エッセイ -日々雑感-

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戦争その1・伝説の名投手沢村栄治に会いにゆく

2017年08月14日 | 雑感

 

2014年8月記

 

2014年8月5日の朝日新聞に、沢村栄治の記事が載っていた。

京都学園(旧京都商業高校)に銅像があるという。

それを読んで私と家内は子供のころから耳にし続けた伝説の投手に会いに出かけた。

ちなみに私は野球ファンでもないし、野球にはまったく関心はない。関心はないが“沢村栄治”には関心がある。

 

京都学園中学・高等学校の入口から坂道を下っていくと、木々に囲まれた一角にその銅像はあった。

均整のとれた体格、バランスのいい投球姿勢。

                              

銅像の足元に、彼と京商時代にバッテリーを組んだ山口千万石氏の書いた碑文がある。

2003年、この像が出来る直前に山口氏は亡くなり、彼の碑文だけが残った。 

 

山口氏は、“彼の遺品は何も持っていないが、えらい形見をもらった”、と沢村の球を受け続けて変形した左手の

指を見せたという。

 

沢村は三度徴兵された。

 

志村正順アナウンサー(NHK)が、戦地から帰還して再び野球に加わるようになった沢村を見て愕然とした。

しばらくは彼だとわからなかったが、わかったあと、あれほどの投手が、と涙が出そうになった、そして戦争とは

これほど残酷なものかと思ったそうだ。

 

沢村は剛腕ゆえ、”手榴弾投げ競争”にたびたびかり出された。硬式球の3倍以上ある手榴弾だ。

その結果、投手の生命である右肩をつぶしてしまった。

 

三度目の出征で、彼が乗ったフィリピンに向かう輸送船が撃沈され、屋久島沖で戦死。   享年27歳。

それから70年経つ。

 沢村栄治の銅像を見ている私らの傍らを、はじけるような笑い声と共に自転車を押して上がってくる屈託のない

女子生徒のグループが通り過ぎていった。

 

山口氏の碑文には、”この像を、未来の平和に願いを込めて、母校に学ぶ若人諸君に贈る”という旨の言葉が

記されている。

 


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