構大きい別棟で、高いところにあるから庭からそこに梯子で登っていかなければならない。

庭には井戸が一つあるが、水を汲むためではない。

火事が起これば大燈国師像の首を引き抜いてこの井戸に投げ込む。首から下はなんとでも復元できるが、顔だけは残らなければ復元できない。

 “投げ込んでも首は木で出来てますから浮きますよね、あとでそれを引き上げるんです、うまく考えてますね。”

と案内のご婦人は云った。

 “墓はいらない発言”をしたばかりに、立派なお堂を作られて火事のたびに恥さらしをすることになる。

こんなことなら“すみません、ごくごく小さな墓で勘弁してください”と大燈国師は云いたかったろう。

 

家内の高校時代の先生は敬虔で熱心なクリスチャンだった。しかし、後年、亡くなられた先生の家をたずねてみたら、先生は仏壇の中だった。

 

死んだら本人はどうにも抵抗できない。

 

家内の高校時代の友人T子さんは、極め付きのクリスチャンだ。

本人は死ねば天国に行くと思っているかもしれない。いや、無心に信仰しているだけだからこの言い方は失礼か。

 

冗談で家内に、「あれだけ熱心に信仰しているから、T子さんはきっと死んだ後は天国だろう・・・・・・、ところが彼女、はたと気がついたら、自分がいるところは“蓮のうてなで極楽浄土”というようになってるのやないかな。そう彼女に伝えておいてくれ」と、云ったことがある。

それを聞いたT子さんは、涙を流さんばかりに笑ったそうだ。

ガチガチのクリスチャンでなくて、わたしの低級な冗談もわかる人だ。

 

注)写真は平等院の飛天


  超高速参勤交代 - そろばん

2016年09月19日 | 雑感

 2016年9月19日

 

映画、「超高速参勤交代」の第一作の評判がよかったので、二作目ができるらしい。面白そうだったので第一作目のDVDを借りてきた。

                             

東北の小藩湯長谷藩が参勤交代で、やっと故郷に帰ってきたと思ったら、幕府の老中松平信祝の陰謀のため5日間で再び江戸にもどらなければならなくなり、なんとか奇策を弄してことを成し遂げるというあらすじだ。

 

金はない、時間もない、だからごまかしながら間道を突っ走るという困難な計画を立てる。

藩主内藤政醇と知恵者家老の相馬兼嗣が相談しているところに戸隠流の忍者雲隠段蔵が現れて金目当ての手助けをもちかける。

家老の相馬はそろばんを懐から取り出して入用を計算しだすと、段蔵が“これにわしの取り分が加わる”とそろばん珠を指ではじく。

この場面で、あれっと思った。このそろばんは四つ珠だ。あの時代、特殊な目的のためには下四つ珠もあったかもしれないが、普通は五つ珠で、ネットによればもっと昔は上に二つ、下に五つの珠があったらしい。

いずれにしても、違和感がある。

                              

 

このそろばんで思い出した。

 

わたしの母方の祖父は慶応年間生まれで、亡くなったのは88歳。あのころは驚異的長寿との評判だった。しかし超高齢化の現代、88歳は珍しくもなんともない。私の母は今年はじめに100歳で亡くなった。

 

祖父は株屋の番頭をしていたが、私が物心つくときは引退して独り住まいだった。

頭は禿げていたがライオンのような白髪のひげ、眼光鋭く私達孫とはまったく口をきかなかった。孫だけではない、わが息子・娘たちに対しても用事の時以外ほとんど口をきかない。

我達は当然祖父を敬遠した。行ったときにも部屋には入らず敷居際にすわってかしこまって “こんにちわ”、帰るときに“さようなら”という挨拶だけが祖父との接触で、そのときも祖父は頷くだけ。しかし帰りの挨拶でときどき100円札を黙って差し出してくれることもあり、これはうれしかった。

 

 そんな祖父だが、一度だけ祖父のほうから誘いがあった。私がそろばんを習い始めたとき(1953年くらい)だ。

たまたま一つ上の従兄弟がきていた。私らがそろばんを習っていることをどうして知ったのだか、祖父から教えてやるから部屋に来いというお達しがあった。わたしと従兄はそろばんを持って祖父の前にすわった。

 

結果は惨憺たるもので、今でもそのときの様子はよく覚えている。こちらは四つ珠そろばん、あちらは五つ珠。

長く気まずい時間が流れ、あげく「もういい」と祖父はぶすっと云って、私らは解放された。

                              

祖父にとっては、自分の意思で臨んだ唯一の孫との交流の機会だったと思う。 

 

 時代考証が完璧である映画はほとんどないだろう。

“超高速参勤交代”は面白かった。二作目が成功することを願っている。


ある日の会話 ― タンゴテフテフ ―

2016年09月17日 | 雑感

2016年9月13日

西本願寺には大きな銀杏の木が二本ある。 

家内は本堂に向かって左にある銀杏が枝振りが面白くて気にいっているらしいが、右の銀杏の方が立派だ。

その下に京都市指定保存樹“イチョウ”という立札がある。

            

                                          

 

「昔“いちょう”は“いてふ”と書いたな。 あ、そういえば “てふてふが一匹だったん海峡を渡っていった” という詩があったな」と 私が言うと、「高校の教科書にのっていたっけ?   ちょうちょって、どれくらいの距離飛ぶのかしらね。大きいものと小さいものとの対比が際立って うまい詩ねぇ 」と家内。      安西冬衛の一行詩だ。

韃靼(だったん)海峡は 現在の間宮海峡で、ユーラシア大陸と樺太(ロシア名サハリン)の間の海峡だ。

 

父や母の若いころは旧仮名遣いだった。 

私が学生だったころ、同じ研究室の一年下の後輩が学生結婚をした。 50年以上前のことだ。

新婦は京都府北部の人だった。同輩のKが結婚式の司会をつとめた。 初めてのことだからずいぶん緊張したという。 

 彼が言う。  祝電を紹介するときのことだった、送り主の中に “タンゴテフテフ○○” というのがあって、なんのことかわからない。   やっと “丹後町長” と分かった時にはホッとした、焦ってえらい苦労した。

 

同窓会で会うたびに彼はその話を愉快そうに持ち出す。  50年前の丹後町長さんはまあ今の私らの歳くらいだったろうから、旧体文で当然だ。

 といふわけで、けふいちにちも、なんとなしにすぎゆくなり。


暖簾を下ろす 

2016年09月08日 | 雑感

  2016年9月7日

 

                                             

蕎麦屋では私はもっぱらざるそば(せいろそば)をとる。 京都では河道屋と尾張屋が老舗だが、私は尾張屋の蕎麦のほうが好きだ。

さて、Sという麺類専門の店がある。 うどん、蕎麦とも品数が多くそこそこ人気のある店で、ここの蕎麦は尾張屋のそれと似ているので私は家内とよく行く。

 

2か月ほど前友人のTとMと3人で行った。昼時だったので、とりわけ混んでいて中でかなり待ってやっと席にありつけた。

私はざるそばと決めているし、Mもざるそばだった。ところが“蕎麦が出てしまってうどんしかない”と店の人が言う。仕方なく3人とも冷やしうどんを注文した。

暑い日だったのでそれもおいしかったが、私は釈然としなかった。蕎麦を目当てにきている人もたくさんいるはずだ、なぜ待っているあいだに蕎麦品切れのアナウンスがなかったのだ。

勘定を払う時に、“なぜうどんしかないことを言わなかったのか”とレジのおばさんに言ったら、「だから暖簾を下ろしています」という返事が返ってきた。

待っている間に暖簾を取り込んでいるのが見えて何をしているのかと思ったのはたしかだ。しかしこのオバサンの接客態度、物の言い方が私は以前から気にさわっていた。

 

この店の入口は大きい自動ドアだ。内側にもう一つ手動のガラス戸がある。勘定を終わって外にでてみたらたしかに暖簾はとっぱらわれてはいる。が、自動ドアは大きく開きっぱなしになっていて手動ガラス戸越しに店内で待っている人たちが見える。

 

“暖簾を下ろす”というのは、その日の営業をやめるという意味もあるが、不振で店をたたむという意味もある。言葉として私などは後者の意味合いのほうが感覚に馴染んでいる。だからオバサンの言葉に“ええっ?どういうこと”とひっかかった。

 

暖簾はないが、入口戸を大きく開けて客を入れるから店をたたむのでも営業終了でもない。“蕎麦が売り切れましたから、うどんだけでよろしいか”という張り紙が出ていれば問題はない。しかし中に入ってさんざん待たされたあげく、“うどんだけです”というのであれば文句の一つも言いたくなる。

もっとも鷹揚なMとTはこのことにあまり頓着していなかったが、彼らは私ほど麺類に執着してはいないからだ。

しかしこの店の商売のやり方はどう考えても気に入らない。

入口に“蕎麦売り切れ”の張り紙さえ出せばいい。「暖簾を下ろした」のなら自動ドアを開放にせずに“営業は終了しました”の張り紙を貼るべきだ。

 

食は気分と連動する。あれ以来私はS店で蕎麦を食う気が心底しなくなった。