吉備真備
奈良時代の学者、政治家。
特に橘諸兄政権を支えた中心人物である。
唐へ2度も訪れ、唐の文物知識を極めた。
橘諸兄が国政を担うようになると、吉備真備がそのブレーンとなって政権を支える。
これに不満を持つ藤原氏や貴族らが反発した。
藤原広嗣は吉備真備らを追放せよと訴え、反乱を起こす。
広嗣軍が負け、広嗣は処刑された。
今度は藤原仲麻呂がしだいに勢力を伸ばす。
藤原仲麻呂と橘諸兄との政争は仲麻呂の勝利となり、仲麻呂の独裁が始まった。
仲麻呂は吉備真備を九州に左遷する。
左遷といっても、吉備真備に仕事をさせなかったわけではない。
むしろ新羅や唐での安禄山の乱に対処するために、九州に防衛拠点を構築する。
吉備真備が兵学に通じていたためだ。
14年間の九州赴任の後、70歳で中央政界に復帰する。
まもなく藤原仲麻呂が没落し、挽回をあせった仲麻呂の反乱(恵美押勝の乱)の際、中衛大将として、これを鎮圧した。
そしてついに右大臣に昇進し、政権を担当する。
学者出身で、ここまで出世したのは、菅原道真ぐらいだ。
皇位継承問題で責任を取って辞職するが、
辞職願の文言は、その後の日本の辞職願の文言の模範とされる。
奈良時代の政治史全般にわたって影響力を行使した大政治家として、吉備真備に注目したい。
奈良時代の学者、政治家。
特に橘諸兄政権を支えた中心人物である。
唐へ2度も訪れ、唐の文物知識を極めた。
橘諸兄が国政を担うようになると、吉備真備がそのブレーンとなって政権を支える。
これに不満を持つ藤原氏や貴族らが反発した。
藤原広嗣は吉備真備らを追放せよと訴え、反乱を起こす。
広嗣軍が負け、広嗣は処刑された。
今度は藤原仲麻呂がしだいに勢力を伸ばす。
藤原仲麻呂と橘諸兄との政争は仲麻呂の勝利となり、仲麻呂の独裁が始まった。
仲麻呂は吉備真備を九州に左遷する。
左遷といっても、吉備真備に仕事をさせなかったわけではない。
むしろ新羅や唐での安禄山の乱に対処するために、九州に防衛拠点を構築する。
吉備真備が兵学に通じていたためだ。
14年間の九州赴任の後、70歳で中央政界に復帰する。
まもなく藤原仲麻呂が没落し、挽回をあせった仲麻呂の反乱(恵美押勝の乱)の際、中衛大将として、これを鎮圧した。
そしてついに右大臣に昇進し、政権を担当する。
学者出身で、ここまで出世したのは、菅原道真ぐらいだ。
皇位継承問題で責任を取って辞職するが、
辞職願の文言は、その後の日本の辞職願の文言の模範とされる。
奈良時代の政治史全般にわたって影響力を行使した大政治家として、吉備真備に注目したい。