本日は晴天なり

誰しも人生「毎日が晴天なり」とは行かないものです。「本日は晴天なり。明日はわからないけどね」という気持ちを込めました。

自分自身の鏡

2007年03月03日 13時41分13秒 | 心についてのあれこれ
先日、学生時代グループで仲良くしていた友人の一人に偶然道で会ったのだが、そのときに、彼女から、グループの人たちに対する不信の気持ちを投げつけられたのは辛かった。
もちろん、はっきりと言葉にはしないが、「あなただってそのうちの一人だからね」と暗示する意味もあったのかも知れない。

いろいろなことが積み重なって、彼女の心には当時の仲間に対する不信感が、十何年経った現在でも根強く残ってしまったらしい。

「でも、最近はそういう関係は切っていくことにしたから。」と冷たく言い放った彼女。

そうは言っても、そんな言葉を攻撃的な調子で私に投げかけるところは、彼女の心にまだ憤怒の炎がくすぶっている証拠ではないかと思う。彼女の攻撃的な言葉にひるみながらも、恨みの気持ちから心を引き離そうとすること自体は、悪いことではないかも知れない、とも思い、「そうね、その方が良いかも知れないね。」と答えた。

私には、何年経っても昔のことが忘れられなくてどうしても昔の仲間が許せない、という彼女の気持ちがよく分からない。私から見たら、そのグループの友人がそれほどひどいことを彼女にした、と言う風には思えないのだ。ただ、確かにみんな過去に、気が利かなかったり、想像力が足りなかったり、若さゆえの傲慢さで、思いやりが足りなかったということはあるかも知れない。

現在はもうみんな大人になり、それぞれに違う道を歩いていて、一人一人が、日々いろいろなことに遭遇して、苦しんだり、悲しんだりしながらも一生懸命生きているのを知るにつけ、みんな弱くて不完全な一人の人間、というだけなのに、どうしてそんなに強い憎しみをいつまでもその人たちに抱き続けるのかしら、と思ってしまう。

ただ、他人の心の中は私には計り知れないものであり、彼女の中に、その感情を持ち続けなければならない理由があるのだろう。

もしかしたら、彼女の、他人に対する不信感は、自分に対する不信感を投影しているのかも知れない。自分を信じることのできない人は、他人を信じることができない。自分を許すことのできない人は他人を許すことができない。
他人は自分自身の鏡なのだそうだから。

そんなことを考えながら、自分についても思い当たった。そんな彼女と偶然再会したということは、あなた自身の中の怒りや恨みについて、振り返ってみる必要がありますよ、というメッセージなのかも知れない。