本日は晴天なり

誰しも人生「毎日が晴天なり」とは行かないものです。「本日は晴天なり。明日はわからないけどね」という気持ちを込めました。

昨日の江ノ島

2008年02月24日 13時29分59秒 | まちの風景
昨日の昼間は、お天気が良くてこの季節にしてはすごく暖かかったので、ふと思い立って江ノ島に行ってきました。

かなり風の強い日でしたが、やっぱり海は良かった。
巻き上がる砂や風、海の空気や匂いが、私の周りのほこりを振り払ってくれるかのようでした。
学生時代、イヤなことや辛いことがあると、一人でよく江ノ島に行って海を眺めていたことを思い出しました。

昨日はサーフィンにはいい風だったからか、水辺にはサーファーの人たちがたくさんいました。

きらきらと輝く太陽の下、自然の力に挑んでいくサーファーの人たちの姿が、毅然としていて、とても美しいと思いました。

厳しい自然の中では、人間の存在なんてチッポケで、あれこれ悩んでいることなんて必要なくなって、自然に優先順位や目標が定まってくる感じがします。
サーファーの人たちにとっては、泳ぐこと、ボードをうまく操ること、いい波を見定めてそれに乗ること、といった感じでしょうか。荒波にもまれているときに、夕飯のおかずのことを考えていたら、波になんて乗れませんもんね。

昨日の江ノ島の海を、ご相伴下さい。









世の中の不条理について

2008年02月24日 00時38分00秒 | 心についてのあれこれ
先日の「自分の信じる通り、生きているか」のブログについて、ちょっと補足です。

最近は、世の中の不条理について、久しぶりに怒りを感じています。

どうして世の中はこう不条理に溢れているのでしょう。

誠実に生きている人が報われず、弱いもの(特に女性)にしわ寄せが行く。

とても立派で、一見いい人のように見える経営者が、弁護士が、医者が、リーダーが、その理念や言葉とかけ離れた行動をとる。人を裏切る、騙す。

でも、本人は騙したとも、裏切ったとも思っていない。
「しょうがないのだ」と言って自分を納得させる。
その人は、犠牲になってしまった弱者のために、心は痛まないのでしょうか?

「全体の幸福のためには、個を犠牲にしても仕方がない?」本当にそうでしょうか?個を大切にできなかったら、全体だって、幸せになれないのだとは思わないのでしょうか?

果たしてそれで人は幸せになれるのでしょうか?
その人は本当にそれで幸せなんでしょうか?
騙された人は、「しょうがない」であきらめてしまっていいのでしょうか?
「しょうがない」であきらめているから、日本の社会はこんなに苦しいんじゃないでしょうか?



ひさびさに、私のグチでした。失礼しました。