良い子の歴史博物館

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趙匡胤

2005年02月24日 | 人物
趙匡胤王朝の創業者。
名君中の名君として、ファンが多い、非常に人気のある皇帝だ。

王朝の「近衛長官」だったが、幼帝に不安を持った軍部によって皇帝にされてしまった。
しかも大酒を食らって、酔い潰れているうちに、
気付いたら皇帝になっていたという間抜けな逸話がある。

即位後、周王室の一族を丁寧に扱う。
宋王朝を通じて周王室の一族は手厚く保護されていた。
前王朝を徹底殲滅するのが慣例となっていた中国史の中で異色の出来事だ。

天下統一のために、各地の国々を次々と滅ぼすが、
降伏した国の君主一族を貴族にして、手荒なことをしない。
これまた、中国史はおろか、世界でも珍しいケースだ。

代から地方勢力の跋扈の原因となっていた、
節度使の力を減らし、無力化するが、
強引な手を使わず、辛抱強い話し合いと、名誉を相手に与える仕方で問題を解決する。

軍人出身でありながら、文官中心の政治体制を確立し、
皇帝権力を強化しているが、本人の鷹揚な性格上、
圧政的になることはなかった。

宋王朝は文弱で軍事を軽視し、
北方の遊牧国家に対し、軍事力ではなく、金で解決する傾向があるので
弱々しいイメージがあるかもしれない。

実際には、極めて精強な中央軍を組織していた。
趙匡胤時代では、少ない兵数で中国全土の秩序を維持することができたのだった。

自分の欠点や失敗を隠そうとしない点も異色の皇帝と言える。

あるとき部下の諫言に腹を立てて、その部下を杖で叩きのめしたことがあった。
後で、悪いことをしたと、こっそり謝りにいく。
そんな人間的な弱点を隠さないで記録に残させる。

政策面は弟の趙匡義が取り仕切っていた。
兄の皇帝即位を実際に画策したのは弟だったのだろう。
頭の切れる弟と、鷹揚な兄のコンビで宋王朝が始まったわけだ。

宋の首都である開封は、
市民文化が花開き、夜も賑やかな不夜城であった。
唐王朝の長安が、夜になると外出禁止になったのとは大違いだ。
自由な雰囲気が町を覆っていた。
長安は官営都市だったが、開封は民営都市だったと言えるかもしれない。

殺伐とした血生臭い五代十国時代の空気を改め、
文民優位の経済繁栄、民間文化振興の宋代が始まったのは、
趙匡胤の性格によるところが多いとされる。

2 コメント

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初めまして (久っち)
2005-02-27 23:21:25
TBありがとうございました。

TB頂いたのがインフルエンザで倒れている時だったため、ご挨拶にお伺いするのが遅くなってしまい、すみませんでした。



好きな俳優さんが大陸のドラマで趙匡胤役をやるということで、どんな人物かと思っていましたが…。歴史関係には疎いのですが、大変興味深く読ませて頂きました。ドラマを観る際もまた参考にさせて頂きたいと思います。ありがとうございました。
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大陸のドラマ (cfsasaki@管理人)
2005-02-28 08:09:12
>久っちさん

いらっしゃいませ。



インフルエンザ怖いですね。

回復しても体力を消耗しますよね。

お大事に。



中国のドラマを見る機会が少ないのですが、

興味があります。

項羽と劉邦とか、水滸伝、三国志のような定番の大河ドラマから、

日本で知られていないが、かの地では有名な話も結構あるのでしょうね。

日本のTVで日本語吹き替えで放送してくれないかなぁ。
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