良い子の歴史博物館

訪れたことのある博物館、歴史上の人物、交通機関についての感想、小論など。

吉備真備

2005年01月26日 | 人物
吉備真備
奈良時代の学者、政治家。
特に橘諸兄政権を支えた中心人物である。

唐へ2度も訪れ、唐の文物知識を極めた。
橘諸兄が国政を担うようになると、吉備真備がそのブレーンとなって政権を支える。
これに不満を持つ藤原氏や貴族らが反発した。
藤原広嗣は吉備真備らを追放せよと訴え、反乱を起こす。
広嗣軍が負け、広嗣は処刑された。
今度は藤原仲麻呂がしだいに勢力を伸ばす。
藤原仲麻呂と橘諸兄との政争は仲麻呂の勝利となり、仲麻呂の独裁が始まった。

仲麻呂は吉備真備を九州に左遷する。
左遷といっても、吉備真備に仕事をさせなかったわけではない。
むしろ新羅や唐での安禄山の乱に対処するために、九州に防衛拠点を構築する。
吉備真備が兵学に通じていたためだ。
14年間の九州赴任の後、70歳で中央政界に復帰する。
まもなく藤原仲麻呂が没落し、挽回をあせった仲麻呂の反乱(恵美押勝の乱)の際、中衛大将として、これを鎮圧した。
そしてついに右大臣に昇進し、政権を担当する。
学者出身で、ここまで出世したのは、菅原道真ぐらいだ。

皇位継承問題で責任を取って辞職するが、
辞職願の文言は、その後の日本の辞職願の文言の模範とされる。

奈良時代の政治史全般にわたって影響力を行使した大政治家として、吉備真備に注目したい。

フラヴィウス・ヨセフス

2005年01月25日 | 人物
ヨセフスは1世紀のユダヤ人歴史著述家で、
ユダヤ戦記」でローマに対するユダヤの反乱と、ローマによる鎮圧について記録した。


このヨセフスの生涯は実に激動と波乱に満ちている。

当時のユダヤはローマに支配下にあったが、常に独立を求める不穏な動きがあった。
若い頃、ローマへ派遣されたユダヤ外交団に参加し、ローマを訪れている。
しかし旅の途上で、船が遭難し、乗客600人のうち、80人が救助されただけであった。
かろうじて生き延びたヨセフス一行はローマで外交目的を果たすことができた。

ローマでヨセフスは、ローマ帝国の強大さ、軍事力、文化の高さを実感した。
とても、ユダヤなどがかなう相手ではない。

しかし、ユダヤに戻ると、すでに狂信的な独立派が主流を成していた。
ヨセフスはローマと戦うことが愚かであると理解していたが、
裏切り者、非国民扱いされることを恐れ、
独立派の軍の1部隊の指揮官になる。

ヨセフスがティベリアを攻め落としたときは、兵力が足りないので、
230隻の小船に兵を一人づつ乗せて、
ティベリアに向かって、船を漕がした。
ティベリア市民は大軍が攻めてきたと勘違いして、降伏する。
人をだますのが得意なヨセフスの奇策である。

ユダヤ独立軍はローマの反撃に遭い、
ヨセフスの率いる部隊も追い詰められる。
ヨセフスは、この辺でローマに降伏しようと考えたが、
部下たちは玉砕か、集団自決を主張した。
やむを得ず、ヨセフスは彼らに同調する。
くじを引いて、順番が来た二人が互いに相手を刺し殺す方法で、
集団自決することになった。
ほぼ全員が自決を遂げ、ヨセフスともう一人が最後の番となった。
ヨセフスはその相手を説得し、自決せずに、ローマ軍に降伏する。
当然、くじにヨセフスが細工してあったのだろう。

捕虜になったヨセフスは、自分は予言者であると、ほらを吹く。
そしてローマの将軍に「あなたは皇帝になる」とでまかせの予言をした。
この将軍は迷信深い性格だった。
しかもまもなく、本当に、その将軍が皇帝になってしまった。
ヨセフスはローマ軍幕僚として、働くことになる。
皇帝の家名であるフラヴィウスの名前を称することも許された。

将軍の子、ティッスが率いるユダヤ討伐軍に参加し、
エルサレム滅亡の目撃証人となる。
ヨセフスは命がけで、エルサレム市の城壁に立ち、
自民族に降伏を呼びかけた。

エルサレム市内では、独立各派が互いの指導者を暗殺しあっていた。
そのエルサレムをローマ軍は完全包囲し、市内は地獄となる。
飢餓と疫病、党派間の抗争で60万人もの犠牲者の死体が城壁外に投げ捨てられた。
4ヶ月半でエルサレムは陥落、ヨセフスは犠牲者数を110万人と推定している。

同胞から裏切り者とレッテルを張られたヨセフスは
独立各派の愚かさを指摘し、
自分を弁護するための著述活動に励む。
ローマ市民となり、年金も支給され、著述業に専念することもできた。
彼は極端で狂信的なナショナリズムを非難し続けたのだった。

抜け目無い徹底的なリアリストのヨセフスの著作に対し、
後世、賛否両論が起こるが、
いくつかの明らかな誤りと、思想的偏りがあるものの、
記述はほとんど正確であると思われる。
歴史家が参照する文献として貴重な資料を残したわけだ。

それにしてもヨセフスのような性格の人って、ある意味、面白いよね。





朱元璋(洪武帝)

2005年01月23日 | 人物
洪武帝

法輪講という気功集団を中国政府は邪教と断定し、弾圧を行っている。
強大化する可能性のある宗教結社に対し、中国政府が神経質になる理由は、
中国史を閲覧すると判る気がする。

何しろ、幾たびも宗教結社が反乱を行い、時に王朝を崩壊させてきたのだ。
中国社会には、表の歴史になかなか登場しない結社のネットワークが根強く存在し、
意外なパワーを見せることがある。
中国共産党自身、過去の宗教結社と同じ性質を有するのではないか?

今回は元朝末期に白蓮教徒が起こした反乱軍から身を起こし、
明王朝を創立した朱元璋について語りたい。

朱元璋の家は貧しく、元末の飢饉と疫病で両親が餓死するという悲惨な少年時代であった。
家に食うものが無いので、朱元璋は寺に預けられ、寺にも食うものが無いので、
すぐに托鉢僧として、旅する乞食同然の暮らしを続けていた。
その中で白蓮教徒の乱に触れ、彼らの結社ネットワークに加わるようになったのだろう。
そして白蓮教徒の軍団を率いていた郭子興のもとに参加する。
白蓮教徒の反乱軍の組織は複雑で、いろいろな勢力が混ざっていた。
朱元璋は有能で、しだいに郭子興軍を事実上引き継いでいく。

朱元璋の有能さは誰もが認めるところだ。
勇猛果敢、決断力に優れ、知略に秀でていることはもちろん、
民衆の支持を得ることにも長けていた。
一方、常に暗い謀略が同居しているのも事実だ。

各地の群雄を破り、江南を統一すると、
元を討つべく、北伐軍を派遣する。
そして2百年以上続く明王朝を創設する。

国号「明」の由来は白蓮教にあると思う。
しかし、国家を形成する過程で、朱元璋は白蓮教と決別し、これを邪教と断じ、弾圧する。
朱元璋は儒教学者の思想を受け入れ、“儒教原理主義”とも言える政策に転換したのだ。

朱元璋の政治は乱で荒廃した国土を復興するのに役立った。
常に農民のことを考え、税負担を軽くし、農地を整備した。
荒廃した道徳心を儒教に基づく国民教育で直そうとした。
混乱しきっていた社会は安定と秩序を取り戻す。
明律などの法体系は、その後の清朝や江戸幕府のお触書、明治政府の刑法などに影響を与えている。
朱元璋が始めた体制は五百年以上にわたって、東アジア体制の基本となった。

一方で、学者や官僚たちに対し、厳しい粛清を繰り返した。
幾たびにも及ぶ粛清で、何万もの人間を虐殺する。
史書に書かれる血なまぐさい粛清の記録は本当のことなのか?
あまりの苛烈さは目を覆うばかりだ。
明は名前と違い、暗黒王朝であった。
絶対に朱元璋の部下になんかになりたくないね。

案外、朱元璋自身は、自分が残酷だとは思っていないかもしれない。
元末の飢饉、疫病、戦乱の中から登場した朱元璋である。
残酷さの基準がずれていて不思議はない。

勤勉で有能で勇敢で親切で残酷で狡猾で孤独で複雑な独裁者として、
その生涯を終えた。
良くも悪くも後の大陸的中国社会の性格を形成した。


管仲と鮑叔

2005年01月21日 | 人物
2千数百年前の春秋戦国時代の中国、斉の宰相として辣腕を振るったのが管仲である。
商業を振興して、国を富ませ、
国民を編成して兵力を整え、
他の諸侯国との外交で信頼を勝ち得、
ついに斉の桓公を周王室を守る諸侯連合の盟主(覇者)の座に付かせた。
後世、商業の神様に祭り上げられる人物である。
管仲の死後、桓公は管仲の言葉に従わなかったため、国は混乱し、斉は衰えていく。

一方、鮑叔は別に何の功績も立ててないが、
唯一、管仲という人物を歴史舞台に引き上げるきっかけを作ったということで、名を残す。

管仲は天才だったが、相当な問題児でもあった。

管仲と鮑叔はいっしょに商売をしたことがあった。
ところが利益を管仲が多く持っていってしまった。
鮑叔は文句一つ言わないで、管仲が貧乏であることを思いやった。

管仲は三人の主に仕えたものの、三度とも追い出された。
管仲は三回いくさに出たが、三回とも逃げ帰ってしまった。
鮑叔は管仲の側に理由があってのことと考え、管仲をかばった。

管仲と鮑叔は斉の殿様の家に仕えることになる。
ときに斉では後継者争いが生じていた。
管仲と鮑叔とはそれぞれ別の後継者の側に仕えていたため、
敵対関係になってしまう。
結果は鮑叔が仕えていた桓公が勝利する。
管仲は囚われの身となるが、
鮑叔が強く推薦し、管仲は桓公の補佐役になる。

後に、管仲は語る。
「私を生んだのは父母だが、私のことを本当に知っているのは鮑君だ」

「管鮑の交わり」という格言で、強い友情の絆のすばらしさが語られるようになる。

実に心温まる逸話だ。


クセノフォン

2005年01月20日 | 人物
クセノフォン
古代ギリシャ、アテネの軍人にして、ソクラテスの弟子としても有名。
彼の著作のアナバシスの日本語訳が岩波文庫で発売されていることは知っていた。
が、しばらく絶版だったため、十数年もの間、入手できなかった。
最近、第4刷が出て、書店に並ぶようになり、見つけたときは、
うれしくて、すぐにレジに飛んで行ってしまった。

この、アナバシス、血沸き肉踊る一大冒険ノンフィクションである。

ペルシャ帝国の大王アルタクセルクセス(何世だか忘れた。アケメネス朝系図には何人ものアルタクセルクセスがいる)の弟キュロスは先祖のキュロス大王に最も良く似た人物で、
名前に劣らぬ知略勇猛だった。
だが、大王に背いたとの讒言で命を狙われる。
切羽詰ったキュロスは実際に謀反を企てる。

当時、ペルシャ国内で、多数のギリシャ人傭兵がいた。
ギリシャ兵は精強であるとの評判を得ていた。
キュロスはギリシャ人部隊を雇い入れ、反乱を起こす。
そのギリシャ人傭兵部隊の一員として、クセノフォンがいた。

ペルシャ帝国内に深く入り込み、バビロンを目指す。
だが決戦のとき、キュロスは敵陣に突っ込みすぎて、戦死してしまう。
雇い主を失ったギリシャ人傭兵部隊は敵領のど真ん中で孤立してしまった!!
さぁ、どうする?

ペルシャ軍は和睦を申し入れ、
これを信じたギリシャ人部隊の指揮官たちは丸腰で交渉に臨むが、
ペルシャ軍は彼らを殺してしまう。

指揮官も失い、残された傭兵たちは絶望するが、
クセノフォンが立ち上がり、多大の辛苦を乗り越えて、故郷へ戻るべしとの演説をする。
新指揮官に選ばれたクセノフォンの指導の下、
武装したままの傭兵部隊の数千キロに及ぶ逃避行が始まった。

追撃するペルシャ軍、敵対する諸民族、だまし討ち、
悪天候、アルメニア山地の見知らぬ地理、・・・・。
壮絶な苦闘の末、黒海沿岸に出て、船に乗り込み、故郷に戻ることができた。

アナバシスは一大活劇として、古代ギリシャ文学の最高峰の一つとされる。
平易な文章のため、初級ギリシャ語学習本としても、使われたという。

この本を読んで、思ったのは、
・アレクサンドロス大王のペルシャ征服より100年近く前から、
 ペルシャ人はギリシャ人の重装歩兵戦術を恐れていた。
・ペルシャ領内の地理をギリシャ人が学んでいた。
・ペルシャ帝国版図として、歴史地図に書かれる領域内でも、
 ペルシャ大王に従わない諸民族が多数いる。
 近代国家の領土のイメージとは違う。
など。

ぜひとも、この物語を、映画や漫画にして、世間に知らせたい。

澤田吾一

2005年01月19日 | 人物
奈良時代の日本の人口を600万人と計算した人。

私は高校時代までは数学が得意でしたが、文系に進んでしまい、
完全に数学を忘れてしまいました。
シグマ記号やら、微積分記号など、確かに高校時代は使っていたのだが、
どういうものだったのか、脳内から完全消滅しています。

その昔、昭和の初め、澤田先生は数学の教科書を執筆するなど、
数学の世界では有名でした。
数学の大先生だったわけです。
澤田は東京高等商業(現一橋大学)を定年退官すると、
元々興味があった日本史を学ぼうと思い立ち、
60歳で東大国史学科に入学しました。
若い学生たちに混じって、史学を専攻したわけですが、
卒業論文が他と違っていました。
統計学、推計学などの数学の知識をフルに活用し、
正倉院などにわずかに残る統計資料を元に、
奈良時代の日本の人口を計算して見せたのです。
その数、600万人。
平城京の人口を20万人。
(近年の研究では平城京10万人程度というのが有力です)
そんな計算、文系人間には真似できないものでした。
文系に進んだことで、数学力はさび付きます。
当然、歴史学者たちには数学的史学研究という分野を生み出すことは不可能でした。
澤田吾一先生は数学と歴史という異なる世界を結んで、新たな世界を広げたのです。
60過ぎた人でも、すごい業績を残せるのですね。

それと文系と理系を分けるのは、とんでもない損失だと思いませんか?

【参考】ありの巣から奈良時代の人口まで

九州歴史資料館

2005年01月18日 | 博物館
九州歴史資料館
大宰府駅から相当歩いて、たどり着いた。
登り坂がきつい。
5角形の建物は立派だ。
階段がきつい。

受付でアンケート記入して入場する。無料だ。
建物の立派さに比べて、展示室は大きくはない。
資料のほとんどは倉庫に入ったままなのか?

講師みたいな人に率いられた学生グループが見学中であった。
専門家向けなのかな?

大宰府資料だけでも相当量あると思うが、
大宰府だけでなく、九州全体の資料を集めている。

隣では大工事をしていて、九州国立博物館を建設中らしい。
東京上野、京都、奈良、千葉佐倉に続く、国立博物館をここに作るそうな。
完成したら、この資料館はどうなるのかな?


鴻臚館

2005年01月17日 | 遺跡・史跡
鴻臚館跡展示館
鴻臚館跡

福岡城跡の中に鴻臚館跡が発見され、そこに展示館が作られている。
平安時代の迎賓館である。
展示館に入場する際、受付でどこから来たかのアンケートを書く。
受付の人はいたってのんびりしたおじさんだった。
空調が入っている中に入ると若い男性が一人だけ熱心に見学していた。

発掘した穴が、再現され、鴻臚館の復元想像した一部の建物を展示している。
遠くイスラムの青磁器の破片とか、トイレとか。

福岡城は広い大濠公園になっていて、ところどころに史跡が残っている。


二俣城

2005年01月16日 | 城・神社・仏閣
二俣城址

静岡県天竜市の城跡。
入り口に入ると、いきなり音声ガイドが始まる。
教育的な場所だ。

しばらく散歩道を上っていくと、城跡にたどり着く。
天守の土台の石垣が残る。
天守の周りが芝生広場になっていて、レジャーシートを広げて、のんびりできる。
説明ガイドの掲示板が何枚かある。
とくに資料館のようなものはなく、芝生があるだけの公園だが、
誰もいないので、のんびり過ごした。

ここから歩くと、天竜川に出る。
竹林には休憩所が設けられていて、適度な散歩道だ。
竹の子の成長がすごくて、舗装された歩道が、ボコボコになっている。
竹の子が舗装を破って出ようとしているのだ。

天竜川を少し下ってから、山道に入ると、鳥羽山公園があり、ここの眺望がすばらしい。
鳥羽山公園自体も鳥羽山城の跡地で、石垣等が残っている。


大宰府政庁跡

2005年01月15日 | 遺跡・史跡
大宰府政庁跡
大宰府政庁跡

大宰府駅から離れているので、タクシーで行った。
真ん中に礎石が残っている、大きな原っぱの公園となっている。
資料館が付属している。

草ぼうぼうで、とても広い。
桜の木がたくさん植わっていて、春は桜の名所になるのだろう。
トイレはきれい。
子供連れに適しているかも。

大宰府、って、昔の九州の海の玄関口というイメージでいたから、
電車に乗って大宰府を目指したら、
意外と内陸にあるので、驚いた。
海からずいぶん離れている。
こんなところに水城を作ったんだね。山の上から、かろうじて博多湾が見えるぐらいじゃないのかな。
何で海のそばじゃないのだろう?

少年ダビデと巨人兵ゴリアテ

2005年01月14日 | 人物
古代イスラエルの王となるダビデが少年の頃、
巨人戦士ゴリアテを倒す聖書物語は欧米人にとってなじみの深いものだろう。
この逸話は信仰の厚いダビデの勇気と、
神を嘲って武力に頼る暴虐なゴリアテの決闘の結末から、
信仰の大切さを学ぶ教訓として語られる。

この逸話に関する聖書の記述をよく読むと、
軍事技術の変化が背景にあることも伺えるのが面白い。

古代イスラエル人はペリシテ人との戦闘に破れ、その支配下におかれてしまった。
ペリシテ人は鉄の精製に長じ、強力な武器を製造することができた。
さらに厳しい訓練を施した専門の戦士を養成する。
重量級の鎧兜や槍、大盾といった、重厚長大な武装で、敵陣に突っ込み、全てをなぎ倒す。
例えば、サムエル上17章によると、ゴリアテは少年時代から戦士として訓練を受け、
両肩に胴の投槍を装備した鎧の重さは5千シェケル(数十キロ)、
槍は鉄製で機織工の巻き棒のようで、6百シェケルの重さで
アニメの巨大ロボットみたいな形だが、
大盾を持つことはできず、
別に大盾を持つ専門が同伴する。
そして完全防御体制+巨大槍+武芸の達人という破壊力で、敵を粉砕する。

イスラエル人を支配下に置いたペリシテ人は、
イスラエル人が鍛冶屋になることを禁じた。(サムエル上13章)
武器の製造技術を独占するためである。
米国が占領下の日本の航空機開発を禁じたのと同様だ。
イスラエル人は鋤や鎌のような平和目的の道具ですら、
ペリシテ人に頼んで砥いでもらわねばならなかった。

イスラエルが王政を組織し、ペリシテ人に抵抗するようになる頃、
農民出身の少年ダビデは、羊飼いをしていた。
両陣営が対峙する中で、ゴリアテが進み出て、イスラエル軍に対し、
自分と決闘するように挑発する。
イスラエル兵は皆恐れて、挑戦に答える者がいなかった。
ダビデはまだ少年だったが、怒りに燃え、ゴリアテに自分が立ち向かうと言い出す。
そこで、イスラエル王サウルは、ダビデに鎧を着させようとする。
鎧も剣も未経験のダビデは、結局、それらの武具を取り外す。
身軽になったダビデは、羊飼いが使い慣れた石投げと滑らかな川石を持って、
ゴリアテに対峙した。

結果は、ゴリアテの完全防御体制の中の唯一の穴である眉間に、
ダビデの投石が命中し、勝負がついた。

重武装 vs 軽武装 の戦いと見ることができる。
結果は予想外の飛び道具を持った軽武装が勝利した。

同じような出来事は歴史上、幾度も繰り返される。

侍軍団を百姓出身の徴兵軍団が勝利したり、
巨砲を誇る戦艦大和を航空機軍団が沈めたり、
巨大企業を小さなベンチャー企業が市場競争で倒したり・・・・。

ダビデとゴリアテの物語は、こうした小が大を倒す最初の例としても、面白い。

東高根森林公園

2005年01月13日 | 遺跡・史跡
東高根森林公園
神奈川県立東高根森林公園

川崎市にある県立公園。
ちょっと場所がわかりにくいので、たどり着くまで迷ってしまった。
東名高速道路が走っている脇にある公園だった。

普通の芝生広場が、実は弥生時代の集落跡が埋まっている場所らしい。
史跡に指定されてるが、ごくごく普通の芝生広場だ。
掲示板があるだけだが、そこを「古代芝生広場」という名前で呼ばせている。
「古代植物園」というところもある。
「古代・・・」と名称をつければ、ありがたい気分になるのだろう。


沼津御用邸記念公園

2005年01月12日 | 博物館
沼津御用邸記念公園
皇室ゆかりの屋敷と庭園。
入り口に明治時代の警吏みたいな服装の人が直立している。
雰囲気を出そうとしているのだろう。
西の邸宅が公開されていて、ここに入るのに入場料を要する。
東の邸宅は庭園のみ入れる。
西の邸宅は意外と質素だった。
もちろん一般人の家よりずっと豪華だが、寝室などは旅館の部屋とさほど変わりは無い。
廊下部分も畳敷きの部分が多いのは面白い。
女官の部屋とか、調理場などは、「大奥」の小型版みたいだ。
ガイドさんが常駐していた。

庭園は広く、海に面したところは芝生広場になっている。
海の景色はきれいだ。
でも富士山が見える位置ではないらしい。
歴史民俗資料館が併設されていて、沼津の漁師たちの道具などが展示されている。
歴史資料館では珍しく、石器時代の石器のような眉唾物などは無い。

戸田村立造船博物館

2005年01月11日 | 博物館
戸田村再発見
西伊豆戸田村の御浜岬から見る富士山は絶景だ。
御浜岬の港側には砂浜があり、遊ぶことができる。
そんな御浜岬の先端にあるのが造船博物館である。
駐車場は広い。
幕末にロシアが日本に派遣したプチャーチンと津波で遭難したディアナ号、
洋式帆船の戸田号の造船についてなどが展示されている。
ガイドさんが、あれこれ講義してくれる。
村のボランティアらしい。
でも時間が無いために、ゆっくりと見学しなかった。

なお深海海洋博物館がくっついている。
深海の生物のホルマリン漬けなどが展示されていて、
専門で無い人にとって、気持ち悪いものだった。

土肥金山

2005年01月10日 | 博物館
土肥金山
西伊豆の土肥の金山資料館。
入場門に人形の門番が立っている。
坑道に入ると、ガイドの音声が始まる。
センサーで動く仕組みだ。
電気人形の展示がいくつもある。
水汲みの場所では湿度が高くて、眼鏡がすぐに真っ白になった。
江戸時代に坑道を掘り進んだときは、坑内は温泉の水が出てきて、温度が高く、裸同然で働いていたらしい。
坑内で女性も数多く働いていた。
坑内風呂の展示では、入浴中の女性の人形が、スタイル抜群の美女だったのは、笑える。
あんな美人が金鉱で働くかしらん?

坑道を出ると、順路に従って、資料館に入る。
大久保長安の人形なんかがある。
金塊や200キログラムの巨大金塊にさわれる。
砂金体験館もあるが、別料金となる。
お土産売店は広い。
金箔入りの各種食べ物や、金細工など、金関係が多い。

駐車場が広く、西伊豆観光の定番の場所なのだろう。
充実した見学コースとなっている。