エッセイ -日々雑感-

つれづれなるままにひくらしこころにうつりゆくよしなしことをそこはかとなくかきつくればあやしゅうこそものぐるほしけれ

曲直瀬道三(まなせどうざん)の墓

2016年09月27日 | 雑感

                                   2016年9月27日

先日NHKのテレビ番組で秀吉関係の番組があったので京都博物館横の豊国神社に行った。

 

               

 

神社の横に方広寺がある。この寺は昔は巨大な寺で、奈良の大仏をしのぐ大仏殿があったというが今は何もない。

 

               

 

ただ、“国家安康”、 “君臣豊楽”(写真・左上に白枠で囲ってある)という文句に、

“家康という名を分断し、豊臣が栄えるのか”といちゃもんをつけられた大きな梵鐘があるだけだ。

これによって、大阪城外堀を埋められて豊臣滅亡につながった鐘だ。

重要文化財で、東大寺、知恩院の鐘とともに日本三大名鐘とされていて歴史上極めて有名だが、

その割にはここには観光客はあまり来ない。

我々の子供の頃秀吉は、立身出世の代表としてもてはやされていたものだが。

 

神社の前には朝鮮出兵で敵の首級の代わりに耳を取ってきたという“耳塚”がある。

それはまさに秀吉の晩年の陰惨さの象徴のようにも思えたりする。

 

               

 

さて、この話の本筋はTVの中で出て来た曲直瀬道三(まなせどうさん)だ。

この人は戦国時代から桃山時代にかけての名医で、毛利元就、織田信長、足利義輝などの手当てをし、

皇室に出入りしていた。

番組によれば、 “医者は権力にとらわれず、ただ医術に徹すればいい” という考えで、権力に頼ろうとした

弟子の全宗とたもとを分かち、後にキリシタンになったという。

この墓を探して豊国神社から転々と車で北にあがり、寺町通に沿って今出川通りを越えて、ずいぶん北の十念寺まで行った。

頼み込むと、快く承知してくれて若いお坊さんがお墓まで案内してくれた。

この寺にはものすごく沢山の古い墓がある。

                         

日本医学中興の祖として”医聖”と称される曲直瀬道三の墓は夫人の墓と並んで墓地の奥にあったが、アッと驚くほどの粗末な墓だった。

墓不要論の私にしても気持ちのよい墓だった。

同じ墓地内に弟子の全宗の墓もあるという。

 

2016年1月18日記